第70話 予兆
この朝も、いつも通り私は家を出て、サロメたちと一緒に朝の収穫を行った。
下処理を終わらせた後は、みんなで森へ採集に向かった。
森に入ると、緑豊かな木々が生い茂り、私たちの行く手を阻んでいた。平地より少しだけひんやりとした空気を吸いながら、頭上を高く生い茂る木の枝を避け、根っこに足を引っかけないようにしながら、ヒューゴを先頭に私たちは森の奥へと入って行く。
春先だからか、柔らかい木の芽がそこかしこに見られた。虫に食われたりしていないか注意しながら、私たちは春の恵みを採取し始める。木の実を拾ったり、木の芽を摘んだり、山菜を取ったり。
『春の日』はすでに終わっているので、今採取しているものは無事に私たちの胃に収められるものになる。だからか、みんないつもより張り切っていろいろなものを籠の中に放り込んでいるようにも見えた。私もみんなに置いて行かれないように、せっせと甘酸っぱい黄色い果物や苺を出来るだけ摘んで籠の中に収めた。
体力爆発回復な赤い実は、なぜか年中無休で生えているらしい。群生場所も規則性がないので、見つけようと思うとなかなか難しいのだが、一度見つかれば、そこでいつでも採れるようになる。置き薬的な意味も込めて、私はいつも採取している場所から一定量だけ拾っておいた。
「サロメ、籠、重くない? 僕のと交換しようか?」
「交換って……ボーモン、まだ何も拾ってないの?」
「そうじゃないよ! 僕は軽いものをたくさん拾ってるんだ。サロメの籠には結構重そうな果実も入ってるし、もしよかったらと思ってさ」
サロメが疑うような視線を向けると、ボーモンは心外だ! という顔で籠の中身をサロメに見せていた。サロメは中身を確認した後、肩をすくめていた。
「木の芽ばかり摘んではダメよ。全部採っちゃったら、もう二度と生えてこなくなるって教わったでしょう?」
「もちろん、そんなことはしてないよ! ただ僕は、サロメが疲れてやしないかって心配で、」
「そう、それはありがとう。気持ちだけ受け取っておくから、良かったらあっちにたくさん山菜が生えてるんだから、そこで一仕事してきたら?」
ボーモンがサロメの周りをうろちょろしているので、サロメはうんざりといった様子で投げやりに向こうの茂みを指をさしていた。私はそんな二人のやり取りをくすくす笑いながら通り過ぎ、マルタンのところへと向かった。
マルタンは、しゃがんで何かを採っていた。なんだろうと思って覗き込むと、そこには茶色の何かが土から生えているのが見えた。一瞬、色と形でツクシに見えたが、こんな太いツクシがあるわけがない。私は不思議に思ってその場にしゃがみこみ、一本手に取ってみた。
「レノ。根から採るなよ。ナイフを使うんだ」
硬くて長細いそれをどう引っこ抜こうかと思っていると、マルタンが隣から呆れた声を出した。そちらを見ると、マルタンが土に近いところで茎をナイフで切っているのが見える。そうやって採るのか、と学んだ私は、腰につけたホルダーからナイフを取り出し、一本採ってみた。
「……アスパラガス?」
どうやら、これは茶色いアスパラガスのようだ。緑か白のイメージが強かったので、これは本当にアスパラなのかどうかも怪しい。だが形が『私』の記憶のアスパラと一致している。……うーん、茹でて塩でもかけたらおいしいかな?
