第63話 金貨三枚と換えられるもの
キュポン、と小気味良い音が鳴って、薬瓶の蓋が開いた。興味本位でくんくんと匂いを嗅いで、すぐに後悔した。ツンとする刺激臭に、異臭。薬臭いだけでなく、酸っぱいような苦いような嫌な臭い。それらが凝縮された匂いが鼻の奥を刺して、私は薬瓶を持ったまま身体を震わせた。
酷い匂いだ。こんなものを飲んだ方が逆に身体に悪いとしか言いようがない。そんな失礼なことを思いながら、私は吐き気を抑えながらコップに一滴だけそれを垂らした。薬瓶の中身はどろりとしていて、うまく一滴ずつ落ちるような仕組みになっていたので、思わずドバッと中身が零れ落ちることもなくて有難い。
こんなにとろみがあるのに水の中で溶けるのかしら、と疑問を抱きつつもコップを覗き込むと、不思議なことに、透明だった水が茶色く濁っていた。薬瓶にさっさと蓋をして、スプーンでコップの中をかき混ぜる。
……本当にこれ、飲んでいいやつだよね? 見た目は完全に泥水だ。更に不思議なことに、コップの中身も少しとろみがついていた。先ほど瓶の中を嗅いだ時よりかはマシな匂いだが、ハッキリ言って飲みたくなるような匂いではない。ドブ川の水を汲んできたらこうなるんじゃないかという感じだ。
こんなものを母に飲ませるのも気が引けるが、もうマルクを信じるしかない。口直し用に果物を切り分けたものも準備しつつ、私は食後の休憩をしている母のところへと向かった。
結果として、マルクの薬は母に効いた。
良薬は口に苦しとはいうが、苦すぎるのもどうかと思う。というくらい、母は精一杯吐き気を我慢していますという顔で薬を毎回飲んでいたが、また母が起きていられる時間が伸びてきていた。
起きている間はたいてい家事をやったり、少しだけサーラおばさんの手伝いをしていた。あまり無理をしないでほしいものだが、本人としては眠り続けているより気分が良いからやらせてほしいとのことだったので、強制的にやめさせるのもどうかと思い、仕方なく好きにさせておいた。
数日間とはいえ、私が街へ行っていたので、その分我が家の冬支度は遅れている。食料や薪、蝋燭等々の補充をしなくてはならないし、自分の家の屋根や壁の補強やらなんやらと、やるべきことは山積みになっていた。
忙しいのは私だけではなく、ロジェの家もだった。ジョルジュの方は頭数があるのでフォローし合えたらしいが、やはり一番力になるロジェが抜けていた穴は大きかったらしい。
そのせいで毎日の作業サイクルも少し変わっているらしく、私やサロメがいつものように井戸へ行っても、いるのはボーモンやロジーヌだけで、マルタンはそこにいなかった。マルタンと話したいことは幾つもあったのだが、なかなかタイミングが合わず、そうこうしているうちに日が経ち、雪が降り始めてしまった。
「か、母さん! もう雪が降ってるよ!」
底冷えするような寒さだとは思っていたが、去年と比べると、雪が降るのはもう少し後だったはずだ。驚いて家の中にいる母に声をかけると、母もちょっぴり驚いたようで、私と一緒に扉から顔だけ外に出して、きょろきょろと周囲を見渡した。
「随分と早い初雪ね」
「えーん! 薪、まだ全部揃えてないんだよー! どうしよう!」
いつもなら私も母も日中は働きに出ているので暖炉の火を消すのだが、今年は母が家にいるので、暖炉の火は眠る時以外灯しっぱなしだ。
そうなってくると、当然薪の消化ペースも早い。それを見越して大量の薪を準備しなくてはならないのだが、予定数に達する前に雪が降ってくるとは! 雪が積もって山入りが禁止される前に、なるべく多く山から木材を集めてこないと、大変なことになってしまう。
「母さんも木材、集めてこれたらいいんだけど……」
母がしょんぼりしてそう零したので、私は呆れたようにため息をついて、扉を閉めた。先ほど起きたばかりなので、部屋があったまりきっていなくて、室内なのに息が白い。その靄越しに、私は母をぎろりと睨んだ。
「ぜっっっっったい、森の中になんて入っちゃダメだからね」
「でも……」
「私がちゃんと準備するから。勿体ないからって暖炉の火を消したりするのも禁止だからね。母さんは身体を冷やさないように、暖かい恰好をして、少しでも寒いなって思ったら暖炉の前で身体をあっためること。いい? 分かったね?」
それが母さんの仕事だからね、とキツめに言うと、母は仕方なさそうに頷いた。母が無茶をして体調を崩したら、私がここまで色々頑張ってきたことが全て水の泡だ。
完治するまでは療養すべし。母にきっちりと約束させた後、私は家を籠を背負って家を出発した。
