第6話 狩りの日
昨日と同じように朝起きて、支度して、サーラおばさんの家へと向かった。玄関口から声をかけると、ご機嫌な様子のおばさんがやってきた。
「レノちゃん! 今日もよろしくねえ! サロメから聞いたわよ。あのヒューゴが、レノちゃんの世話を焼いているらしいじゃないの! やるわねぇ、レノちゃん!」
おばさんはよく通る声でそれだけ言って、にこにこと上機嫌のまま母を従えて今日の作業地へと向かっていった。二人の手には鍬が握られていたので、今日も今日とて開墾のお仕事をするのだろう。おばさんが出てきた玄関口から、今度はサロメたちがぞろぞろと出てきた。私は貰った籠を背負ったまま、みんなと一緒に今日からは収穫作業から一緒にやり始めた。
その後は、何日間か同じ作業を繰り返した。毎日起きて、おばさんの家へ行き、決められた区画の収穫をして、下処理をしたら森へ向かい、果実の採集を行う。ずっとこんな日を繰り返すのかと思い始めていた頃、おばさんの家へと向かうと、そこにはいつもと違う雰囲気が漂っていた。
「母さん、今日は何かあるの?」
サロメの家の前の広い場所に今日は、普段は滅多に見ない男性陣がわいわいと賑やかしく集まっていたのだ。普段は滅多に見ない、というのは男性陣が穀潰しだと言っているわけではなく、私がここに来る頃にはすでにそれぞれ担当の農作地に向かっており、更に言えば日が暮れるまでは帰ってこないので、私とすれ違うことがなかなか無いためにそう言っているのである。そんな体格の良い大人の男性陣が、今日は木の盾を持ったり槍を持ったりして、武装しているのが見えた。これから戦でもあるのか、という出で立ちに、私は少し不安になって母の手をぎゅっと握った。母は私の不安を察したのか、安心させるような笑みを浮かべた。
「大丈夫よ、レノ。これはね、ここにいる男の人たちが、今から森へ狩りに行くのよ」
「狩り?」
「そう、狩り。猪や鳥、ウサギを狩ってくるの」
「母さんも参加するの?」
「狩りに参加できるのは、村の男性陣たちだけよ。女手はこれから裁縫仕事をして、男性陣が返ってくるのを待つの。男性陣たちが獲物を持って帰ってきたら、その下処理をするのよ」
それが村の女としてあるべき姿らしい。男性陣たちの合間を縫って、サーラおばさんの家へと転がり込む。男性陣たちの視線が母に向けられていたような気がしたが、母は気付いていないのか、気付かないふりをしているのか、全く意に介していない様子だった。
「サロメ。うちには狩りに参加できる男性がいないけど、お肉が欲しかったらどうしたらいい? 私が参加したらもらえる?」
母は裁縫仕事をするべく、テーブルでせっせと布に針を通しているサーラおばさんの元へ行ってしまった。どうやらうちには仕事が出来るような裁縫道具がないらしい。他の家の女性も何人か来ているらしく、グループになって何やらサーラおばさんの指示下のもと、こまごまとした仕事をしているようだった。私はサロメたちのもとに向かい、疑問をぶつけた。
「……レノ。狩りには男性しか参加できないのよ。レノが参加することはできないわ」
「でも、わたし、お肉が欲しいの」
ほぼ具無し塩スープ生活からは抜け出せたが、毎日毎日野菜スープでは力が出ない。お肉が食べられる可能性があるなら、わたしはそれに全力を尽くしたいのだが。そう思って目を輝かせて言ったのだが、サロメには呆れ顔をされてしまった。私の言葉を聞いたらしいヒューゴは、ニヤニヤ笑って私の顔を覗き込んだ。
「レノムシ、お前、ばっかだなぁ。ジョルジュの話、聞いてなかったのか? まあ、わかるぜ。だってジョルジュの話は面白くないし、あったりまえのことしか言わねえもんな」
椅子に座ってナイフを研いでいたジョルジュは、カッと顔を赤くした。ヒューゴを睨みつけてから、私のこともムッとした顔で見てきた。
「レノ、憶えてないの? 言ったよね? 採ったものは、みんなで分けるんだって」
「でも、わたし、何も協力してないよ? その『みんな』っていうのに、わたしは入るの?」
「……レノ。当たり前でしょ。わたしたち、レノのこと、ちゃんと村の一員だって歓迎したじゃない。もう忘れちゃったの?」
サロメが赤ちゃんに言い含めるように言った。……てっきり、ジョルジュの言ってた『みんな』っていうのは、その収穫作業に貢献した人間に対してっていう意味かと思ってた。っていうことは、村の人間全員に配るっていう意味だったっていうことだよね? 一体、村って何人くらいいるんだろう?