「それはアスペルージュ。……知らないのか?」
素直に頷くと、マルタンはアスペルージュを収穫しながら話した。
「アスペルージュはこの時期のものが美味いからな、出来るだけ全部採っておくんだ。いや、食べるためには、この時期にしか採らないっていう方が正しいかな」
「食べるため以外に採ることがあるってこと?」
話が早いな、とマルタンは満足そうな顔で頷いた。
マルタンによると、アスペルージュは春先が旬で、この時期に採れる柔らかい茶色の状態のものが一番美味しいらしい。だがこのまま放っておけばぐんぐん伸びて、夏には下手をすると、私の身長くらいの長さにまで成長してしまうとのことだった。また、成長するときに色を変え、赤、白、緑といった色とりどりの長細い棒のようなものになってしまうらしい。
「色を付け始めると、すっかり硬くなって、もう味も悪くなってしまうんだ」
一メートルまで伸びたそのアスペルージュを使って、貴族たちが遊ぶらしい。要はそういう何かスポーツがあるらしいのだが、マルタンはそこまで詳しいことは知らないと言っていた。だが硬いと同時にしなやかで、状態の良いアスペルージュは高値で売れることがあるらしい。
「じゃあ残しておいた方がいいんじゃないの?」
全部採ってしまったら、また伸びてくるまで時間がかかるだろう。そう思って言ったのだが、マルタンは、これだから世間知らずは、という顔で首を横に振った。
「アスペルージュを特産にしている村は他にも幾つもある。そこと競っても、大した稼ぎにはならないよ」
そんなことより腹を満たす方が先だ、と言ってマルタンは籠の中に茶色いアスペルージュを片付けた。そりゃそうだ、と私もマルタンと一緒に立ち上がり、ナイフを腰のホルダーに戻した。
その後もソラマメみたいなのが入っている大きなサヤを収穫したりしていたが、ふと喉の渇きを覚えた。近くで作業していたマルタンに声をかける。
「ねえマルタン、喉乾いたんだけど、この辺って飲み水どこにあるかな」
「ああ、それなら……、」
「あっちに湧水があるぜ」
同じようにサヤを収穫していたマルタンが辺りを見渡していると、上から声が降ってきた。なんだ? と思って見上げようとした瞬間、頭上の枝がしなり、ガサリと音が鳴ったと思ったら、大きな影が落ちてきた。
「うわあ!」
びっくりして思わず声を上げてのけぞると、そこには自慢げな顔をしたヒューゴが立っていた。どうやら木の上で作業をしていて、私の声が聞こえたらしい。
「レノ、こっちだ」
私を驚かすことで大満足したらしいヒューゴは、ご機嫌な顔で私の腕を掴んだ。そのままぐいぐいと引っ張ってくるので、私はそちらに足を向ける。マルタンも水分補給は定期的にした方が良いよ、という気持ちでマルタンを見ると、作業に戻ろうとしていたマルタンは、やれやれといった顔で仕方なさそうに後をついてきてくれた。
ヒューゴについて歩いていくと、少し離れたところに水が沸いているところがあった。私たちは岩と岩の間からちょろちょろと湧き出てくる冷たい水を手に取り、順番に飲んだ。渇いた喉に、ひんやりとした水が心地よい。満足するまで飲んだ後、私は息を吐いて口元を拭った。
「やっぱりヒューゴ、頼りになるね! ありがと!」
喉を潤した私はご機嫌になってヒューゴに声をかけた。一番に水を飲み終わっていたヒューゴは、そうだろ? と胸を張った。
「知識ばっかでロクに森の中を探検してねーマルタンよりも、ずーっと俺の方がすげーだろ!」
そう言って、ヒューゴは水を飲んでいるマルタンをちらりと見た。水を飲み終えたマルタンは、口元を拭いながらも、じろりとヒューゴを睨む。
「どちらが優れているかというのとは、また違うだろ。ヒューゴはヒューゴにある知識を活用すればいいし、僕には僕にある知識を活用すればいい。それだけの話さ」
「はっ、負け惜しみか? 薬草ばっかり集めても、喉が渇いたときに水を飲む場所さえ知らねえなんて。せいぜい、森には一人で入らねーことだな」
馬鹿にしたようにヒューゴが笑った。ムッとした顔のマルタンが何やら反論していたが、私はふと考え込む。
……つまり、森の中の地理状況は、村の人の中で完璧には共有されてないってわけだよね? 村の人間は、幼い頃からこうして近くの森へ足を運ぶ。だが、例えばこんなに威張っているヒューゴも、村の東側の森の中については詳しくない。逆を言えば、東側の森を知っている子供も、こちら側の地理は分からない。
