第3話 異世界に住むということ
荷物を持って向かったのは、井戸だった。ここから水を汲んでいるらしい。また、この辺りの井戸はここにしかなくて、これは共同用の井戸だそうだ。
……うちの裏にも井戸があるんだけど、これは黙っておいた方が良い? 母さんがあの一軒家からなるべく出ずに済むように、金持ちな父さんが準備したように思えるんだけど……。囲うつもり満々だったってこと? いや事実、囲っていたのかもしれない。私が生まれるまで、母は一人であの家に住んでいたのだ。納得がいく。そうしてできた子が私で、そんな私が生まれて成長していくにつれて、父の足が我が家へ訪れるのが遠のいている事実を考えると、なんともまあ……。母が私をこんなに大切にしてくれている方がレアケースなのでは? あの人は聖人か?
「じゃあ、この紐を引っ張ってね」
三人で協力し合ってせっせと井戸から水を汲み、桶に水を満たした後は、そこにある程度土を払った野菜を入れて、丸洗いした。水を汲むのにも一苦労なんて……私はため息をついた。蛇口を捻れば安全な飲料水が出てきた時代に戻りたいよ。三歳児じゃ、一人で水を汲むことだってできないんだもん。
私は籠からズッキーニサイズのキュウリを取り出し、桶の中で擦った。ひんやりとした水が気持ち良い。今日は半袖がちょうどよい気温だった。土地柄なのか湿気はほとんど感じられず、どちらかというと空気は乾燥気味だ。
「これ、何っていうの?」
「それはコンブルっていうのよ」
「どうやって食べるの?」
「皮を剥いて、塩で揉んでもいいし、他の野菜と焼くのもいいわよ」
「その、赤いのは?」
「ルミュールよ。そのまま食べるのよ。熟したのは特に美味しいの」
野菜を洗いながらサロメに幾つか質問をすることで、なんとなく色々分かった。まずこのキュウリのようなものはコンブルといって、ズッキーニとキュウリを足したような食材だということ。トマトはルミュールという名前だということ。そして何より、母の料理でなんとなく察してはいたが、この辺りでは『料理』というもののレシピがかなり少ないということ。
母は大抵、硬いパンと野菜スープがメニューの定番だった。市場のようなところがあるのだろうが、稀にウインナーがスープに入ってきたり、物珍しい他の食材が入っていたり、バジルのような風味がしていたりする時もあった。それは我が家が貧しいからだと思っていたのだが、サロメ曰く、サロメの家でも食べられる料理は基本的に、煮る、焼く、程度しか手法がないらしい。先ほど台所を見たときにフライパンのようなものがあったので、それで焼いているのだろう。我が家には鍋しかないので、母の料理もスープ一択になるのかもしれない。
フランパン、欲しいなあ……フライパンって、幾らするんだろう? そもそも、どこに売っているのだろう? 父さんにねだったら、買ってくれるかな?
「あれ?」
次に小松菜みたいな葉っぱを洗おうとしたとき、ふと気付いた。葉っぱの部分は小松菜だったが、どうやらその付け根部分に、実のようなものもついていた。泥を払うと、しなびた大根みたいな、乾燥させた蓬莱人参の白いバージョンみたいなのが出てきて、私は首を傾げた。これは一体なんだろう? 間違えて、まだ育ってないのを採ってきちゃったのかな?
