第30話 春の日のアクシデント
寒さが少しずつ和らぎ、寒々しかった木々にも緑が戻ってきた。平野部はすっかり雪も溶け切っていたのだが、しつこく残る山の白い部分も日に日に消え始め、山々にも緑が見えてくる。そんなある日。
「レノ。今日は春の日よ」
「はるのひ?」
「そう。今年一年、たくさんのものが実りますようにって、領主様にお祈りする日よ」
領主様にお祈りしたところで収穫量が増えるとは思えないが、宗教ならば仕方ない。私はふんふんと母の話を聞いた。
春の日というのは、山に残った雪がある程度溶け、山に入れるようになった頃、ヌーロの木に緑が芽吹いているのを誰かが確認したら執り行うイベントごとらしい。春の日が終わればすぐに狩りの日がきて、我々子供たちが山に入る毎日が戻ってくることになる。
また、この日はお祈りをする日であると同時に、領主様に年貢を納める日でもあるらしい。収穫祭では一年の豊作を感謝し、春の日では豊作を祈願するために領主様に食材を納めるとのこと。建前はさておいて、年に二回ある納税行為だと思えばなんとなく事情は呑み込めた。
「さ、レノ。この籠に食べ物を詰めてちょうだい」
「え? 待ってよ母さん。冬キャベツはわかるけど、干し肉まで入れる必要ってある?」
「レノ、聞いてなかったの? 家にある食べ物をみんなが持ち寄って、それを領主様にお送りするのよ」
また余ったら各家庭に再配布されるらしいが、それではランダム支給になるだろう。平等に各家庭用に干し肉が準備されているわけではないので、育ち盛りの男の子がいるような家庭に栄養価の高い食べ物は取られていってしまう。は? 私も肉くらい食べたいんですけど。こちとら毎日の楽しみなんて食事くらいしかないんですけど。
「じゃあこれは今わたしが食べてしまえば、家にはない食べ物になるよね」
「レノ。くだらないことを言わないの。いつからそんなにもずるい子になったの?」
割と本気で口に運ぼうとしている私の意図を読んで、母が怒って私から干し肉を取り上げた。……チッ。
「クッキーは絶対に献上しないからね。これは売り物だもん、備蓄食料ではありません」
むすっとしながらこの間焼いたクッキーを戸棚の中に戻していると、そんな様子の私を見て、母が仕方なさそうに首を振った。
「レノ。お願いだからわかってちょうだい。家にある食べ物は全部、よ」
「本当にみんなが全部出してるかなんて、わかんないじゃん。わかんないのなら、出しても出さなくても一緒だよ」
「母さん、レノには嘘をつくような子に育ってほしくないわ」
その言い方はずるい。私はぐっと奥歯を噛み締めて、動きを止めた。
……こうやって全部取り上げられるなら、別に冬の間節制する必要なくない? だったらもっとお腹いっぱい食べておくんだった。……でも、全部の家がそうやって考え始めたら献上分が減って、領主様ご一行から睨まれるのはこの村そのものになるんだよね。えーん! 食べ物の恨みは深いからな! 覚えとけよ、領主様野郎!
私が泣く泣くクッキーの入った包みを籠に入れると、母が安心したようにほっと息をついた。そして、良い子ね、レノと頭を撫でてくれたが、全然うれしくなかった。
母は籠を持つと言ったが、私は張り切って自分で籠を背負った。自分の大切なものを他人に渡すのだ。自分の手で始末したいじゃないか。
広場に到着すると、すでに結構人が集まっていた。そのため人の流れが出来ていて、広場にやってきた人はそのまま中心の荷台がある場所へ行き、籠を空にすると広場の端の方へと移動し、そこで固まって井戸端会議をしているいるようだった。
母と手を繋いではぐれないようにしつつ流れのままに中心部分へと向かうと、そこにはサーラおばさんとダミアンおじさんがいた。その他にも村の権力者たちがいて、皆、彼らが見ている中で食材を荷台に乗せていっていた。時折女性陣が手を出して荷台を整理し、少しでも物が多く乗るようにしていた。
「ああ、マリアンヌとレノちゃんだねぇ! レノちゃんはちゃあんとお母さんのお手伝いしていて偉いわねぇ!」
サーラおばさんが朗らかに笑いながら言った。私は背中から籠を降ろしてクレソンの束を手に取ったが、荷台が高すぎる。私が手を伸ばすとなんとか荷台の上には乗るのだが、いやそんなところに葉物を置くなよ、みたいな感じになってしまう。途方に暮れていると、母がひょいと荷台の上のクレソンを奥の方に移動させてくれた。