恐らくは成人見習いの間に、この辺りの森の中に入り、狩りの日に向けて実地訓練という形で色々なことを覚えたり勉強したりするのだろう。……でもそれって、なんか勿体なくない? せっかく森の中について正しい地理感覚を持っている大人がいっぱいいるんだったら、別に大人の男だけじゃなくて、例えば女の子だって分かっておいた方がよくない? こっちは危ないから行っちゃいけないとか、水を飲む場所があるとか、崖があるよとか。
「ねえ、マルタン。地図は無いの?」
「なんだって?」
口論に発展しかけていたマルタンとヒューゴが、私の問いかけに一旦停止する。二人の視線が向けられたので、私は自分の考えを説明した。
「地図だよ、この森の地図。そんなに詳しいものじゃなくてもいいけどさ、知識は共有できた方がよくない? 別に成人した男だけが森の中のことを知ってればいいわけじゃないんだし、女の人や、子供だって分かってた方が絶対良いよね。だから地図があれば便利だろうなって思って」
知識が共有されていないし、共有すべきだという発想もない。となると、地図がないと考えた方が良いだろう。私のその予測は当たっていた。ヒューゴどころかマルタンでさえも、なんだそれは、と首を傾げていたのだ。
私は地図が何なのかを簡単に説明し、それを作れないかと話した。
「森の中を歩くっていうのは、道とか、空気とか、知るためには必要な経験だと思うんだよね。ただ、先に知識として、この先に水が飲めるところがあるとか、ここは人が通れる場所じゃないとか、そういうのを知っておいた方が絶対良いと思う」
「確かに、レノの言う通りだぜ。じゃあチーズ、作ろうぜ!」
私の提案に、ヒューゴが最初に乗っかった。便利じゃん! ということでノリノリだったが、その隣でマルタンが頭を抱えてため息をついていた。どうやらマルタン的には、ノリノリで賛成できるような提案ではなかったらしい。
「何かダメなことがあるの?」
「ある。大有りだ」
「はぁ? すげー便利になるって話じゃねーか。マルタン、レノの才能にシットするのは、男として見苦しーぜ」
マルタンは大きなため息をついて、私を見た。ヒューゴのことは完全に無視すると決めたらしい。
「無理な理由は沢山あるが、まず、その地図というのは一体何から出来てるんだ?」
「何からって……」
地図といえば、紙から出来ている。その紙と方位磁石をもって歩くのが、『私』にとってステレオタイプな地図の使い方だ。とはいえ、『私』はあまりその使い方に慣れていない。義務教育中に一度か二度そのやり方で山を登らされた経験があるくらいで、随分とそんな風には歩いたことがなかった、できればスマホのアプリで位置情報を確認しながら歩ければ一番なのだが、そこまでの欲は言うまい。
「確かに羊皮紙は高いだろうけど、とりあえず一枚作ってみて、それをみんなで回し読みすればいいじゃん」
教材として決まった家に置き、寺子屋のように子供たちを集めて地図を見せるとか。その地図片手に森の中を探検する日を作るとか。色々な案が私の中には浮き上がっていたが、マルタンは首を横に振った。
「ダメだ。その地図っていうのは、たぶん、すごく危険なものになる」
「危険?」
「ああ。……だって、それがあれば、この森のことが全部分かるってことだろ? だったら、それは悪い風にも利用が出来るってことだ」
マルタンが言うには、例えば地図が内密に誰かによって複写され、第三者の悪い人間の手に渡った場合。この村や森の地理状況を全て把握されてしまう恐れがあるという話だった。
「村や森のチリジョーキョーが分かったら、何がダメなんだ?」
私は更に表情を曇らせたが、ヒューゴはきょとんとしていた。マルタンはそんなヒューゴに呆れたような視線を送る。
「泥棒に入りやすいってことだよ。悪さだって、なんだって出来てしまう。ここは地形も入り組んでないし、盗賊がやってきたら、すぐにやられるんだ。だから、もしもに備えて、大人たちは森に逃げられるように道筋を考えてる。……って、兄さんが言ってたんだ」
自警団の兄を持つマルタンならではの知識に、私は納得した。盗賊が現れた時に、大人の男たちは総出でそれを迎え撃つだろうが、その間、女子供たちの居場所がない。そういう時のために、みんなは森へ逃げ込む算段を立てているのだと言った。……となると、じゃあ地図じゃなくて、避難訓練とか提案した方が良いってことかな?
