第36話 高熱
「本当に大丈夫なのかい?」
夏なので、日の昇る時間が早い。朝早い時間は比較的涼しくて、過ごしやすい。新鮮な朝の匂いを胸いっぱいに吸い込んで、私はサロメの家へと向かった。
母の容態を話すと、サーラおばさんは心底心配そうに眉根を下げた。
「ここに来る前に、一度、マルタンのところに行ったんです」
朝早くから申し訳なかったが、私としては、それどころじゃなかった。
「マルタンに薬草を煎じてもらって、ロジェに様子を見てもらいました。まだ熱も下がってないし、意識もはっきりしてなくて……だから、ごめんなさい。しばらく母さんは、働けないです」
深々と頭を下げると、サーラおばさんは慌てたように言った。
「そんなこと気にしてる場合かい! 病気なら仕方ないさ、早く良くなるといいねぇ」
「あの、ごめんなさい。わたしも今日はお休みさせてもらってもいいですか? まだ家にマルタンとロジェがいて、母の看病もしなきゃいけなくて……」
「もちろんさ。早く帰った方が良い。アタシもお昼くらいに一度向かわせてもらうよ。レノちゃん一人だと、何かと大変だろう」
「ありがとうございます!」
「いいから、いいから! 昼飯はアタシが作って持っていくからね! さ、帰った帰った!」
「あ、ありがとうございます!」
サーラおばさんに背中を押されるようにして、私はまた走って家へと戻った。
その朝。目が覚めた時、違和感があった。
隣を見ると、母が横になっている。まだ夜明け前なのだろう。二度寝しようと目を閉じようとして、その目を開いた。何か違う気がしたのだ。私はこっそりベッドから降りて、玄関の戸を開けた。外は暗かったが、遠くが少しだけ照らされ始めているようにも見える。つまり、もうすぐに夜明けなのだ。
母は普段、夜明け前に起きて、朝の支度をしていた。太陽が姿を見せる少し前に私を起こして、太陽が出てきた頃には私たちはサロメのところへと向かう、というのがいつもの流れだ。
この時間帯に母が起きていないのは初めてのことだったので、私は苦笑した。母も寝坊することがあるんだ、と。むしろこの一年間一度も寝坊しなかった方がすごい。私なんて、母に起こされるまでなかなか起きれないというのに。
「母さん、朝だよ」
まだ寝坊というほどの時間ではないが、あまりゆっくりしていて仕事に遅刻したらまずい。母の肩を揺さぶって起こそうとしたが、返事がない。おかしいな、と思ってもう一度揺さぶった時に、ふと気付いた。母の身体が熱いのだ。
「母さん? 母さん!?」
もう一度揺さぶってから、私は母の額に手を当てた。……熱い。
私のひやりとした手の感覚で、母は目を覚ましたらしい。掠れた声で呟いた。
「……だ、れ………?」
「母さん! レノだよ! わかる!?」
「レノ………」
母はぼんやりとしていた。焦点が合っていない。きっと高熱のせいだ。頭の中に、病院行かなきゃ、熱を測らなきゃ、病気かもしれない、と、いろんな考えが巡っていく。一体何からしたらいいのだろう、と私は苦しそうな表情の母の顔をじっと見つめた。
ふと、自分が茫然と母の顔を眺めているのは、『私』の時の知識が私の思考を邪魔していることに気付いて、ぶんぶんと頭を振る。病院は無いし、熱を測る機械だってないのだ。私一人で解決できることではない。
私は外に飛び出して、井戸から水を汲んできた。鍋に移して沸騰させ、もう一度水を汲んでくる。清潔な布を煮沸消毒させた後、井戸水に浸して、母の口元に持っていく。起き上がれそうにもないし、意識もはっきりしているわけでもないので、コップから水を飲めるとは思えない。だが高熱の中、水分補給しないのは危険だ。