「だからちゃーんとレノムシの家にも肉はやってくるってこと! 俺の父ちゃんが狩りに出てるんだから、しっかり分け前が配れるくらい、いーっぱい仕留めてくるさ!」
どうやらサロメたちの父は、狩りの達人らしい。筋肉粒々な髭もじゃの男性がサーラおばさんと話した後、みんなを率いて森に入っていっていた様子を思い出して、もしかしてあの人がサロメたちの父なのでは? と思った。
「お肉、たのしみだなぁ」
にこにこと笑ってそういうと、サロメはそうねと言いながら私に針と布を握らせた。サロメはにっこり笑って、自分も針と布を手に取った。
「男が狩りに出ている間、女の仕事は裁縫仕事よ。レノはお裁縫、きちんとできるかしら?」
「………裁縫は母さんが得意だから、わたしはできなくても大丈夫だよ、サロメ」
「さあさあ、レノ。針に糸を通すところから始めましょうね!」
細い固めの糸を手渡され、わたしはげんなりと肩を落とした。そういうことなら槍の練習した方が私にとっては楽しいし、身体作りにもなるから有意義なんだけどなぁ。
サロメに教わるがままちくちくと裁縫の練習をした。ジョルジュとヒューゴはすぐに室内にいることに飽きてしまって、外で草むしりがてら追いかけっこをして走り回って遊んでいるようだった。追いかけっこをするのと裁縫の練習をするの、どっちがマシだろうと自問自答しているうちに、ふとサロメに聞きたかったことを思い出した。
「ねえ、サロメ。ヌーロの種って、どうしたらいいの?」
森に植えるべきなのか、それとも食べられるのか、はたまた潰してそこから出る何かを採るのか。首を傾げそう尋ねると、サロメは全部違うのだと首を横に振った。
「ヌーロの種はお守りになるの。だから種が二個渡るようにしたでしょ? 新しく村に来た人や、生まれてきた子には、必ず一人ひとつ行き渡るようにしているのよ」
村の一員である証みたいなものだろうか? お守りだと言われれば、その辺に放っておくのもなんだかどうなのだろうかという気持ちになる。紐でも通して、首から下げておこうかな? でも種とはいえ植物なんだし、なるべく乾燥したところに置いておいた方が良いのかな?
「サロメはヌーロの種をどうやって大事にしてるの?」
とりあえずは先人の知恵を借りよう。そう思ってサロメに尋ねると、サロメは棚の方を指さした。どうやらあの鍵付きの棚の中に、全員分のヌーロの種が保管されているらしかった。
「村への歓迎の証だからね。あれがあるのとないのでは、大違いなの。もしなければ、村に長いこと住むのは難しいかもしれないわね」
サロメの言葉を聞いて、私は頷いた。村の一員としての証だとすれば、住民票みたいなものかもしれない。それが無いということは、住むことを許されていないということだ。そりゃあ問題も起こるだろう。私はすぐに村の一員として認めてもらえたことに感謝の念を感じながら、裁縫練習をせっせとこなしていった。
太陽が傾き始めた頃、男たちが帰って来た。
みんな、泥に汚れたり返り血らしき黒い染みがあったりしてどろどろに汚れてるうえ、何人かは怪我をしているようだった。嫁らしき女たちが各々の男の元へと近寄っていって、苦労を労ったり、怪我の治療をせっせと行っている。
男たちは誰が何匹何を仕留めたのか、という話に盛り上がりつつも、皆、獲ってきた獲物を手にサロメの家の前に座り込み始めた。サロメ曰く、これから宴会が始まるらしい。おばさんたちが昼過ぎから慌ただしく大量の料理を作り始めていたのはこれか、と納得しながら、私はなんとも居心地の悪さを感じた。労う相手もいないというのに、私がここにいる意味はなんだろう?