地図を作るというのは反対だけど、地図という発想で、またガスパルに何か新しいものが売れるかもしれないぞ、とマルタンが言った。うーん、お買い物マップとか? 私は商店街を食べ歩きするような商店街マップを頭の中に描きながら、みんなと一緒に作業へと戻った。
夕方には森を降りて、サロメの家に戻ってきた。分配所のテーブルのところにはすでにロジェがいて、村人に順番に今日の分を配っていた。
私は空にした籠を持って、ロジェのところへと向かった。
「ああ、レノ。そういえば、マルタンから聞いたよ」
ロジェは私の姿を見るなり、にこりと笑って声をかけてきてくれた。私は小首を傾げながら、籠の中に今日の野菜を入れてもらう。
「何を?」
「次の商品だよ。ええと、まなくりいむ? だっけ? ミルクを元にしてるんだろ? 一体どんなものが出来上がるのか、今から俺も楽しみで仕方ないよ!」
どうやら生クリームのことを言っているらしい。ただ、それには泡立て器を作ってもらうのが先だ。今の状況でも生クリームを作れなくはないだろうが、そもそも泡立て器自体を開発してもらいたいので、生クリームの詳しい作り方はまだガスパルに教えていない。
更に言えば、生クリームが商品化するには、まだまだ時間がかかるはずだ。というのも、生クリームは長期保存に全く向いていないうえに、作った後は冷蔵庫に置いておかないといけないという制約がある。
つまり。生クリームを使ったスイーツを作ると言うことは、冷蔵保存が出来る装置が必要になる。そしてそれは絶対的に、大量の魔力が必要なわけで。となれば、当然とんでもない金額がかかるので、貴族はさておき貧民が食べられる日はいつになるやら、といった感じだろう。
「試作品でさえ、出来上がるのは多分ずーっと先の話になっちゃうと思うけど……でも、もし出来上がった時は、ロジェも厨房に呼ぶね!」
ロジェが出荷したミルクを使った生クリームが作れる日も、いずれやってくるだろう。なんということでしょう。私は知らずうちに自分の村の特産品を利用した商品を考えていたということになる。地産地消ばんざーい!
そこでやっと、ロジェがご機嫌な理由が分かった。自分の家の仕事が、巡り巡って商品となり、時代の最先端として領主の口に入るかもしれない。それは、普段、毎日村の中で、牛さんの世話をしているロジェにとって、とんでもないビッグニュースだったに違いなかった。
「待ってるからな!」
そう言って、にこにこ顔のロジェはてきぱきと私の籠に今日の分を入れてくれた。
「ほら、これで全部だ」
「ありがとう、ロジェ!」
ズンと重くなった籠を背負ってその場から離れようとしたとき、入れ違いで女性がやってきた。私と母をいじめていた連中の一人だ。だが向こうは私の顔を見たくもないようで、こそこそと他の人の陰に隠れていた。
帰ろうとしていると、サーラおばさんに声を掛けられた。私の家の分も、夕食を作ってくれているらしい。それを持って帰りな! と言われてしまえば、断る理由もなく。一旦、サロメの家にお邪魔させてもらうことになった。
リビングで座って待っていると、分配作業を終えたらしいジョルジュたちがみんなぞろぞろと帰宅してきた。珍しく、ダミアンおじさんの姿まである。食事前の憩いの時間ということで、私は暖かいミルクをご馳走してもらった。
「ねえ、レノ」
隣に座っているジョルジュが、もぞもぞと身体を揺らした。
「次はいつ街に行く?」
「うーんと。マルタンからそのうち話があると思うけど、夏の行商人の日が来たら、その時に馬車を手配して、数日中には行くつもりだよ。もう少し先のことになるかなぁ」