「サロメ、これなあに?」
「レノ! メドルに水に近付けたらダメよ!」
そう言って小松菜を見せると、サロメは慌てたように私からそれを奪い取った。その勢いに驚いて目をぱちぱちさせていると、サロメは顔を険しくした。
「そうよね、レノは何も知らないのよね……ごめんね、大きな声を出して」
「ううん、ちょっと驚いただけだから平気。それより、それはなあに?」
サロメはきゅっと眉に皺を寄せて、真剣な表情で、籠から板を取り出した。ぎゅっと葉っぱの根本部分を握ったサロメは、板にしわしわ部分を押し付けて、近くから握りやすいサイズの石を拾った。そして私を見た。
「レノ。準備ができたわ。さあ、水をかけて」
「水をかける? どこにかければいいの?」
「この白いところよ。なるべく一気に、たっぷりかけてね」
サロメがしわしわ部分を指さして、私に謎の指示を出した。引っこ抜いて時間が経ってしなびちゃったから水につけておこう、なんていうテンションじゃないのは分かっている。しかし、水をかけるだけだというのに、どうしてそんな険しい顔で石をぎゅっと握りしめているのかさっぱり予想がつかなかった。私は首を傾げながらも、とりあえず大人しくそれに従う。ここにはここの常識があるのだろう。桶を引っ張ってきて、角度を調整しながら傾ける。
「私の合図で水をかけるのよ。いくわ……いち、にの───さん!」
桶の角度を下げ、たっぷりと入っていた泥の混じった水が勢いよく小松菜に降り注ぐ。と、次の光景に、私は思わず目を見開いた。しわしわだったはずの小さな白い部分が、にょきにょきと成長し始めたのだ。わたしの手のひらサイズだったものが、それこそ大きな大根と同じくらいのサイズへと変化していく。しかし、大根がみずみずしい肌になると同時に、中心部が裂けて、まるでそこが口のように変化し、何かに噛み付こうと動き始めた。一体何が、と私が唖然としていると、サロメはきゅっと手に力を込め、右手を高く振りかぶった。
「……えい!」
ガツンと勢いよく石が振り下ろされた。ガンガンと何度も力強く殴りつけると、やがて大根は紫色に変化していった。板の上に乗りきらないほどのサイズだった大根は殴られているうちに少しずつ縮み、半分サイズになった頃にはしっかりと紫色になっていた。それを見て、サロメはふうと息を吐き、掴んでいた手を離した。
「普通の野菜にはこういうのは少ないけど、たまにメドルがくっついている時があるの。大人しくさせちゃえば他の食べものと同じだし、結構美味しいんだけど、レノも気を付けるのよ」
最後に、サロメはナイフで紫になったもはやラディッシュのようなそれを、ナイフで葉っぱと実の部分を断絶させるように切り分けた。
「ここまでが下処理よ。レノは今まで家から出たことがなかったんでしょう? 雨の日の農地は危険だから、あんまり歩き回らない方が良いわ。どうしても外に出なきゃいけないときは、絶対大人と一緒に行動することね」
怖い、怖すぎる。こんなのがランダムで土の中に埋まってるなんて、怖いが過ぎる。籠の中を恐る恐る確認すると、何個かは萎びた白いの……メドルがくっついていたが、ほとんどは葉っぱだけしか入っていなかった。大量にいるわけではないと知って、胸を撫でおろす。ただ、さっきのあのサイズといい、がむしゃらに何かに噛み付こうとする姿といい、おっかないのには変わりがない。母さんにもきちんと教えてあげようと心に誓った。
「どうしてこんなのがいるの?」
二体目の紫ラディッシュを作るために桶を傾ける。サロメは手慣れた手つきでガツガツとデカデカ物騒大根を石で殴った。
「わたしにもよくわからないけど……土? にはそういう力があるんだって。母さんが言ってたの。それを吸い上げちゃうから、こういう変なのがたまに出来るんだって」
「ふうん……」
そういう力って、なんだろう。少なくとも私の今までの人生には、噛み付こうとする大根と出会ったことがなかったので、さっぱり分からなかった。
……え? っていうか、本当にこれって、過去の世界? これってタイムスリップなんだよね? 昔はこんな不思議大根がほいほい育ってたってこと?