清潔な布に水分を含ませ、なんとか母に水分補給をさせた後、他の布で顔や首元の汗を拭って、きちんと布団をかぶせた。お粥でも作ろうかとキッチンに立って、もう一度頭をぶんぶんと振った。すべきことは粥づくりではない。薬が必要だ。となると、マルタンの力を借りた方が良い。私は家を飛び出して、マルタンの家へと全力疾走した。
私の短い脚ですぐに助けを求められそうな先は、まずはサロメの家なのだが、薬草の調合などのことを考えればマルタンの家に行った方が合理的だった。混乱しながらも冷静にそう判断出来た自分を褒めてあげたいくらいだ。
家畜の世話で私より早起きしているらしいマルタンは、干し草を牛たちに与えている仕事の真っ最中だった。肩で息をしながらこんな時間に訪れた私にマルタンは驚いていたが、事情を話すと、マルタンは自分の仕事を放り出して、他の場所で作業をしている両親のところへと飛んで行った。
すぐに戻ってきたと思えば、マルタンは籠に薬草と調合用の荷物一式を詰めて背負っていた。それに、あっという間に話をつけてくれたのか、ロジェも一緒に来てくれるという話になった。
……実のところ、ちょっと、ほっとしていた。
村の人の力を借りれるのは、とても有難い。私はただの四歳児だ。母が倒れてしまうと、私にできることはほとんどなくなってしまう。兄弟もいなければ、父もしばらくは来ない。頼れる先がいないのだ。
とはいえ。母の容態が回復しなければ、これからどうしたらいいのだろうか。ずっと作業を休むわけにもいかない。食事の面でまず困ってしまうからだ。銀貨はあるので、暫くはなんとか備蓄した食料やお金で食事を賄えるだろうが、やがて底を尽いてしまうだろう。
それに、行商人の日に爆買いしたとしても、新鮮な野菜は一か月も保管できるわけではない。栄養面で偏りが出てしまう。となると、ある程度まとまったお金はまだ手元にあるのだから、サロメの家にお金を渡して、食料を譲ってもらうという取引を提案してみる必要があるだろう。だが、この村に、村人同士で金銭のやり取りをするような文化体形が出来ているとも思えない。
……考え出すと、キリがないな。私は走って弾んだ息を落ち着けるように深呼吸して、家の扉を開いた。
「お帰り、レノ。話は出来た?」
「留守をありがとう、ロジェ、マルタン。サーラおばさんと話ししてきたよ。しばらくお休みするっていうのも伝えてきた。母さんの具合はどう?」
「あまり良くないな……高熱で魘されているようだったから、ひとまずマルタンに今、熱を下げる薬を作ってもらっているよ」
ロジェはそう言って、キッチンに立つマルタンを親指で示した。私は弾む息を抑えながら、母のもとへと向かう。母はまた汗をかきながら、苦しそうに眉間に皺を寄せて呻いている。呼吸が早い。
私は布で母の汗を拭った。氷があれば氷嚢が作れたのだが、残念ながらそんなものを作れる機械はない。私は布を水の入った桶に入れて、水気をしっかり絞って、母の額に乗せた。
「レノ、何を……?」
ロジェが私の行動を不審そうな目で見た。
「熱が出てるなら、暑いんだよね? だったら冷やしてあげたくて……熱が出たとき、ロジェは何をするの?」
「何をって……赤い実を食べれば風邪なんてすぐに治るから、あまり経験がないんだ」
困ったようなロジェの言葉を聞いて、私は納得した。あの神がかった力を持つ赤い実を食べれば、なんでも回復するらしい。村人の中でも、母のように意識を朦朧とさせるようなレベルまで高熱を出すことは滅多にないとのことだった。