「レノムシ! こっちだ!」
サロメとおばさん、そして母をはじめとした女性陣が慌ただしく料理を皿に盛り付け、酒の準備を始めていたので、私も何かした方が良いのかな? とそわそわしていると、ぐいっと腕を引っ張られた。なんだ? と思う暇もなく、私はヒューゴに髭もじゃのマッチョの元への連れて行かれた。髭もじゃのマッチョは敷いた布の上に座っていて、その前にはジョルジュが立っていた。
「父さん! 今日は何を仕留めたの?」
私の腕を掴んだままのヒューゴが、目をキラキラさせながら言った。髭マッチョは眼光が強く、鋭い視線で私を見た。睨まれたのかと思ってビックリしてヒューゴに近寄ると、ヒューゴは変な顔をして私が近寄った分離れた。でも腕は離してくれない。
「……お前がレノか」
「あ、はい。初めまして、レノです。……おじさんは狩りの達人だって、ヒューゴにいつも聞かされてます。今日はどうでしたか?」
おじさんは寡黙な人らしい。私の言葉を吟味するように沈黙した後、くい、と親指で向こう側にある台車を指した。そこにはイノシシやら鳥やらよくわからない動物が山積みになっていた。
「父ちゃん、スッゲー!」
ヒューゴが大興奮していた。ジョルジュも尊敬の瞳でおじさんを見ていた。あいにくと私には狩りの常識など備わっていないのだが、他の男たちの台車を見れば、その差は歴然としていた。
っていうことは、こんなにも山には動物たちがたくさんいたってことだよね? 最近は森の中に入って色々採集してたけど、小動物くらいにしか出会わなかったんだけど……運が良かったってことかな。
お酒の支度が終わると、女性たちは台車を移動させていた。獲ってきた獣たちを一か所に集めているらしい。どこに持って行っているのだろうと小首を傾げていると、ジョルジュが獲ってきた獣を捌くための場所があるんだと説明してくれた。血がたくさん出るだろうし、血抜きをしたりある程度キッチンへ運べるサイズにまで切り分けしないと、室内が汚れてしまうから外でやるらしい。
そろそろ薄暗くなってきたので、今日は出来るだけやって、終わらなかったら明日また改めて行うとのこと。狩るのも一苦労だけど、下処理したり、保存するのも一苦労だよなぁ、と私はぼんやりと思った。
「狩りをするのは男の仕事で、それを料理するのは女の仕事なんだ。今から母ちゃんたちがあの肉を料理して、男はその肉料理と酒を楽しむのが、狩りの日の決まり事なんだ」
ジョルジュの説明を聞いて、私は曖昧に頷いた。それって、男はゲーム感覚で狩りをするけど、その後処理どころか、宴会まで女性が世話しなきゃいけないってこと? 狩ってきたんだったら、責任もって最後まで捌いてくれればいいのに。捌くのだって、結構力仕事で、体力が必要なはずだ。
「レノは女の子だもんな。サロメの方に行きたいか?」
私が微妙な顔をしているのを見たジョルジュが気を遣ったように言った。私は慌てて首を横に振り、ヒューゴの腕を掴んだ。魚ならまだしも、動物を捌くなんて、絶対に無理だ。食べるためには必要なことだと分かってはいるが、そんなシーンを見たら確実に隅の方でゲロでも吐くことになってしまう。絶対嫌だ。
「うわ、なんだよレノムシ!」
「わたし、ヒューゴとジョルジュと一緒に、おじさんの話聞きたい! 狩りなんて、したことないし、見たこともないし、聞ける人もいないもん。お手伝いはいつでもできるけど、おじさんの話は、今しか聞かないから」
それっぽく言えば筋が通るだろう。そう思って軽い気持ちで屁理屈を並べたのだが、思いのほか、私の言葉は三人の胸に刺さったらしい。それもそうだな、と言ってジョルジュは私の頭をぎこちなく撫でたし、ヒューゴはしがみつく私の手を外そうとするのをやめた。おじさんはひとつ咳ばらいをした後、今日の狩りについて言葉少なに話してくれた。
大きな猪が死力を尽くして暴れまわり、おじさんを含めた大男三人がそれを難なく仕留めたという話を聞き終わる頃、おばさんとサロメが大きな葉っぱを持ってきた。赤い塊が乗っているのを見て、ヒューゴと私は身を乗り出してそれが何なのか見た。
「これって……」
ひくりと頬がひきつる。持ってきたサロメたちから生臭い匂いがしたし、ひょっとして、と私は顔を青ざめた。
「子兎の肉だ! すげえや父ちゃん、これってすげー美味いんだろ?」
