第45話 出発の朝
出発の朝がやってきた。仕事に行くよりも早く起きて、家を出る支度を終わらせる。母は深い眠りに落ちているようだったので、無理に起こさず、あとのことはサロメたちにお願いすることにした。
薄暗い中、ランプの明かりを頼りに、籠の中身を確認した。忘れ物がないか、最後の確認だ。籠の中には金目の物が入っているので、一応着替えだけが入っているように見えるように、上の方は服で固めてある。
きちんと売る予定のものや着替えが入っていることを確認すると、私は一度だけ寝室に戻った。すやすやと眠る母の頬を撫でて、行ってきます、と小さく呟く。
すでにゆっくりと周囲は明るくなり始めていた。
太陽が昇り始める頃、出発の予定なので、そろそろ行かなければならない。私は少しだけ寂しい気持ちになりながらも、寝室を後にした。
籠を背負って、家を出る。いつもは家を出るとき、空の籠を背負っていくので、中身がいっぱい入っている籠を背負って家から出るのはなんだか変な感じだった。扉を閉めて、外気を胸いっぱいに吸い込んだ。周囲の輪郭がゆっくりと形を露わにする景色を眺めながら吸い込んだ空気は、少しだけしっとりと、そしてひんやりとしていた。夏の朝の匂いだ。私はもう一度忘れ物がないか頭の中を巡らせた後、籠を背負いなおして、歩き始めた。
村と外の境界線にやってきた。ここまで来たのは初めてだ。そもそも、村の外に出るのが初めてのことなのだ。……父さんの馬車でこの村を出たことはあるけど、夜空を見た後はすぐに戻ってきたし。
どこまでも真っ直ぐな道が広がる村の外側を目にして、私はちょっぴり緊張し始めていた。
いつもは通らない道を通ったので本当にこっちで合ってるか不安だったが、境界線辺りに人影が見えて、ほっと胸を撫でおろす。近付いていくと、気付いた。人影だけではなく、すでに馬車も到着しているらしい。馬はバケツに入った水を飲んで、休憩しているようだった。……早めに出たつもりだったが、どうやらみんなの方が早く集合していたらしい。
ジョルジュとロジェの二人だけがいるかと思っていたのだが、見送りに家族が総出で来ているようだった。サーラおばさんにダミアンおじさんといったジョルジュ一家ご一行様の姿が見える。その隣には、マルタンとロジェがいた。二人に心配そうな顔を見せている女性は、恐らく母親なのだろう。
「レノ!」
「おはよ! 遅くなっちゃったかな、ごめんね」
私がやってきたことに気付いたらしく、ロジェが声を出して手を振ってくれた。私はにこりと笑って、ロジェに駆け寄った。すると、ロジェたちの母親が私を見て、小さく会釈をしてくれた。
「初めまして、あなたがレノちゃんね? 話はマルタンからよく聞いているわ。街に行くのは、あなたたちも初めてのことだとは思うけど……マルタンのこと、よろしくね。マルタン、ロジェのいうことをきちんと聞くのよ」
優しそうな人だった。やせ型で、しかし肝は据わってそうな印象を受けた。ロジェによく似ている顔立ちをしているところを見るに、マルタンは父親に似ているのかもしれない。
ロジェのいうことを聞くように、というのはもはやマルタンにとって耳タコになっているらしく、面倒くさそうな顔で適当に返事をしていた。私はそんな子供っぽいマルタンの仕草に笑いながら、おばさんとこちらこそよろしくお願いしますという話をした。
「レノったら、今日はどこかのお貴族様みたいに見えるわ!」
順番を待っていたらしいサロメが興奮した様子で言った。私はそれに苦笑で返して、頬を掻く。
「お貴族様は言い過ぎだと思うけど……でも、サロメからお洋服が貰えてたのはすごく助かったよ」
私としては、今日から街へ行くのだから、昨夜は出来る限り身体を綺麗に磨いてきていた。ぬるま湯でしっかり頭皮と髪を洗ったし、傷んだ毛先には保湿のために薄めたオリーブオイルを少しだけ刷り込んだ。髪もしっかり梳かしてきたので、かなりさらさらになっている。服はサロメのお下がりなので、いつものボロ布よりもちゃんと服っぽいだろうし。身体にも服にも汚れひとつない、綺麗な姿だ。
季節が冬だったらなぁ。父からもらったコートを着ていけば、それこそお貴族様のように見えたかもしれない。少しでも見た目に箔がついただろうが、残念ながら今は夏だ。そんな暑っ苦しいものを着ては行けない。
ちらりとマルタンたちの服装を見てみたが、誰もそれっぽい服は着ていなかった。普段のボロ布よりかはまだマシな格好だったが、どんぐりの背比べといっても過言でもなさそうだ。確かに、大人ならまだしも、子供はそもそも街へ行くことがない。となれば、子供が街へ行く用の服を準備してあるわけがない。今回の街行きも電撃的に決まった話だから、そんな準備をする暇もなかったし。まあ、向こうで仕入れれば大丈夫かな?