なんとなく嫌な予感がしたので、頭を振ってなるべく考えないようにした。今すべきことは、野菜の泥を落とすことだ。そういえば、と周囲を見渡すと、井戸の影に隠れるようにして、リアムが座り込んでいた。どうやら不思議大根が怖いらしい。気持ちは分からないでもないが、不思議大根以外の泥落としを手伝ってほしいなと少し思った。
下処理がひと段落したところで、ジョルジュとヒューゴと合流した。
「どこに行くの?」
一度家に戻り、一人ひとつずつ籠を背負って、みんなが歩き始めた。私はリアムの分を貸してもらった。リアムはいつも籠を背負ってサロメの後ろにくっついて回っているので、基本的に籠の意味がない。そのため、私に持たせた方がまだ使えそうだというサロメの判断だった。
「見える? あそこに行くの」
私の疑問に、サロメがこれから向かう方角へ指をさした。
「……森?」
「なんだ、お前、森に行ったこともないのか?」
ヒューゴが馬鹿にしたように言った。サロメがヒューゴを睨んだが、ヒューゴはニヤニヤ笑ったままだった。
「うん。ないよ」
「泣き虫弱虫リアムシだって、森に行ってるっていうのに。お前はリアムシ以下なんだな! レノムシー!」
泣き虫弱虫リアムシってなんだ。ちょっと上手なあだ名じゃないか。レノムシはミノムシみたいであんまりかわいくないな……。そんな風に思いながらも、曖昧に笑ってみせると、ヒューゴはその反応が気に入らなかったらしく、ムッとした顔になった。
「なんだ、お前。レノムシって呼ばれて、喜んでるのか? 変な奴!」
「いや、喜んではないよ……」
「ビジンのムスメは変なレノムシ! 変わったレノムシ!」
「ヒューゴ! レノを変な風に呼んじゃ駄目よ!」
サロメに叱られると、ヒューゴの調子はグッと上がった。てくてくと歩いている私の前に駆け出し、ふざけるように後ろ歩きになって、私をニヤついた顔で見た。
「ヒューゴ、前を見ないと危ないぞ」
「うるさいジョルジュ、跡取りジョルジュ、俺の面倒も見れない意気地なしのジョルジュ」
ジョルジュが窘めるが、ヒューゴはニヤニヤしたままジョルジュもからかった。何かがジョルジュのコンプレックスに触れたのか、ジョルジュは黙って前を向いてしまった。
「みんな言ってるぜ。レノムシは、オニモツなんだって。レノムシが生まれたから、ビジンは金持ちのダンナに逃げられたんだって。だからみんな言ってたんだ、レノムシはいなくて、単純にダンナに逃げられただけだろって。でもレノムシは生まれてたから、ダンナが逃げたのは、レノムシのせいだろうって!」
「ヒューゴ!」
サロメの堪忍袋の緒が切れた。ヒューゴをとっ掴み、勢いよく頬を叩いた。パシン、と乾いた音が、広々とした平野に鳴り響いた。
「言ってるでしょう、レノの前で変なことを言わないでって!」
「なんだよ、サロメだって言ってたじゃないか! 俺ばっかりじゃないぜ、だって、レノの面倒を見るのだって、あのビジンのダンナがうちに金を……」
「もうやめて! レノ、こんなの聞かなくていいから! 行きましょう!」
頬を叩かれたヒューゴはカッとなって、怒鳴るように言葉を続けた。それを押しのけるように、サロメも大きな声を出して、私の手を掴んで速足で歩き始めた。
……そういうことか。私は引かれる手を振って、その手を拒んだ。
「……レノ?」
「サロメお姉ちゃん、早いよ。わたし、まだ外に慣れてないから、その速さだと、途中で歩けなくなっちゃうの」
「あ……ごめんね、レノ」
サロメはハッとしたように謝った。それを見て、私は首を横に振った。
「大丈夫だよ。……ヒューゴの言ってることも、大丈夫。なんとなく、わたしもわかってるから。ヒューゴが言ってることは、本当だと思うし、だから、……」
なんて言ったらいいのだろう。サロメは、私の言葉に思わず足を止めていた。何と言われるのか分からなくて、怖がっている顔をしている。だから私は安心させるように微笑んだ。
「……わたしの母さん、すごいでしょ。偉いでしょ? だから、少しでも楽をさせてあげたいんだ」
きっと、わたしのせいで、いっぱい色々大変なんだから。そう言えば、ヒューゴがむすっとした顔になった。サロメは気まずそうな顔で、私をじっと見つめた。気付けば、ジョルジュも足を止めていた。
「果実採り、いっぱい頑張るよ。サロメお姉ちゃん、美味しい果実、教えてくれる? わたしが採ってもいいやつで、母さんが喜んでくれそうなやつ。わたし、一生懸命覚えるよ」
動きが止まってしまったのは良くないだろう。今日の子供たちのノルマは、森に行って果実採集して、それの下処理をするところまでじゃないだろうか? 大人の足ならいざ知らず、子供の足で、しかも外の世界に不慣れな私や、リアムを連れている。森までの往復でも大変だろうし、帰りは荷物が増えているのだ。なるべく日が高いうちに動いた方が良いに決まっている。
「行こう?」
そう言ってサロメの手を引けば、サロメは複雑そうな顔で笑った。
「……たくさん教えてあげるから。レノは頭が良いから、きっとすぐに覚えられるよ。分からないことはなんでも聞いてね」
そう言って、私の頭をやさしく撫でた。
それから森に到着するまで、ヒューゴは不機嫌そうにしているだけで、私をからかうことはなかった。