ヒューゴが尊敬と羨望が入り混じった顔でおじさんを見た。おじさんは小さく頷き、酒を一口飲んだ後、葉っぱを持って一口でその赤い肉をぱくりと口の中に放った。おじさんがもぐもぐと咀嚼するのを見て、私はそっと視線を外したが、どうやら周囲も同じような状況になっているらしかった。女性たちがそれぞれ大きな葉っぱの上に新鮮な生肉を乗せて、それぞれの男の元へと運んでいる。
「これって、今捌いたやつってこと? もしかして、全部そのまま食べるものなの?」
恐る恐るジョルジュの袖を引っ張って尋ねると、ジョルジュは私の不安を笑い飛ばした。
「違う、違う。残った分はみんなに配って、焼いて食べるんだよ」
「狩りで狩った獲物の肉を、一番最初にそのまま食べるのが、この村の男の勲章なんだ」
ヒューゴは羨ましそうに周囲を見渡した。
「これが一番美味いってみんな言ってるけど……自分で獲物が狩れるようになって、その獲物の肉をこうやって食べることができて、初めて一人前の男になるんだ。俺も早く一人前の男になりてーよ……」
「レノは女の子だから、そのうち夫を持って、その夫が狩った獲物の肉を捌けるようになったら、一人前の女になるんだよ」
なんだそれ。男は狩って食って、女はそれを捌くだけなのか。二人で食べるとかじゃないのか。い、いや、生肉食べろっていわれてもそれはそれで困るけど。こんな環境下で火を通さないで食べるなんて、怖すぎるよ……一応私もここで生まれて育ってきたわけだから、消化器官的にはみんなと同じような作りになってるはずだし、口にしても大丈夫なのかもしれないけど、何があるかなんてわかったものじゃないわけだし。
「ヒューゴはまだ一人前になれないの?」
私の疑問に、ヒューゴはとことん私を馬鹿にしたような顔をした。
「当たり前だろ。ジョルジュもまだなんだ、俺なんてまだまだずっと先だぜ」
「ジョルジュもまだなの?」
「狩りに出られるのは、15歳を超えてからなんだ。僕はまだ12だから……」
「でも、13からは見習いとして父ちゃんたちと狩りの日に出かけられるんだ。いいなあ、ジョルジュ。俺も早く13になりてーよ」
二年の下積みをして、やっと一人前の男として狩りに参加できるということか。洗礼みたいなものだろうか? もしかすると、嫁をもらえるのもその年齢なのかもしれない。ちらりと周囲を見渡すと、若そうな男に若そうな女が給仕していたり、男の母と思わしき年齢の人が給仕していたりするのが見えたので、なんとなくそう思った。同時に、生肉とか怖すぎて食べられないから、男に生まれてこなくてよかったと内心めちゃくちゃ思った。
「なんだぁ? レノムシ。肉がこえーのか?」
ヒューゴは私の顔を覗き込んでゲラゲラと笑った。まあ本当はそうなんだけど……一応、そういうわけじゃない、と言い張ってみたのだが、ヒューゴは弱虫だなぁと笑ってきた。それを見て、ジョルジュは女なんだから当たり前だろ、とため息をついていた。
「そういえば、リアムは?」
話題を逸らそうと話を振ったが、ヒューゴはむすっとした顔になってしまった。
「さあ、知らねー」
「知らないわけないだろ、ヒューゴ。リアムは今頃部屋で寝てるよ、レノ。普通、子供はこういう宴会に参加しないんだ」
そうか、三歳児だもんね。すっかり日が暮れたところを見ると、そろそろ私も普段なら晩御飯を食べている時間帯なのではないかと思った。
「リアムは臆病すぎるんだ。父ちゃんが狩りから帰ってきたら、どうしたって父ちゃんの話が聞きたくなるに決まってる。それなのに、リアムは寝るなんて言って、部屋に閉じこもっちまう。女みてーな弱虫だ」
ふん、とヒューゴは鼻息荒く言った。だがすぐに私を見て、小さく噴き出した。
「そう思うと、レノの方がよっぽど男らしいよな。リアムは父ちゃんの獲物にビビって隠れちまうけど、レノはちゃーんと父ちゃんから離れなかった。今だって、女に混じって女の仕事するより、ここで父ちゃんの話を聞きたがってたし。レノって、ほんとに変だな!」
言葉ではハッキリと貶してきたが、ヒューゴの表情はご機嫌そのものだった。話が合う同世代の人間がいて嬉しいのかもしれない。……そう思ってくれるのはありがたいけど、でも本当の意味では話が合ってるわけじゃないんだよね。単に捌いている光景を見たくなかったからここに居座っただけだし、獣の死体を見てビビりまくってたんだよ実は。動揺を隠してただけでね……。
「……わたし、サロメのお手伝いしてきた方がいいかな?」