「それで、どうやったらそんな髪になるの? どうしたらそんなに肌も綺麗になるの?」
「まあまあ、あとは戻ってきてからにしないか?」
別に大したことはしてないんだけど、と私が対応に困っていると、ロジェが仲裁に入ってくれた。そろそろ出発の時間だからね、というロジェの言葉に、周囲を見渡す。先ほどまでの薄暗さはなくなり、太陽がゆっくりと姿を見せ始めていた。朝焼けの眩しさに目を細めていると、そういえば、とサーラおばさんが私とロジェ、マルタンに向かって話し始めた。
「一人ひとつ分、ジョルジュにヌーロを持たせてるからね。必要な買い物は、これで済ませるといいさね!」
何が売れて何が売れないか、この村にいる限り、見極めるのは難しい。街に行ってみないとなんとも言えない。だが、ヌーロは違う。非常に貴重な果物らしく、いつでも高値で買い取ってもらえるそうだ。だから大人たちは街へ行くとき、必ず一人一個のヌーロをもっていく。もし、自分の売り物が思った金額でやりとりされなかったとしても、これを売ってなんとか足しにするために。
「あ、ありがとうございます!」
ヌーロをもぎっていいのは、村で権力を持つ人たちだけだ。しかも、勝手にもぎれないように、全員の許可がないともぎってはいけないと村の掟として決まっているらしい。それをわざわざ準備してくれたということは、村総出で私たちの街行きを支援してくれているということだろう。……これって、ジョルジュを巻き込んだ成果だよね!? マルタン、グッジョブすぎる!
そう思って咄嗟にマルタンに視線を向けると、ぱちりとマルタンと目が合った。マルタンは全てわかっていたかのような顔で、ふっと笑った。
そろそろ時間だ、とロジェが言った。私たちは馬車に近付き、一度振り返る。ジョルジュが寂しそうに自分の家族を見ていた。サーラおばさんもダミアンおじさんも、笑顔は見せているが、ちょっぴり寂しそうだ。
「行ってくるね」
ジョルジュがぽつりと言うと、おじさんもおばさんも、気を付けるんだぞ、しっかりね、と口々にジョルジュに声をかけた。同じようにロジェとマルタンが自分の母親に行ってくるから、と声をかけると、そちらでも気を付けて行ってくるのよ、と激励の言葉をかけられている。ほほえましい家族のやり取りだ。私はそれを一歩下がったところで眺めていた。ひとまずこのやり取りが終わらない限りは出発できないだろうと思い、みんなの気が済むのを待っていた。
すると、ヒューゴがむすっとした顔でこちらに歩いてくるのが見えた。ジョルジュに忘れ物でもあったのだろうか、と眺めていたが、ヒューゴは真っ直ぐに私の方へと向かってきている。なんだなんだ。
「どうしたの?」
母のことは頼んであるし、忘れ物も特にないはずだ。それでも何か忘れているのだろうか、と考えを巡らせていると、ヒューゴは私の目の前で立ち止まった。私を睨んでいる。いや、睨まれても。
「ヒューゴ?」
「……お前の母ちゃんは、家にいるんだろ?」
「そりゃあ、うん。まだ治ってないし、そのために薬を買いに街に行くわけだし……」
何の話だ? と私が不可解そうにしながらも答えると、ヒューゴは違う、と首を横に振って嫌そうな顔をした。
「何を怒ってるの?」
「怒ってねえよ! そうじゃねえ」
「はあ………」
「……。お前の母ちゃんは家にいる。でも、俺の母ちゃんはここにいて、ジョルジュを見送ってる。マルタンの母ちゃんもそうだ。……だから」
「だから?」
「………俺をお前の母ちゃんと思え!」
思わずヒューゴをじっと見つめた。気付けば、周囲もじっとヒューゴを見つめていた。ヒューゴもどうやらそれに気付いたらしく、顔を真っ赤にして、ああくそ! と悪態をついて頭を掻きむしっていた。
「……なにそれ、わけわかんない」
「んだと!?」
