第73話 魔獣
予想通り、私が動くと、魔獣は私を追うようにして走り出した。だが当然魔獣の方が足が速いので、あっという間に追い付かれ、私にかじりつきたいという欲望丸出しでこちらに飛び掛かってきた。
なんとかそれを身体をよじって避けたが、勢い余って畑の中へと転がり込んでしまった。泥がぬかるんでいて、より一層身動きがとりづらい。そんな私に向かって、もう一匹が飛び掛かってくる。万事休す。
「っ!」
ふと、目に入ったものを、私は咄嗟に直感的にその魔獣の口の中に放り投げた。パンパンに膨れ上がったバクダンは、その衝撃のせいか、魔獣の口の中で爆発した。喉奥に皮の破片が飛び散り、その爆発の衝撃で、魔獣は悲鳴を上げて怯んだ。
私は近くに生えていた大根をかたっぱしから引っこ抜いて、魔獣に投げつけた。水を得た魚のようにしなびた大根はみるみるうちに大きく成長し、魔獣に噛み付く。よし、これであと一匹に何かすれば、時間稼ぎくらい、
「な、」
そう思った自分の考えがどれだけ甘かったか、理解した。もう一匹が、私に飛び掛かってきていたのだ。咄嗟に避けようとしたが今度は間に合わず、魔獣の爪が左肩から背中にかけて食い込んだ。
「ぐ、っ!」
焼けるような痛みに、目が眩んだ。自分からは傷口が見えないが、破れた服の肩口がみるみるうちに赤く染まっていくのが見える。深い傷を受けてしまったようだった。初めて感じる、あまりに強い痛み。私は思わず呻いて、地面に膝をついた。息が浅くなり、眩暈がする。
大根に噛み付かれていた魔獣は自分の身体に向かって口から炎を吐き、それらを燃やし尽くしていた。その炎が他の作物に引火し、燃え始める。三体の魔獣は怒ったように私を見つめていて、もはやここまでかという状況だった。
……死ぬんだろうか。
頭の中に、色々な光景が浮かんでは消えていった。
母さんとの思い出。
街へ行った時のこと。
みんなと過ごした日々。
新しい生活に慣れようと頑張ってきた毎日。
母の病気を治そうと奮闘した毎日。
色々、大変だった。
まだまだやれることも、やりたいことも、たくさんあった。
私は死ぬんだろうか。『また』、『私』は死ぬんだろうか。
交通事故に遭った時の記憶が蘇る。
『私』の両親の顔。『私』が過ごした日々のこと。
……夢のような、時間だったのかもしれない。
もしかすると、ここで死んで、目が覚めれば『私』に戻っていて、病院で目が覚めるとか。きっと、両親が目を覚ました『私』を見て、大泣きして喜んでくれて、奇跡だとか担当医に言われるんだ。
……じゃあ、私はどうなるの?
『私』だった時のことを思えば、もしそうなれば、とっても幸福なことだ。でもそれは同時に、レノである私の死を意味する。今ここで生きているのは私であって、『私』じゃない。
ここで私が死ねば。
レノが死ねば。
……魔獣は次に、何を狙うだろう?
魔獣がゆっくりと近づいてくる。雨なのか血なのか分からない液体が、服の内側の腕を伝い、指からぽたぽたと落ちていく。
「守らなきゃ……」
レノが死んで全部終わるなら、それでも良い。でも、現実はそうじゃない。私が死んで、このまま魔獣が引き下がるのならいいが、その確証もない。
村が全滅するかもしれない。倒れてるリアムも、少し先にある我が家にいる母も。みんな、死んでしまうかもしれない。
「まもらなきゃ、」
ふう、ふう、と息が上がる。背中が痛い。燃えているように熱い。降り注ぐ雨粒が鬱陶しい。びっしょりと濡れた前髪を払い、私は目の前の魔獣を睨みつけた。
「わ、たしが、」
地面に手を当て、膝をついて。それでもなんとかしなくちゃ、と奥歯を噛み締めた。
殺されてたまるか。死んでたまるか。
リアムが言っていたじゃないか、みんなで助かるんだ。
私が犠牲になって解決しないのであれば、誰だって犠牲になんてさせない。痛みで頭がぼうっとする中、私は地面に向かって拳を握りしめた。
「なんとか、するから……!」
ぞわりと、身体から何かが地面に吸い込まれていくような感触があった。
と同時に、目の前の魔獣の足元から、土でできた拳のようなものが勢いよく飛び出てきた。咄嗟のことに魔獣は避けられず、三匹とも、されるがままにその拳に無警戒な腹部を下から突き上げられた。五メートル近く上空まで吹っ飛び、そのまま重力に従って地面へと叩きつけられる。
「……な、なにが、」
何が起こったのか、私には分からなかった。だが魔獣たちは痛みに呻きながらも、私に飛び掛かってくる。
無我夢中で、私は自分を守るように思わず両手を前に突き出した。すると、その私の腕の動きに合わせるかのように、目の前に炎が巻き起こる。負傷した左手から飛び散った血の雫の動きと同じように、しかしそれよりもずっと広範囲に、真っ赤な炎は雨粒を蒸発させながら私の周囲に広がった。
その炎は意思を持つかのように、一番近くにいた魔獣に襲い掛かった。全身を炎に包まれた魔獣は暫く苦しみから逃れるように身をよじっていたが、やがてサラサラとした灰になり、その場から消えた。
残り二体となった魔獣は、警戒するようにこちらを睨んで唸る。訳が分からないままに、それでも私は、どうにかして残りの二体を倒したいと思った。だが、それと同時にぐらりと視界が揺れる。まるで貧血になったかのように、手足の感覚が頼りない。本当に貧血なのかもしれないし、もしかすると、魔力を使い過ぎているのかもしれない。
今の、土から生えた拳や、突然湧き出た炎が、魔法だということくらいわかる。ただ、どうやって使ったのかが分からない。魔法の使い方が分からなければ、私が魔法を使えるとしても、残り二体に対応できない。私は何度かぶんぶんと腕を同じように振ったのだが、うまくいかなかった。魔力切れなのだろうか?