「レノ。籠の中身を荷台に置いてくれる? 母さんが奥に置くから、協力しましょう」
「うん!」
「レノちゃんは本当に素直で良い子ねぇ。うちのヒューゴは全然ダメよ。ヒューゴったら、うちの家にあった干し肉をこの荷台に乗せるのを珍しく手伝ってると思ったら、手だけじゃなくて、口も動いてたんだから。領主様への奉納物だってどれだけ叱っても、手伝いの駄賃だろってくだらないこと言って、つまみ食いしちまうんだ」
あっ……。私、完全にヒューゴと同レベルだった説……。私は気恥ずかしい気持ちに苛まれつつも、素知らぬふりをしてせっせと籠の中身を荷台に乗せ続けた。が、母は私の心の中もお見通しらしく、おばさんと世間話しながらも時折クスクスと笑っていた。
荷台に荷物を載せ終えると、空になった籠は母が持ってくれた。私たちも流れに沿って端へ向かおうとしたが、いつの間にか、橋の方に固まっていた人たちは広場に列を形成しつつあった。そういえば、この間も騎士団と言われる人たちが荷台を取りに来た時も、みんな整列してたんだっけ。
母は、荷物があって邪魔になるから、と言って私の手を取って後ろの方へと並ぼうとした。
「レノ!」
その時私の反対の手を誰かが引いた。振り返ると、そこにはにっこりと笑うヒューゴがいた。
「おばさん! レノ、向こうに連れて行くからな!」
「え、ええ……レノ! 失礼のないようにね!」
するりと母の手から力が抜けた。母が頷くのをみて、ヒューゴは私の手を引いて、母が向かった方とは反対方向へとずんずん歩き始める。母が最後まで少し心配そうに私を見ているのが、心に引っ掛かった。
「ヒューゴ、どこに行っ……レノ!?」
ヒューゴを叱ろうと振り返ったサロメが、私を見て目を見開かせた。そして困ったようにヒューゴを睨みつける。
「どうしてレノをここに連れてきたのよ」
「あ? 前はサロメと一緒に並んで前の列にいたじゃねえか」
「その時はここじゃなくて、もっと後ろの方にいたでしょ!」
「どこだって変わんねえよ」
「変わるのよ!」
サロメがぷりぷり怒っているのを見て、私は少し不安になった。ここに来てはまずかっただろうか。ヒューゴに手を引かれたとはいえ、ここまでついてきたのは自分の意志でもある。手を振り払うことはしなかったのだから。
「ごめんね、サロメ。わたし、母さんのところに戻るよ」
そう言いながら、周囲をちらちらと伺う。ここは随分と広場の中心に近い。前回は遠くからここを眺めているだけだったが、すぐそこに荷台があるのが見える。サーラおばさんの声が聞こえてくるほどの距離だ。荷台に近ければ近いほど村の権力者やその親族たちが固まっているのも見えた。
多分、ここはそういう人たち用のスペースだ。サーラおばさんの家族であるサロメやヒューゴはともかく、私がいていい場所じゃない。
じり、と後ろへ下がろうとすると、サロメが私の手を取ってそれを止めた。
「ダメ。そろそろ騎士団の人たちが到着するの。今更列を崩せないわ」
サロメは仕方なさそうにため息をついた。中心に近い側からヒューゴ、リアム、サロメ、そして私と一列に並ぶ。周囲は大人で固められていた。
ちらりと後ろを見ると、五列くらいに村の人たちがきちんと整列されていた。だが、親族同士で固まっているというようには見えない。並び順が決まっているのは一列目だけで、二列目より後ろは特にそういう決まりはないらしい。だが、村でも声が大きな人たちが村の権力者たちのなるべく近くに居ようとしている印象を受けた。
よく考えたら、そりゃあそうだ。これは行商人の日のように誰かの練習の場ではなく、騎士団と相対する村としての公的な式なのだ。当然並び順に意味はあるだろうし、おばさんとおじさんがあそこに立っているのも、その資格があるからだ。身分不相応な立ち位置に居心地の悪い思いをしていると、私の気持ちを沈ませるような声が後ろから聞こえてきた。
「……どうしてあの子がここに?」
「……しかも最前列よ」
「……自分の身分を分かってないんじゃないかしら」
「……お金で地位を買ってるのよ。ほら、旦那がああでしょう?」
「……母も母なら、娘も娘ね」