しかし、ヒューゴが変だというのならば、ヒューゴ以外の人も変だと思っている可能性が高い。三歳の女児が男社会に混じって、酒に酔って騒ぐ男たちを見ているのは、教育上よろしくないだろう。子供の教育ひとつまともにできないのか、と母が陰口を叩かれてしまうきっかけは作りたくない。そう思って言ったのだが、ヒューゴはむっとして私の腕をがっしり掴んだ。
「レノムシって、ほんと馬鹿だよな!」
「ばか?」
「チビがうろうろしてたら、母ちゃんたちの邪魔になるだろ! お前は女の仕事がひと段落するまでここにいるのが仕事なんだ! それくらい、分かってろよな」
なるほど、ヒューゴは考えなしに私をここに連れてきたわけではなかったらしい。私が納得したように頷くと、ヒューゴは満足したようにニッと笑った。私たちをおじさんが生暖かい目で見ていたというのにはついぞ気が付かなかった。
サロメによると、この宴会は夜通し続くらしかった。やがて女仕事がひと段落したところで、母さんが姿を見せた。同時におばさんもやってきて、ヒューゴとジョルジュはそろそろ家の中に戻りなさいと連れていかれた。ここからは大人の時間らしい。幼い子供を持つ人たちがぽつぽつ帰宅していくのを見ながら、私も母さんと手を繋いで家路へと向かった。
夜に外を歩くのは初めての経験だった。電灯もないので、すっかり真っ暗になってしまって、足元が良く見えない。と思っていたのだが、案外月明かりでぼんやりと照らされていて、本当の暗闇というわけではなかった。
「母さん、見て!」
月明かりっていうことは、月が出てるのかな。そう思って地面を見ていた顔を上げて、私は思わず声を上げた。母さんが私の言葉につられて、空を見上げた。
「すごい、きれーだね」
「そうね。綺麗ね」
空には満点の星がキラキラと輝いていた。大きな丸い月が真っ黒な中に浮かんでいる。青白く光る月は見慣れたものよりサイズが大きかったが、それでもなんだか心が穏やかになった。星に手が届きそうなほど近いと感じるのは、いつぶりだろうか? まるで、田舎にある母方の実家に帰省した時に、天体観測しようと言って夜に外へ繰り出した時みたいな光景だった。……文化の違いで思ったよりストレスを感じていたらしい。心に感じていた疲れが一気に洗い流されていくようで、なんだかホッとした。
その夜は、硬いパンにベーコン、野菜スープが並んだ。驚くべきことに、スープの中にはウサギの肉が入っていた! 稀にしか食べられない肉の味に、感動で気が遠くなるかとさえ思った。なるべく噛み締めて大事に大事に食べていたので、いつもより食事を終えるのに時間がかかってしまった。
「今日はやっぱり、サロメの父さんが一番だったの?」
獲物を捌くときに着ていた服はだめになったので、別の服に母は着替えていたが、それでも微妙に生臭い。しっかり丁寧に布で拭かなきゃね、と私は清潔な布をお湯に浸した。
「ええ。今回もダミアンが一番獲物を狩ってきたそうよ」
「すごいね! 狩りはしたことがないからよくわからないけど、すごく大変そう。わたしも身体を鍛えたら、狩り、できるかな?」
「ふふ。レノには難しいかもしれないわね。母さんは、レノには狩りの腕前を磨くんじゃなくて、お裁縫や、お料理の腕を磨いてくれた方がうれしいわ」
「それは、お嫁さんになるため?」
「ええ。レノは大きくなったら、この村の誰かと結婚して、ここで生活していくのよ。だから、その時が来てもきちんとお嫁さんとして動けるように、今から腕を磨いておかなきゃね」
「ふーん……」
母の言葉通りの未来を想像してみた。あと十二年経てば、十五歳。それまでに女の仕事が一通りできるようになれば、まあ嫁の貰い手が無いと泣くこともないだろうと母は言った。この村の男に嫁ぎ、毎日農作業に追われ、旦那が狩ってきた動物を捌き、夜まで続く宴会の世話をし、子供の面倒を見る毎日。
……え、無理だよ!? 普通に考えて、無理じゃない!? サロメたちのことは好きだし、おばさんの好意には感謝してるけど、ここに永住っていうのは無理じゃない!? そもそも私はせっせと働く農耕民族のような生活には向いていない。なるべく楽に、苦労せずに生きていきたい。お金を稼げばいいんだよね? 今はまだ名案が浮かばないけど、もう少し大きくなったら村の外のことも勉強していけば、村を出ていってもなんとかなるんじゃないかな?