「く、くそ、くそぉっ……!」
ここまできたのに。私は死ぬのか。二体が牙をむき出しにして、唾液をまき散らし、こちらに走り寄ってくる。あの大きな口でかぶりつかれたら、ひとたまりもないだろう。
死にたくない、死にたくない、死にたくない。私は怖くて、目を閉じた。
「誰か、」
助けて。
その瞬間、温かい風が吹いた。
魔獣の吐息だろうか?
いや、違う。そんな生暖かいものではない。
もっと穏やかな、まるで寒い日、暖炉の火に手をかざした時のような。優しい、温かみ。
思わず目を開く。すると、目の前に迫っていた魔獣は二体とも炎に包まれていて、灰になるところだった。
……私がやったんだろうか。また、無意識に?
なんにせよ助かったなら良かった。そう思って立ち上がろうとして、背中がずきりと痛んだ。頭もくらくらする。今すぐに、このベッドのような泥に身体をうずめ、眠ってしまいたい誘惑に駆られる。
「深いな」
すぐ後ろから低い声がした。と同時に、傷跡を指先でなぞられる感覚があって、あまりの激痛に思わず悲鳴を上げた。
「すぐには治せん。が、気休めにはなるだろう」
そう言って、低い声の持ち主は私の傷跡を再度指先でなぞった。あまりの痛みに逃げ出そうとしたが、反対の手でがっしりと肩を捕まえられているうえ、上から抑えつけるように体を拘束されているため、身動き一つ取れなかった。
「い、痛い、痛いんだってば!」
文字通り泣きながらそう叫んで、男(声が男だった)の拘束から抜け出した私は立ち上がり、振り返った。一体こんなひどいことを誰が、と思ったのだが、その顔を見て私は言葉を失った。
「あなたは、」
真っ黒なコートに、フードを目深にかぶった男。縦に長くて陰気そうな雰囲気。そのフードの奥からは、真っ黒な瞳がこちらを向いていて。
「どうして、ここに」
一度見ると、なかなか忘れられないものだ。彼の頬には、首筋までの大きな傷跡がある。名前は知らないが、この男は一度、父の御者としてここへやってきていた。……どうしてその彼が、ここにいるんだろう。
「食べなさい」
男は私の質問を完全に無視して、私に手を差し出した。黒い革の手袋の上には、赤い小さな実が三粒転がっていた。これも見覚えがある。元気爆発回復実だ。
「君は一度に魔力と血を失い過ぎた。さっさと食べなさい」
頭で物事を考える余裕なんて、今の私にはなかった。急かされるようにして、その実を口へと運ぶ。それを噛んだ瞬間、甘酸っぱい味が口の中に広がったと同時に、全身がカッと熱くなるような感覚があった。
それは、以前ならば気持ち悪い感覚が広がるはずだった。しかし、今はまるで、疲れ果てた時に入る温泉のような心地よさがあった。疲労が溶けていくような感覚に、雨で冷え始めていた手足の先までぽかぽかとするような感覚。そして、私はやっとここで気付いた。先ほどまであんなにも痛かったはずの傷口が、今はもう、痛くないことに。
「あなたは一体、これはどういう、」
聞きたいことがありすぎて混乱しながらも言葉を紡いだが、男はやっぱり私の言葉を無視した。
「魔獣を倒したのは、全て私だ」
「はい?」
「君がその力を使えることも、そしてそれを使って魔獣を倒したことも、絶対に誰にも漏らさないように」
「は、はい?」
言葉は聞こえているが、脳がそれを理解するのを嫌がっている。先ほどの残りの二匹を倒してくれたのは、無意識の私の魔法ではなく、この男だということだろうか? そうなると、それはつまり、この男は魔法を使えるということだ。もしかして、騎士団の人間だったのだろうか。それにしては到着が早すぎないか?