その日は冬野菜を収穫して、森で薪を収穫して、いつも通りの一日だった。初雪、いつもより早いねーじゃあブランが採れる日も早そうだから楽しみだねーなんて話して帰宅して。その日の夜はとても静かな夜だった。
「……………積もったね」
「積もったわねえ」
まず、玄関の扉が空かなかった。
嫌な予感がして、ヨイショ! と扉を開けると、そこは一面銀世界。私の腰の高さまで、雪が積もっていた。
……なんて幻想的な光景なんだろう! ということを思う前に、私の頭の中には、雪かきの文字が立ち並んだ。たった一年で随分と現実的なことを考える子供になってしまったが、事実、雪かきするのは私だ。そりゃあ憂鬱にもなる。
雪かきを手伝おうとする母に家の中にいなさいと厳命を出し、私は雪かき用のスコップにも似た木べらを持って家を出た。
ザクザク家の前を切り開いていると、薄暗い中、他にもザクザクという音が聞こえてきた。誰かが私の家と、サロメたちの家とを繋ぐために雪かきをしてくれているようだ。誰だろうと思って目を凝らす。
「おい、レノムシ! サボってんじゃねえぞ!」
ザクザク音は止まらずに、剣呑な声が飛んできた。ああ、ヒューゴだ。
「ヒューゴ! 後で屋根の上の雪下ろし、手伝って!」
「はあ? なんで俺が!?」
「わたしじゃ届かないもん! ヒューゴだったら届くでしょ?」
「だから、なんで俺なんだよ!」
「だって、ヒューゴ以外誰に頼めって言うのさ!」
今ここに居るのはヒューゴだ。面倒くさいと文句は言われるだろうが、ヒューゴ以外頼れる人がいない。このまま屋根の上の雪を放っておけば、やがて家が潰れるだろう。自然に雪が落ちていく形にはなっているが、それでも出来るときに雪下ろしをしておくのは大事だ。後で、と言っていると普通にいつもの仕事が始まって、陽が暮れてしまうかもしれない。
だからこそそこにいるヒューゴにお願いしたのだが、ヒューゴは一瞬動きを止めて、はーあ! と大きなため息をついていた。
「仕方ねえなあ、ほんっと、レノムシは俺がいねーとなーんもできねーんだから!」
子供一人分が通れる道を作りながら、ヒューゴがどすどすとこちらにやってきた。口ではぶつぶつ文句をつけているが、その顔がちょっぴり緩んでいるので、どうやら頼られて悪い気はしないらしい。ヒューゴのこういう、弱いものを放っておけない兄貴肌なところに、正直、いつも助けられている。
「うん。ありがとうね、ヒューゴ」
「ったく。あんまり近寄んなよ。あぶねえぞ」
私を家から少し離したところで待機させ、ヒューゴは足場を作ってするすると簡単に屋根の上に登ってみせた。ヒューゴが屋根の上を綺麗にしてくれている間、私はヒューゴの家に繋がる道を広げた。
その後、ヒューゴと一緒に家の周りの雪かきをして、そのままヒューゴの家の方へと雪かきをしながら進んでいった。
「つ………っかれたー………」
全身がバキバキだ。腰は痛いし、両腕はもう悲鳴をあげている。真冬だというのに汗もびっしょりかいている。身体についた雪をのそのそと振り落として、私はヒューゴと一緒にへとへと顔でヒューゴの家の玄関へと入った。やはり壁が一枚あるだけでも全く違う。外よりずっと暖かい室内に、顔が緩んだ。
「二人ともお疲れ。大変だったね」
二人ともびしょびしょなので、とりあえず防寒のために着こんでいた服を上から順番に脱いでいると、サロメとリアムがやってきた。びしょびしょになった服は、暖炉の前で乾かしてくれるらしい。有難くサロメに服を手渡し、リアムから身体を拭くための布を受け取った。
「レノ、はやく拭かないと、かぜひいちゃうよ。だんろのまえ、あったかいよ」
布で身体を拭いて、やっと室内に入れる状態になると、リアムがぐいぐいと私の背中を押した。暖炉に連れて行ってくれるらしい。ヒューゴは腹減ったー! と騒ぎながら恐らくサーラおばさんがいるキッチンへと向かって行ってしまった。
リビングに入らせてもらい、私はリアムが準備してくれた椅子に座って、暖炉の前を陣取った。私とヒューゴの服が干してあるところに並び、私も暖を取らせてもらう。冷え切っていた頬や耳がじんわりと温まっていって、思わず大きなあくびが漏れた。
「お疲れのところ悪いけど、まだまだ今日はこれからよ?」
サロメはそんな私を見てクスクス笑いながら、温かいミルクを持ってきてくれた。
服が乾いたら、また外に出て今日のお仕事をしなくちゃいけない。今もまだ雪が降っているのだから、たぶん、帰ってくる頃にはまた薄っすらと積もっているだろう。それをまた端に除けて、家路につくというのが今日のスケジュールになるだろう。