なんにせよ、今すぐに村を出ていくわけにはいかないだろう。暫くはここでせっせと毎日働いて、食事を確保しなければならない。ここでの生活環境を整え、生活水準を上昇させることだけを考えて暮らす必要があるだろう。
「ヒューゴは狩りは男の仕事だって言ってたけど、父さんも狩り、するのかな?」
ここで永住する話を続けようとする母の話を逸らしたくて、私は別の話題を振った。だが話題選びがマズかったらしく、母は一瞬押し黙った。
「……彼は、そうね。ダミアンたちとは違う意味になるでしょうけど、あると思うわ」
「違う意味?」
「……ダミアンたちは、生きるために狩りをしているわ。でも、彼は……あの人たちにとっては、……社交場のひとつなのよ」
母はぼそりとそう呟いた後、もうこの話はおしまいだと言わんばかりに私の身体をテキパキと濡れた布で拭いた。きっと、私に言っても意味が分からないだろうから、最後の言葉を呟いたのだろう。だが、残念ながら私はなんとなくわかってしまった。
狩りが社交場ということは、父は貴族なのだろうか? それとも、貴族にかなり近いところにいる豪商とか? なんにせよ、ひどい話だ。母に貧しい生活を強いて、こんな僻地……といってはここに住んでるサロメたちに失礼だが、要は父は母を孕ませておいて、ここに置いていったうえ、最近はめっきり姿も見せないわけで。私は父を自分の中の男性ランキング最下位に位置付けて満足したところで、頭をダミアンたちに切り替えた。
ダミアンが収穫量一位だったというところから見ても、やはり村を仕切る権限を持つ人間はすごい。狩りの達人である髭マッチョおじさんと、体力お化けでいつもニコニコサーラおばさん。農地を仕切るには適した人材なのだろう。てきぱきと明確な指示を女性たちに出すサーラおばさんの姿を思い出して、私には到底真似できそうにないなと改めて尊敬の念を覚えた。
今日もベッドにうつぶせになった母にマッサージしてあげた。すぐに母は眠りについてしまい、私はその寝顔をじっと見つめた。疲れているように見えるが、肌はすべすべのままだし、美人には変わりない顔の造形をしている。つい先ほど知ったのだが、私が朝方スヤスヤ寝ている間にも、母は早起きをして裏の井戸で洗濯まで済ませているらしかった。井戸が近くにあるから出来ることだろうが、それでもとてつもなく大変だろう。
……『私』が生きていたら、きっと母さんと同い年くらいだっただろう。私は『私』だったころに思いを馳せた。同じ環境になったとして、『私』は母さんと同じように子供の面倒を見ながら、こんなにも不便な生活を送り、ひもじい思いをしないために身を粉にして働くことができただろうか? そんな疲労困憊な毎日を送る中、子供に向かって、こんなに優しく接することができただろうか?
「いつもありがとうね、母さん……」
スヤスヤと眠る母の顔に、『私』だった頃の母の姿が重なって見えた。
「……ごめんね………『母さん』……」
母の白い頬に、ぽつりと雫が落ちた。