「このままだとあの実を食べられないだろう? 喉に詰まらせてしまっては、もっと大変なことになるからね」
意識が回復し次第、あの実を食べさせればこっちの勝ち、みたいな感じなのだろう。ロジェはとにかく熱を下げさせたいようだった。マルタンも同じ考えらしく、解熱効果のある薬草を煎じたものを作ってくれているようだった。
ロジェはふと顔を上げて、一度外を見に行った。戻ってきたロジェは、申し訳なさそうな顔をしていた。
「すまないが、僕はそろそろ仕事の時間だ。また夕方顔を出すつもりだけど、それまで大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。ありがとうロジェ。迷惑かけてごめんなさい」
頭を下げると、ロジェはまた困った顔をした。私のそばまで歩いてきて、視線を合わせるためにしゃがむ。そして、ぽんぽんと頭を撫でた。
「レノ。困ったときはお互い様だよ。僕が高熱を出したら、レノも助けてくれると嬉しい。だから、気にせず僕たちを頼るんだよ」
「……うん。ありがとう、ロジェ」
「マルタンは置いていくから、好きなように使ってやってくれ。マルタン、あとは頼んだよ」
「もちろん」
ロジェはマルタンに声をかけてから、家を出て行った。マルタンは一度火を止めて、器に薬を注いでいた。そしてスプーンと一緒にこちらに運んできてくれた。
それを見て、私は母の身体を起こした。ぐったりとした身体は重くて、熱かった。私が母を支えていると、マルタンがその口に薬を流し込んだ。飲み込めずに噎せたり、口から零れたりもしたが、何度か流し込んでいるうちにきちんと飲んでくれるようになった。
器に入れた分だけ飲み干してもらった後、もう一度母にはベッドに横になってもらった。また水で湿らせた布を母の額に置いておく。これで熱が下がって、赤い実を食べれば大丈夫だ、とマルタンはほっとしたように言った。だが、私は安心できるような気持ちにはなれなかった。
お昼になって、サーラおばさんが食事を持ってきてくれた。私とマルタンはありがたくそれを食べさせてもらって、少しだけ休憩した。
その後、母の様子を見に行ったのだが、母の熱は下がっていなかった。
「……一度、先生のところに行ってくる」
マルタンが顔を強張らせたまま言った。サロメの家に食器を返しに行って、その足で先生のところへ行き、症状を話してどんな薬を作ったら良いか相談してくるとのことだった。
「できれば先生も連れてくるから。少しだけ、一人で留守番していられる?」
「分かった。よろしくね、マルタン」
マルタンは食器を持って家を出て行った。……マルタンはああいったが、恐らく先生は来ない。自分の存在を私の父や母に隠したがっている先生が、ここを訪れるとは考えにくい。でも、助言くらいはしてくれるかもしれない。
それでも、私の心は晴れなかった。何より不安なのは、みんなが言っている、赤い実のことだった。恐らく母はあれを食べないだろう。もし食べたとしても、一日一粒。それですぐに回復するとも思えない。でもきっと、みんなはあれを食べれば良いと言うはずで。
「どうしたらいいのかな……」
私は眉根を下げて、母の頭を撫でた。額の上の布を取って、もう一度冷えた井戸水につけて、絞って、額の上に戻す。ふう、とため息をついていると、ゆっくりと母の瞼が開かれていくのを見た。
「か、母さん!?」