とほほ、と思いながらももらったコップに息を吹きかけて、ちょっぴり冷ます。コクリと一口飲むと、優しい甘みが疲労を溶かし、身体の内側から暖まっていくようだった。
「あれ? ジョルジュは?」
そういえば姿が見えない。今は朝ご飯の時間のはずだ。そう思って尋ねると、サロメは私にバターを塗ったパンを手渡しながら言った。
「父さんと一緒に村の雪かきに出かけているわ」
どうやら雪の日には、村中の成人男性がかき集められ、雪かきに従事することになっているらしい。独居老人や女子供しかいない家庭もあるだけでなく、普段使う道も分断されているのだ。ある程度生活が出来るように整えなければならないのだが、それを村中の男が担っているらしかった。
私は身体がぽかぽかしてくればくるほど眠気が襲ってきているのを感じながらも、もぐもぐとパンをかじり、飲み込んだ。
そんな日が何日か続いたある日。やっと私は井戸のところでマルタンを捕まえることができた。雪かきは村中の成人男性の仕事なので、マルタンは家の周りの雪かきの手伝いはするが、村中の整備にかき集められるわけではなかったので、ここに来ることができたのだ。
「マルタン!」
冬野菜を採ってきて、手も鼻も耳も真っ赤にした私が井戸にやってきて、マルタンの姿を見るなり駆け出して抱き着いたため、周囲はぽかんとそれを見ていた。
マルタンは心底慌てたように私を引きはがそうとしたが、私は久々にマルタンに会えたのと、くっついているとあったかいということもあってなかなか身体を離さなかった。
「おい! レノ! いい加減にしろ!」
マルタンはそう怒鳴って、ぺりっと力任せに私を離した。その顔は真っ赤になっていて、ゼエゼエと息が上がっている。こちらをじろりと睨みつけているようだったが、私は一向に構わず、荷物を持ってマルタンのすぐ近くに座り込んだ。
私の勢いに若干引いていたサロメたちだったが、気を取り直したように私の側にやってきて、水を汲む。
「マルタン。私ね、マルタンに話さなきゃいけないことがいっぱいあるの」
「僕もレノに聞きたことは山ほどあるよ」
小声で言うと、マルタンも小声で返して来た。どうやらマルタンは街であったことをロジェに聞いたらしい。だがロジェは残念ながら、ほとんど別行動していたのだ。だから私が具体的に誰と何を話して、何をしてきたのかを知らない。私も詳しくは話していないし、金貨三枚で頭の中がぐるぐるしていたのでロジェと何を話したかも覚えていない。
「とにかくね、まず話したいのは、わたし、金貨三枚稼がなきゃいけなくなっちゃってね」
「きんっ………、ま、待て待て、待て。レノ、順を追って説明しろ」
マルタンが素っ頓狂な声を上げかけて、慌てて咳払いして誤魔化していた。
サロメがちらりとこちらを見たが、ボーモンがマシンガンのようにサロメに話しかけているので、私とマルタンが何を話しているかまでは聞き取れていないようだった。ロジーヌやリアムも作業に集中しているらしく、誰も私たちの話は聞いていないようだった。それでも一応、と私たちはぼそぼそ小さな声で話す。
私は一通り説明した。母を治療するには癒者を雇うのが一番確実だということ、そのためには金貨三枚が必要だと言われたこと、癒者を雇う伝手はマルクにあること。
「でも、金貨三枚なんて大金、どうするつもりだ?」
「それがね……」
稼ぐと言っても限度があるぞ、とマルタンが頭を抱えそうになっていたので、私はガスパルの話をかいつまんでした。つまり、金貨三枚用立てしてくれる代わりに、終身雇用契約を結べという話だ。
悪い話ではないんだけど、なかなか踏ん切りがつかなくて、と話すと、マルタンは今度こそ文字通り頭を抱えていた。
「な、な、な、なんだそれ……。……ま、まさか、レノ。その場で契約してきたりは、」
「してないよ! 話、聞いてた? 契約するかどうかで迷ってるんだって。その相談に乗ってもらいたくて」
「レノが馬鹿で鈍感だとは思っていたけど、まさかここまでだとは……やっぱり、一人で街に行かせるのは危険すぎるな……」
マルタンは大きくて長いため息をついていた。あまりに言われように、私もムッとして反論する。
「今回、初めて一人だったけど、ちゃんと取引してこれたよ? それに、その場で即決するような契約もひとつもしてきてないし、ちゃんと話を持って帰ってきて、こうやってマルタンと話し合ってるじゃん。全然、危険とかないんだけど」
「……それに気づいていないってところが、致命的なんだよ」
ぷくっと頬を膨らませてみたが、マルタンは首を横に振っていた。