本音をぽろりと出すと、ヒューゴがぎろりとこちらを睨んだ。でも、私は我慢できなくなって、吹き出した。面白くて、可愛らしくて、いじらしくて。優しくて。私はお腹を抱えて笑った。ヒューゴは笑うな! と怒っていたが、そのうち呆れたらしく、何も言わずに睨んでくるだけになった。
「……ありがとう、ヒューゴ。………行ってくるね」
「おう!」
「今のは母さんに言ったんだよ、ちゃんと母さんみたいに返してよ」
「あ? ………い、行ってらっしゃい、レノ……?」
ヒューゴが慌てたように視線を彷徨わせ、迷うように少し声音を作って答えてくれたので、私は再び大笑いした。ヒューゴが本気で怒り出しそうな気配を察したので、すぐに笑うのはやめたが。
「サロメ、リアム、サーラおばさん……母さんのこと、よろしくお願いします」
「ああ、こっちのことは任せて頂戴。しっかりね!」
「行ってらっしゃい、レノ」
「レノ、いってらっしゃい!」
私はみんなの顔を見渡して、会釈をした。そして、馬車へと乗り込む。……私だけは自力では無理だったので、ロジェに抱き上げてもらったが。
全員が馬車に乗り込むと、ゆっくりと馬車は動き始めた。小さな出窓があり、木の枠を外すと外が見えた。ジョルジュやロジェがそこから身を乗り出し、大きく手を振っている。窓を取られた私と隣に座るマルタンは、大人しくその姿を見ていた。……これで、本当に出発なんだ。私は向かいに座って窓から手を振るロジェの隙間から見える、外の景色をぼんやりと眺めた。
初めて、村から出た瞬間。きっと私たちは、この日を忘れることはないだろう。
ガタンッと音を立てて、馬車が揺れた。随分前から、すでに舗装された道が終わっていて、時折石を踏んづけているのか、はたまた凸凹している道を進んでいるのか、ガタガタと大きく揺れることがある。これを半日続けなければ到着しないのかと思うと、すでにうんざりするような気分だった。
最初のうちは、ジョルジュも私もマルタンも、小窓の外を見て大騒ぎしていた。大自然だ! なんにもないがここにある! と、手入れされていない自然を見て大はしゃぎしていたのだが、当然のようにそのうちそんな光景には飽きてしまった。ぼんやり眺めているうちにうとうとしてしまうのだが、ガタンと馬車が揺れるたびに、強制的に目が覚めてしまうのであった。
早く街に到着しないかな……とすっかり大自然に飽きてしまった私は、ぼけーっと外の光景を眺めていた。朝早くに出発しているので、恐らくは昼過ぎには着く予定だ。
『私』にとって、長時間の移動といえば、それは睡眠時間に充てられる時間だった。始発の電車に乗って旅行に行く、なんてこともしていたっけ。しかしそれらは安心で安全で、乗り心地の良い空間だったからこそできたものなのだと心の底から今、理解していた。ちょっとした段差でこんなにガッタンガッタン揺れられて、しかも座ってるのはふかふかな椅子……なわけがなくて、こんなにもお尻に衝撃が直に来るなんて……。
もちろん父の馬車も同じような乗り心地だったが、あの時は父が膝の上に乗せてくれたり、布が敷いてあったり、内装がゴテゴテしていたり、他のことに気が取られていて、ここまでうんざりするような気持ちにはならなかった。
そういえば、この馬車も外面は父の馬車と似ているな、とふと思い出した。比較対象がなかったので気にしていなかったが、父が乗るような馬車なのだから、もっと外側もゴテゴテしているのかと思ったのだが……お忍びで来てるんだったら、荷馬車とか、一般市民が乗っているような見た目じゃないと怪しいもんね? その代わりに中はかっこいい感じになってたり、手触りの良い布が敷かれていたりしていたので、今の乗り心地とは多少違うわけなのだが。