思わず大声が出た。飛びつくように母を覗き込むと、母はぼんやりとした様子で、しかし今度はしっかりとその青の瞳に私を映した。
「レノ……?」
「か、母さん……! 熱い? 気持ち悪い? どこか痛い?」
ほっとした気持ちがぶわりと心に広がって、そのまま思いが雫になって瞳からぽたりと零れた。母は苦笑いするように口元を少しだけ上げて、私の頬をゆっくりと撫でた。
「……母さんね、本当は、もともとあまり身体が丈夫じゃないの……昔からよく、体調を崩す子で……だから、ここ最近ずっと元気だったことの方が、珍しいことだったのよ」
だからといって、今、母が高熱を出していることには変わりがない。昔から身体が弱かったのならば、本来、より一層日々の暮らしには気を付けなければならなかっただろう。私はぐっと奥歯を噛み締めて、母を見つめた。
「じゃあ、どうしたら治るか分かる?」
「………大丈夫よ、レノ。そんな顔をしないで。少し休んでいれば、きっとよくなるわ」
力のない笑みを浮かべて、そんなことを言わないでほしい。私は痛々しいものを見るような気持ちになった。
「でも、母さん、熱がすごく高いんだよ。そんなにすぐよくなるなんて、思えないよ」
「大丈夫。だから、何も不安に思わなくていいわ。……きっと、母さんの身体はね。休ませてほしいって、言ってるだけなの。少しの間迷惑をかけることだけは申し訳なく思うわ。ごめんなさい」
「母さんが謝ることじゃないよ! 疲れてるってことだよね? いつも母さん、頑張りすぎてたんだよ。……あのね、みんなが言ってるんだ。あの赤い実を食べればすぐに風邪なんて治るって、」
「ダメ」
今まで弱々しい姿を見せていた母が、ひどくはっきりとした声を出した。驚いて母を見つめると、母は強い意志を持った表情で私を見返した。
「それだけはダメ。レノ、約束して頂戴。何があっても、私にあの実を食べさせてはダメよ」
「……で、でも、あれを食べれば治るって、みんなが………」
「母さんには逆効果なの。お願い、レノ。母さんにあれを食べさせないで」
母はゼエゼエと苦しそうな息を漏らしながらも、鋭い視線を私に投げかけた。私は母に捕まれた袖を見つめる。……それほどまでに、あの実は母の身体にとって、悪い影響のあるものらしい。一体あの実は、何なのだろう。みんなは食べると体調不良系は全部治るといっているのに、母にとっては逆効果になるなんて。
「わ、分かった、気を付けるね」
そう言って、私は母の手に自分の手を重ねた。私が頷くのを見て、母は安心したように小さく息をつき、目を閉じた。やがて小さな寝息が聞こえてきた。私はそれを聞いて、深い息を漏らした。
家の裏の井戸で洗濯をして、それを干し終わった頃、マルタンが戻ってきた。その表情は浮かない様子で、私は何があったのかと尋ねた。
マルタンは先生に母の容態を相談し、解熱剤を煎じたが効き目がないということを話してくれたらしい。だがそれを聞いていた先生は、次第に難しい顔をしていった。
「先生は、それしかないって言ったんだ」
「それしかないって……マルタンの解熱剤しか手はないってこと?」
「作った手順とか、材料とか、全部話したんだけど、それが一番効き目のある薬だって。すぐには効いてこないなら、それを毎日飲ませて、このままゆっくり休ませておくのが一番の療養になるって。いつか効いてくるからって」
つまり、日にち薬ということだろうか? ……そんな、打ち身とか捻挫じゃないんだから。もしかして、ウイルス性の風邪じゃないから、免疫力を高める他に打つ手はないってこと?