なんにせよ、目の前の男は命の恩人だ。だが、それに対する感謝の気持ちを伝えなくてはならないという意識よりも先に、混乱している頭の中には疑問ばかりが次から次へと湧き出していた。
「奴隷になりたくなければ、そうしなさい」
「いや、どういうことですか? あなたは騎士団の人だったんですか? そもそも、」
「君が」
男は私の言葉を遮った。
「私に質問攻めしている今この間にも、君の村の人たちは傷ついている。それは分かっているな?」
私はハッとして口を覆った。目の前の危険はこの男によって取り去ってもらえたが、ダミアンさんたちの方にはまだ、魔獣がいるはずだ。男は光を灯していない瞳で私をじっと見た。
「魔獣退治は私の専門だ。もう心配ない。こんなところでふらふらしていないで、さっさと他の者と合流しなさい」
そう言って男はその場から、文字通り風のようにいなくなった。きっとダミアンさんたちの方の魔獣を倒しに行ってくれたのだろう。……言いそびれたけど、助けてくれてありがとう。と、心の中で呟いた。騎士団の人なら、後で避難した先で会えるかもしれない。その時にでもちゃんと伝えよう。
あの男には他と合流しろ言われたが、ひとまずは目的を果たさなくてはならない。私はリアムを担ぎながら、急いで自宅へと向かった。
入口のところにリアムを座らせて、壁にもたれかけさせた。先ほどの男の言葉が本当なら、あの男の力で、すぐにでもこの村から危険は去るだろう。もしかすると、もう騎士団が到着しているのかもしれない。しかし強かった、あの男。それとも、あの三体が弱かったのだろうか? 前回の魔獣と見た目が同じような気がしたが、強さが全然違うのかもしれない。だって、騎士団の人間が束になって戦っていた魔獣を、あんなにも一瞬で倒してしまえるなんて。
危険は去っただろうとはいえ、狩り残した魔獣がうろつかないとも限らない。あの男は四体魔獣がいたと言っていたが、実はもっといました、とかいう展開になるのは怖い。やはり、なるべく早く母を連れてみんなと合流して、団体行動をした方が良いだろう。意識の無いリアムと、病にかかっている母と、応急処置しかできていない私の三人では、何かあった時に対応が出来ない。母さんが眠った状態だったらどうしようかな、なんて思いつつも、玄関の扉を開いた。
「母さん?」
家の中は真っ暗だった。
やっぱり母は体調を崩して、寝室で眠っているのかもしれない。雨が降り込んでこないようにと扉を閉めようかと思ったが、本当に真っ暗になってしまうので、私はひとまず部屋に明かりを灯すことを優先させた。
家を出るときに置いておいた蝋燭が、テーブルにあるはずだ。手燭に明かりを灯し、それを片手に寝室へ進もうとして、ふと気付いた。室内に、違和感があるのだ。
「………?」
それはまるで、『私』が学校から帰ってくると、自室が母によって掃除されていた時のような感覚。大きな変化はないが、朝出たときと、微妙に何かが違っているような気がする感覚。誰か別の人間が、この部屋に入ってきた痕跡があるかのような感覚。
私は手燭を掲げて、部屋の中を照らした。といっても、蝋燭の明かりは頼りなく、外から吹き込む雨風にその明かりを細長く揺らした。薄暗い室内はハッキリとは見えにくい。
物盗りの犯行だろうか? 最初に私が疑ったのは、その可能性だった。
魔獣を操る悪い人が、どさくさに紛れて村の貴重品をかたっぱしから盗んでいったとか?
……でも、それにしては部屋の中が荒らされていないのが気になる。
犯行の発見を遅らせたかった?
いやいや、そもそも魔獣で家々を焼き払っていたのだ。わざわざこっそり丁寧に物を盗む意味がない。
「母さんは、母さんは?」
感じた違和感は、私の勘違いなのかもしれない。母が一度起きて部屋の中を動き回って、でもやっぱり体調が悪くなって寝込んだのかも。魔獣の出現で、私もすっかり警戒心が高くなっているのだろう。
私はとにかく母の無事を確かめたくて、薄暗い部屋を迷うことなく進んだ。この家で何年も生活し続けてきたのだ。明かりが無くたって、何かに足を引っかけることはない。
「母さん!」
寝室の扉を開けて、私はベッドに駆け寄った。そして、言葉を失った。
「………母さ、ん?」
ベッドは、もぬけの殻だったのだ。