次こそどうにかして父に面会を、と私は心の中で呟いた。もしダメなら、もうそろそろ腹を括らなきゃいけないかもしれない。終身雇用。『私』の時にはすでにほとんどなくなっているものだが、まあ、働き口があるというのは良いことだ。あの店が潰れない限りは、安泰なわけだし。
「そっか、まだ先のことか……」
またジョルジュがもぞもぞした。私は不思議に思って、ジョルジュを見た。
「街に何か用事があるの?」
「えっ? い、いや、そういうわけじゃないんだけど……ただその、楽しみだなーって」
ジョルジュが街行きを純粋に楽しみにしていたとは知らなかった。私はそうなんだ、と言って頷いたが、向かい側で、サロメが呆れた顔をしていたのに気付く。じっとサロメを見ていると、サロメは小さく笑って肩をすくめた。
「ジョルジュが街に早く行きたいのは、気になるお相手がいるからよ」
「……えっ?」
夏には私もリアムも五歳になるのか~なんて考えてた私は、一瞬反応に遅れた。まさかのラブ展開に、きょとんとしてジョルジュを見つめる。ジョルジュはみるみるうちに真っ赤になって、恨めしそうにサロメを睨んでいた。
「そ、そ、そんなわけ、ないだろ!」
その返答では、そうだと言っているようなものだ。
ヒューゴとリアムはきょとんとしてミルクを飲んでいたが、私はふむふむ、と物知り顔で頷いた。……ジョルジュが街で好きになるような女性なんて、エマくらいだよね? 確かにそう言われると、エマにやたらに会いたがっていたし、分かりやすく緊張していたのは覚えている。初恋なのかもしれない。ああ、青春だなぁ。
私は孫の成長を喜ぶような気持ちで、穏やかな笑みをジョルジュに送った。その笑みに何か含みを感じたのか、ジョルジュは耳まで赤くなって、ムッとしたような顔を見せた。
「そっか。じゃあ次から、ジョルジュも厨房に連れて行ってあげるね」
「なっ、どうして!?」
なんでわかったんだ、と、ジョルジュはぎょっとした私を見ていた。だから、そういう反応がからかわれる理由なんだって。私はニヤニヤとジョルジュを見つめ続けた。
そうこうしているうちに、鍋を持ったサーラおばさんがリビングにやってきた。街の話題で盛り上がっていると気付いたおばさんは、来るなりその話題に乗っかった。
「何度も街に行っているうちに、あたしよりジョルジュの方が街に詳しくなってるんだ。嬉しいことだよ」
どんどん立派になって、とサーラおばさんがにこにこすると、ジョルジュは照れ臭そうにまたもぞもぞしていた。
「ま、それでも、なんだっけ? ガスパルの店だっけ? レノちゃんが通ってるところだよ。あたしはそんなもの買う金もないし、行くのも億劫だからねぇ。でも、ジョルジュが行ってるってことで、話だけいつも聞くんだよ。それがまた、楽しいんだ」
あたしにとってはね、とサーラおばさんはご機嫌で言った。私はそんなおばさんからずっしりとした鍋を受け取り、中身はポトフだと教えてもらった。
「あーあ。俺も早く街に行きてーぜ」
嫉妬の混じったヒューゴの声が、ぽつりと聞こえた。そんなみんなの団欒の様子を、ダミアンおじさんは黙って、しかしどこか満足そうに見ながら、コップに入った酒を飲んでいた。
冷める前に、と鍋を渡された私は、すぐに家に帰った。休んでいた母を起こして、一緒に食事をした。お腹いっぱいになったところで母は薬を飲み、私は身体を拭くためのお湯を準備するため、火を起こした。
お湯が沸くまで、私は母と一緒に椅子に座り、今日あったことを話した。いつもの食後の団欒の時間だ。森であったことや、ロジーヌとヒューゴが今日も喧嘩したこと、ジョルジュが初恋をした話を聞かせると、母は楽しそうに微笑み、相槌を打ってくれた。