私が難しい顔でマルタンを見つめていると、マルタンは申し訳なさそうな顔で俯いた。先生の言葉に納得がいっていないのは手に取るようにわかる。
「せめて赤い実を食べさせるとか、何か出来ることはないかって先生に聞いたんだ。でも先生は、そっとしておいてほしいって。とにかく眠らせてあげなさいって、それしか言わなかったんだ」
「何も、しなくていい……か」
奇しくも、先生の言うことは、先ほど母が私に話したことと酷似していた。とにかく療養が必要なのだと。赤い実を食べさせないようにして、あとはゆっくり休ませてほしい、と。
「……先生がそう言うのなら、私はそうした方が良いと思う」
もしかすると、先生は母の容態に思い当たるものがあるのかもしれない。母も自分の治療法は自分で分かっているみたいだったし、二人が同じ意見になるということは、この世界では案外一般的な治療方法のひとつなのかもしれない。
よくよく考えれば、この村の人たちはあの赤い実を行商人に売っていない。つまり、あれはこの村特有の超回復薬だという可能性がある。この村の人たちはあの実で治るような身体をしているが、他の村の人たちはあの実に身体が慣れていないから、あれを食べても逆効果になることがあるのかもしれない。だから先生も無理にあの実を食べさせるんじゃなくて、自己治癒能力に任せようとしているとか。
……やはり何も知らない私たちが勝手に判断して勝手に薬を処方するよりかは、知恵のある人間たちを信じて動いた方が良いはずだ。
「分かった。家族であるレノも先生に同意見なら、僕が勝手に動く話じゃないからね」
マルタンは、納得はしていない様子だったが、一応理解は示してくれた。私はマルタンの頭の柔軟性に感謝した。だがすぐに、この柔軟性は『マルタンだから』あることなのだと理解させられた。
夕方になって、ロジェが様子を見に来てくれた。まだ熱の下がらない母を見て、ロジェは表情を曇らせた。当然のようにマルタンにどうして治らないのかと尋ねて、マルタンは先生に言われた通りのことを話す。すると、ロジェは信じられないものを見るような目で、私とマルタンを凝視した。
「このままだって? こんなにもマリアンヌさんが苦しんでいるのに、このまま寝かせるだって!?」
ありえない、とロジェは非難するように私たちを見た。
「レノ、君はマリアンヌさんの一人娘だろう? マリアンヌさんを助けたいとは思わないのか?」
「思ってるよ! だから何もしないんだよ、何も知らない私たちが勝手に動くより、先生の方がずっと物を知ってるんだから、先生がそう判断したのなら私はそれに従うべきだと思う」
「僕も先生のことはマルタンからよく聞いているから、立派な人なんだということは知っているさ。事実、マルタンが色々なことを僕よりも詳しくなっていっているのは、先生のおかげなんだってことも分かっている。だから信頼しているし、尊敬もしているよ」
ただ、とロジェは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「病人を放っておけ、なんていう言葉は聞き捨てならない。……先生にも苦手な分野があったってことかもしれないな」
そう言ってため息をついたロジェは、マルタンに今すぐ赤い実を採ってくるように言った。それも、もしかすると食べられないかもしれないから、液体にして飲ませられるように多めに採ってこい、と。マルタンは椅子から立ち上がったが、迷うように視線を彷徨わせた。それを見て、ロジェはまたため息をつく。
「マルタン、お前が先生を尊敬して、信頼している気持ちはよくわかる。でも、時には自分の判断で動かなきゃいけない時があるんだ。男なら、自分が考えた道を自分で切り開かないといけない。いつまでも誰かの指示を待っていちゃ、一人前にはなれないぞ」
「兄さん……」
マルタンは迷うような視線を私に向けた。だが私は首を横に振って、同じように椅子から立ち上がった。そして、マルタンと玄関の間に立ちふさがるように仁王立ちした。