ちらりと馬車の中を見渡した。子供が三人と、大人が一人。ジョルジュは少年と青年の狭間のような体つきだが、マルタンはまだまだ子供体形だ。私なんて言わずもがな。そのため、馬車の中は荷物があってもそこそこ快適な広さになっていた。
これがもし大人四人で乗り合わせていたら、と思うとぞっとする。しかも同量の荷物があるのだ。すし詰め状態である。電車のボックス席よりも狭いのだ。ガタイの良い農民が四人揃ったら悲惨な光景になりそうだ。
「緊張してるのかい?」
向かいのロジェが、その隣に座るジョルジュに話しかけた。気付かなかったが、どうやらジョルジュはとても緊張していたらしい。その顔つきは強張っていて、ロジェの声かけにも曖昧に笑っていた。
「……初めて、村から出たんだ。緊張しないわけがないじゃないか」
村を出た最初のうちは冒険心に胸を膨らませていたらしいジョルジュだが、その気持ちも落ち着いてくると、残るのは緊張だけだったらしい。ジョルジュが落ち着かない様子でため息をついていた。
「………その意見には一理あるけど、ここに緊張のカケラもないやつがいるからね」
マルタンが肩を竦めて、私を顎で示した。ジョルジュは困ったように小さく笑った。
「レノはすごいよ、どうしたらそんなに自然体でいられるんだい?」
「どうせ、食い物のことで頭がいっぱいなんだろう」
「ぐっ……」
ジョルジュに羨望の眼差しを向けられてちょっぴり気分が良かったのだが、マルタンがざっくりと私を切り捨てた。実のところその通りだったので、私は気まずそうに視線を逸らす。……だって! せっかく街に行くんだよ! 着いたらまずランチじゃん!?
「まあまあ、ジョルジュも、レノちゃんも。街に着くにはもう少しかかるんだから、ひと眠りしたらどうだい?」
ロジェが場を取りなすように言った途端、また馬車が揺れた。居眠りの前に馬車酔いしてしまいそうだ。こういう時は酸っぱいものが良いんだっけ? 残念ながら梅干しは持っていないので、今度は必ず柑橘系のものをもって乗車しようと心に決めた。街で蜂蜜レモンとかゲットできないかな?!
「母さんが期待した金額で交渉出来なかったらどうしよう……」
ジョルジュが心配そうに言った。すでに心配で胃痛が始まっているらしく、顔を青ざめてお腹をさすっている。ロジェはそんなジョルジュの頭をわしわしと撫でた。
「大丈夫だ。いざとなれば俺もついてるし、俺たちが売りに行く先も、いつも売りに行っているところと同じだからな、安心していいよ」
「でも、僕らみたいな子供が売りに来るのは珍しいことなんだろう? 子供料金で交渉されたりしたら……」
そんな子供料金、あってたまるか。私はあくびをかみ殺した。
「兄さんの言う通りさ。向こうも商人なんだ。変なことをして、信頼を落とすようなことはしないって」
「そ、それならいいんだけど……」
心配と不安が止まらないジョルジュと、そのモチベをなんとか持ち上げようとするロジェ・マルタン兄弟。三人の、まるで職場の愚痴大会みたいな栓無きやりとりを聞いているうちに、だんだんと頭の中がぼんやりとしてくる。朝が早かったからだろうか、それとも馬車の空間に慣れてしまったからだろうか。私は三人のやりとりを子守唄に、いつの間にかすっかり眠ってしまっていた。
「………レノ、寝ちゃった?」
ふと隣の様子に気付いたマルタンがレノの顔を覗き込み、呆れたように笑った。ジョルジュはやっぱり羨望の目をレノに向け、ロジェは思わずといったようにクスクス笑った。
「さすがレノちゃん。将来、きっと大物になるね」
「その図太さが、時には羨ましくも思うね」
マルタンがため息交じりにそう言うと、同意するようにジョルジュもこくりと頷いた。
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