「前々からガスパルさんはレノに執着していると思ってはいたけど、まさかこんな狙いがあったなんて思ってもなかった」
「狙い? 私を生涯自分の店で働かせたいって話? それくらいは気付いてたでしょ。だって、前からガスパルさん、自分の店で新しく従業員を雇いたいとか、私がお得意様だから特別に投資するとか、なんかそういう思わせぶりなこと言ってたし」
「そうじゃない。それはもちろん、僕も気付いてたさ。そこじゃなくて……つまり、今回の話。レノは本当に、レノを従業員として店に取り込みたいって思ってるだけだって思ってるのか?」
「え? 他に何かあるの?」
私がきょとんとしてみせると、マルタンは嫌そうな顔をした。
「僕はこう思ったよ。まるで、レノをお嫁さんにしようとしてるみたいだって」
「おおおおよめさん!?」
今度は私が素っ頓狂な声を上げてしまった。みんなの視線が一瞬、私に集まる。私はえへへ、と誤魔化し笑いをみんなにして見せた。
「なにそれ!? マルタンの考えすぎなんじゃない!?」
早口で、しかし絶対的に小声で私はマルタンにまくしたてた。だがマルタンは肩をすくめてみせただけで、意見を翻そうとはしなかった。
「どうだろ。ガスパルさんなら考えそうなことじゃない? レノを奥さんにすれば、本格的に自分の店の中にレノを閉じ込めることができるんだよ。今回のだって、レノがその思惑に気付いていないことを見越しての話だと思う。そうすれば自然とレノはガスパルさんと接触する機会が増えていくだろうし、ガスパルさんなら自然とそういう流れに持っていくだろうさ。あとはレノが成人するのを待つだけって計画だろ」
ごくりと唾を飲み込んだ。確かに、ガスパルは私に優しい。どころか、激甘だ。でもそれは、私が金の生る木で、しかも子供だからだと思っていた。子供だから対外的なことを考えても優しくしていた方がイメージは良いし、私に投資することでバックを望んでいるのだろうと。
でも、マルタンの話は筋が通っている。ガスパルは根っからの商人だし、自分の店を何よりも大切にしている。となれば、私を奥さんにして、自分の店に閉じ込めてしまおうとしているという考えは、ガスパルの性格から考えてもあり得そうな話に思えてくるのだ。
「………えっ普通に怖いんだけど……」
「まあ、確かに利用価値は評価してもらえてそうだよね」
……ガスパルさん、クッキーで幾ら稼いだんだろ……。私が遠くを見つめていると、マルタンは励ますように言った。
「とにかく、だ。金貨三枚のために、自分の人生を棒に振るな。マリアンヌさんが悲しむぞ」
その言葉で、私はハッとした。確かに母が金貨三枚で完治しても、母がこの村に残りたいと言えば、私と母は離れ離れで住むことになる。私は元の生活に戻りたい一心で、母に元気になってもらって、また母娘二人で楽しく毎日を過ごしたいという気持ちでここまで頑張ってきていると言うのに。
……となると。私が頼れるのは、あと一人しかいない。
「ねえ。マルタン」
「なんだ」
「……私の父さんのこと、何か知らない?」
私が緊張したようにそう言うと、マルタンは残念そうに首を横に振った。
「僕じゃなくて、マリアンヌさんに聞いた方が良いよ」
……そりゃそうだ。
結局、マルタンと話し合った結果、ガスパルの話に乗るのは本当に最後の手段で、まずは他に方法がないか考えようという話になった。
つまり、父に連絡を取るということだ。
今まで一度もそれを考えたことがないとは言わない。だが、手段が分からない。分かっているのは、父は貴族であるということだけ。前回来た時には暫く来れそうにないと言っていたが、季節が一周回るほど会えなくなるというのは初めてのことだった。いつかそのうち待っていれば来てくれるだろうというこちら側の気持ちが、そろそろ変わってくる頃合いでもある。
父にどんな事情があるのかは分からないが、とにかく連絡だけでも取りたい。母がこんな状況だと知らないかもしれないし、伝えれば癒者の手配くらいしてくれるかもしれない。
そのためにも、まずは父について一番詳しい相手に話を聞かなくてはならない。
……のだが。
奇しくも、その日から。
母の体調はどんどん悪くなっていった。
日に日に、母の起きている時間は短くなり、まともに話せる時間が減っていってしまった。あんなドブ水のような薬を飲んでもなお、小康状態を保つことすらできない。それはつまり、私も決断を急がなければならないということだ。
だが、こんなにも雪が降っていては、街に行くことも出来ない。次の行商人の日は、雪解けの後だ。行商人の日がこなければ、馬車の手配もできない。
私の中で、焦りだけが募っていった。