「ロジェ、ごめんなさい。心配してくれる気持ちはすごくうれしいんだけど、わたしは先生を信じたいと思ってる」
「レノ、正気か?」
……そもそも先生は放っておけ、なんて言ってないし。ゆっくり眠らせてあげてって言っているだけだ。解熱剤とか、免疫力アップの薬は今後も飲ませるので、何もしてないわけでもない。……この村の人たちは、全ての体調不良をあの赤い実によって、一発で回復させてきたのだろう。だからあの実への信頼がMAXなのだ。
母は、あの実を食べさせないで、と私に言った。その意見を無視するわけにはいかない。色々なことを何も知らないくせに、勝手に判断して動くのはあまりに危険すぎる。
私は色々な知識はあってもこの世界に詳しくないし、ロジェはこの村には詳しいかもしれないが、外の世界を知らない。一番信頼できるのは、色々な知識を持っている先生だ。そしてその先生も、あの実を食べさせることよりも、治療として眠っておくことを選んだのだ。
「わたしはこのまま母さんをゆっくり眠らせておくつもりだよ。でも、数日間様子を見て、それでも全然回復の兆しがないようだったら、先生に直接事情を聞きに行こうと思ってる」
「…………僕は反対だね」
ロジェは冷めた目で私を見た。ロジェにそんな目を向けられるのは初めてだったので、私は嫌な感じに心臓がドキドキした。
「手をこまねいている間に、マリアンヌさんにもしものことがあるかもしれない。そうしたら、レノはどうするつもりだい? レノのせいで、マリアンヌさんが死ぬんだぞ?」
「今のところ容態に急激な変化はないよ、ただ高熱が続いているだけだから。そんなことにはならないと思う」
「そんなこと分からないだろう!」
「に、兄さん!」
突然ロジェが大きな声を出したので、慌てた様子のマルタンがロジェの手を引いた。マルタンが視線で寝室を示すと、ロジェは幾分か冷静さを取り戻したらしい。深いため息をひとつついて、頭をガシガシと掻いた。
「……僕は反対だ。でも、家族でもない僕が反対したところで、どうしようもないな」
ハッ、と笑って、ロジェは荒々しく家を出て行った。ロジェのそんな姿は初めて見たので、私は気まずい思いでロジェが出て行った扉の方を見つめた。
取り残されたマルタンは、おろおろした様子で薬草を片付けて、籠を背負った。そのまま開いている扉から帰るのかと思えば、ふと立ち止まってこちらを向いた。
「…………本当は、うち、三人兄弟だったんだ」
「………え?」
「兄さんと僕の間には、もう一人、姉さんがいたんだ。身体が弱くて、よく寝込んでた。……姉さんはいつも言ってたんだ、何もしなくていいって、放っておけば治るって。赤い実は嫌いで、食べてくれなくて。でも、赤い実を食べないなら、薬が必要で。薬を買うにはお金が必要で。姉さんはそんなにひどいものじゃないから、余計なことでお金をかけなくていいって言い続けて。……それから数か月後に、死んだんだ」
開いている扉から風が入り込んで、部屋のランプの火を舐めた。照らされたマルタンの顔の影が揺れ動く。
「だから兄さんは怒ったんだ。………ごめん、それだけ知っておいてもらいたくて」
「………そっか。頭の固い人なんだって勘違いするところだったよ。教えてくれて、ありがとう」
「……レノ、無理はしないで。何かあったら、またすぐに頼ってほしい」
そう言ってマルタンは外に出て、扉を閉めた。
ロジェの怒りには理由があったのだ。……でも、それでも、今回のことと、ロジェの妹の話は違う話だ。ロジェの妹は無理やりにでも赤い実を食べさせれば助かったのかもしれないが、母の場合、赤い実はむしろ毒になるのだと本人が言ったのだ。
薬だって、大丈夫だ。お金を使わずとも、薬草については私もマルタンもある程度知識があるから、森へ行って取ってこればいい。今だって、そうしてマルタンが薬を作ってくれているじゃないか。
……そうか。マルタンが先生のもとで勉強を始めた理由って。
のろのろと夕食の支度を始めようとしたとき、扉がノックされた。マルタンが忘れ物でもしたのだろうか。そう思って扉を開くと、そこにはヒューゴとサロメ、そしてサロメの脚にまとわりつくようにリアムがいた。