「あ、お湯、そろそろ良い感じかも」
私は立ち上がって、火を消した。少し沸かし過ぎたかもしれない。鍋に沸き立つ湯気をみながら、私は井戸から汲んだ冷たい水と混ぜて、適温になるように工夫した。
そうしていると、ふと母が口を開いた。
「レノ」
「なあに?」
水を足した鍋に指先を入れてみる。意外とまだ熱い。真冬ならばすぐに冷めてしまうだろうが、もう少し今は冷やした方が良いだろう。私は桶から鍋にちょろちょろと水を足した。
「ひとつだけ、約束してくれる?」
「なにを?」
もう一度鍋の中に手を入れる。……うん。このくらいなら良いだろう。ちょっぴり熱めな方が、拭いたときにじんわりと身体が暖まって、疲れも取れていくような気がするし。私は準備できたよ、という気持ちで顔を上げて、母を見た。母もこちらを見ていた。ばちりと目が合う。その母の顔は、ひどく真剣みを帯びていて。
私はきょとんとしながらも、鍋の中に入れた布を絞る手を止めた。
「約束って、何を?」
聞き返すと、母は静かに言った。
「……もし。もしもなのだけど。……もし、何かが起こった時は。すぐに逃げるのよ」
「……?」
話が見えない。私が小首を傾げると、母は言葉が足りていないことに気付いたらしく、少しだけ微笑んだ。
「……何か、嫌な予感がするの。母さんね、昔からこういう直感が当たる方で。だから、もしも、万が一。何かが起こった時は、すぐに逃げてほしいの。すぐに森へ逃げるのよ」
「森?」
昼間のマルタンの話を思い出した。
「赤い実を森で採りながら、まっすぐヌーロの木の近くへと逃げなさい。母さんも必ず追い付くから、何かあった時はそこへ向かうのよ」
「追い付くって……母さんは家の中にいるでしょ? いいよ、私迎えに来るから。一緒に逃げようよ」
「ダメよ。きっとそういう時は、急を要するような場面で、起きるのは突然なの。こうやって一緒にいるならそうできるけど、そうじゃなければ、レノは一人になったとしても、必ず森の方へ逃げなさい。ヌーロの木を目指すの、分かった? 憶えられる?」
ヌーロの木を目指す、と私が復唱すると、母は安心したようにほっと息を吐いた。
何かが起きたら、と言われても、よくわからない。何が起きるのだろうか。盗賊が襲ってくるとか? それこそ、家の中にいる母には情報が伝わらないかもしれないじゃないか。そう思って反論したのだが、母は絶対に首を縦には振らなかった。
「レノ。何のための自警団なの? ロジェは母さんがここで寝込んでいることを知っているわ。だから、必ず助けに来てくれる。遅れてでも、必ず母さんもヌーロの木へ向かうわ。だからお願い、約束して」
必ず、何があっても、ヌーロの木を目指すって。
母の真剣な表情に押し負け、私は頷いた。
「分かった。領主様に誓って、そうするよ」
私は母を安心させたい一心でそう言った。領主様に誓う、その言葉は、この領地で絶対的な約束の言葉だ。母は一瞬面食らったように言葉を失っていたが、やがて私の母を想う気持ちが伝わったのか、ふっと笑った。そして、私を抱き寄せ、その頭をよしよしと撫でてくれた。
「良い子ね、レノ。偉いわ、私のかわいい、レノ……」
変なことを約束させられてしまったかもしれない。私はそんな風に思いながらも、頭を撫でてもらう心地よさに目を細めた。
身体を拭くためのお湯は、すっかり冷めてしまっていた。
次の話より、本格的に一章ラストに向けて大きく動きます!進む進む詐欺じゃないよ!