「飯だ、ちゃんと食えよな」
ヒューゴがぶっきらぼうに鍋をこちらに渡して来た。勢いが良すぎて少しだけ鍋の中身が零れたので、サロメは怒ったようにヒューゴを睨んだ。
「レノ、マリアンヌさんはどうなの? 熱は下がった?」
サロメは私を押して部屋の中へと入ってきた。ヒューゴは重たそうな鍋をキッチンに運んでくれている。リアムも心配そうに私を見ていた。
「……ううん。まだ」
私は先ほどのマルタンとロジェとのやりとりを話した。やはりサロメたちもロジェ側の意見らしく、赤い実を食べさせないということに対して、信じられないという顔をしていた。
「だって、そうなると、いつまでたってもマリアンヌさんは回復しないじゃない!」
「うーん。まあ自己治癒能力だってある程度はあるんだから、そのうち良くなると思うんだけど……」
「寝っ転がってりゃ治るんだったらそれはそれでいーけど、その間仕事はどーすんだよ」
ヒューゴが一番痛いところを突いた。う、と私が苦い顔をすると、ヒューゴは呆れたようにため息をついた。
「お前ひとりでどうにかなる話じゃねーだろ。お前んち、おばさんとお前しかいねーんだから。大人がやってることって、案外たくさんあるんだぜ。お前が一人で全部できるわけがねーだろ。どーすんだよ」
「……一応様子を見て、全然回復しないようだったら、わたしがなんとかするつもり」
「なんとかって、レノムシ、お前ほんっとに馬鹿だな……お前が大人の仕事を出来るわけがねーだろ。飯はどーすんだ。洗濯もあるだろ。母ちゃんも放っておくわけにもいかねーだろ」
「うう………」
仰る通りだ。私がどんどん頭を抱えて縮こまっていくのを見て、ヒューゴは呆れたようにため息をついた。リアムは慰めるように背中をぽんぽんと叩いてくれている。
「でも、ヒューゴの言う通りなのよね。本当にマリアンヌさんが長い間療養に入るなら、仕事量の割り振りも考え直さなきゃいけないだろうし……」
サロメが現実的なことをぽつりと言った。私はもっと頭を抱え込みたい気持ちでいっぱいになった。なんとかしなきゃいけない。かといって、明日の朝に母が全回復しているとも思えない。なるべく早く良くなるように、栄養のあるものを食べさせて、ゆっくりと休養を取ってもらうほかないだろう。
「……まあ、なんとかなるよ」
遠い目をしながらそう言うと、ヒューゴはわしわしと私の頭をぐちゃぐちゃにした。髪の毛を掴まれたりしてちょっぴり痛いし、髪がぼさぼさになってしまう。やめて! と慌てて手を掴もうとすると、するりとその手は逃げていった。
「バカレノ。仕方ねーから、困った時は俺様がなんでも手伝ってやるよ。なんかあったら言えよな。トクベツにムリョウでホウシしてやる」
「どこで覚えてくるんだその言葉……」
「レノに言われたくない」
また明日、お昼にはおばさんが昼食を持ってきてくれるという話だった。感謝を告げると、三人は家へと帰っていった。
もらったスープには野菜やウインナーが入っていて、美味しいポトフだった。カチカチパンをそれに添えて、ぱくぱくと食べていく。……戸棚に野菜、まだあったよね。そろそろ使い切らないと腐っちゃうかも。ああ、果実も放ったままだったな。あれも食べないと。明日の朝ごはんに食べよう。
私は食事の合間に思いついたことをするために、一口頬張っては戸棚に向かって果実を取り出したり、一口頬張っては井戸水を沸かしたりした。
母を起こして食事をさせ、沸かしたお湯で身体を清めてあげた。眠れる森の美女よろしく母はほとんどずっと眠っている。よくもまあこんなにも眠れるものである。下手すれば死んでいるのではないかと不安になるくらいだ。
さっさと自分も身を清めて、台所を処理して、朝食の準備をした。ふわあ、とあくびが漏れたので、大人しくそのままベッドに潜り込んだ。明日以降のことを考えると、不安で眠れそうもない。そう思っていたのだが、思ったよりも疲れていたらしく、目を閉じるとあっという間に眠りの世界へと引きずりこまれていった。
後半戦、スタートです。