小さく囁かれる、嫌な声。ひそひそと呟かれるが、その声はしっかりと私の耳に届いてきた。こういう嫌な噂や認識が、村の人たちにあるのはなんとなく知ってはいた。しかし、こうも直接はっきりと聞くのは初めてだった。
「……でも最近その旦那も来てないじゃない。捨てられたんじゃないの?」
「……こんなところまで通うなんて、変な男だったわね」
「……それほどイイんじゃないの?」
「……やだ、やめなさいよ」
クスクスと交わされる、下卑た会話。嘲笑。カッと頭に血が上るのが分かった。
咄嗟に振り向こうとすると、ぎゅっと右手を握られる感触があった。サロメだった。サロメが、私の手をぎゅっと握っていたのだ。
沸騰しそうになっていた頭が少しだけ冷えて、ちらりとサロメを盗み見る。サロメは何も聞こえていないかのように、いつもの様子で真っ直ぐに前を向いていた。そして、微かに頷いてみせたような気がした。私は色々な感情をぐっと飲みこみ、同じように前を向いた。
すぐに馬の足音と、ガラガラと荷台を運ぶ音が聞こえてきた。やがて視界に馬が荷台を引く姿が映った。今回も黒い服を着た男たちが手綱を握っている。前回と同じように広場に荷馬車を整列させた後、黒服の人たちがそれぞれの持ち場へと移動した。
やがて、私の目の前に黒服が立った。我慢しきれずにちらりと視線をあげると、そこには若そうな男がいた。青い瞳に、赤い髪……あれ? この人、前も見たような……。
向こうもそう思ったらしい。ぱちり、と目が合った途端、記憶を探るように目を細めてこちらを見た後、ああ、と合点がいったようににこりと笑ってくれた。私もにこりと笑みを返す。やっぱり、前と同じ人だ。偶然なのかと思ったが、担当区域は決まっているものなのだろう。立つ場所が変わったのは偶然かもしれないが。
そう考えていると、横から小突かれた。サロメだ。余計なことをするな、大人しくしていろ、とサロメの瞳が雄々しく語っていた。私は慌てて神妙な顔を作って、お澄まし顔で胸を張った。男は私たちのやり取りを見て、笑いをかみ殺すように小さく震えていた。
サーラおばさんのところにある荷台には、山ほどの食材が乗っていた。私たちが持ち寄った食材だけでなく、最近採れたばかりの食材もあそこに乗せられているらしい。一番偉いらしい騎士団の人が数台分になった荷台の中身を簡単に確認した後、大声を出した。
「献上に、感謝を!」
あれ? そういえば何か、儀式っぽいことするんだっけ? ヤバい、なんだっけ。
騎士団とおばさんたちのやり取りを凝視していると、目の前にいる赤髪の男が右手のこぶしを左手の手のひらにくっつけて、小さく会釈した。そうそう、そういえばそうだったね! タイミングこそみんなより少し遅れたが、今回は間違えずに左胸に手を当てて、軽く膝を曲げた。良かった、失敗せずに済んだ。そう思って胸を撫でおろしていると、目の前の男がやっぱり小さく笑っていた。それほど私がノーミスでやったのを誇らしそうにしていたのが面白かったらしい。
「今年も一年、多くの実りがありますように。領主様のお力をお借りし、この地により多くの実りを為せるよう、我々は持てる全てを奉納し、祈りを捧げます。我々の父なる領主様に、祈りと感謝を」
「この村に、領主様の祝福があらんことを」
偉い騎士団の人はそう言って、空中に何かを指で書いた。もちろん、前回同様何も起こらないので、何の意味があるのかさっぱり分からない。まあ、一連の行為そのものが重要なんだろう。
そう思って校長先生の話を聞くようにぼけーっと全部聞き流していると、突然悲鳴が上がった。
声がしたのは、後ろの方だ。私はすぐさま振り返った。
みんなが同じ行動をしたようで、私が振り返ってもみんなの後ろ姿しか見えなかった。全員がのけぞるようにして何かを見上げたままその場で固まっていたせいで、何が起こっているのかよくわからない。大人の足の間から見える部分から、毛むくじゃらの足が見えた。思わず数歩後ろに下がる。
そのおかげで、見えた。
見てしまった。
そこにはゆうに二メートルはある、ライオンみたいな生き物がいたのだ。
「な、に……あれ」
掠れた声が出た。そんな私の呟きをかき消すように、再度悲鳴が上がり、パニックが訪れた。
「いやああああ!!」
「どうしてあんな、あんなのが!」
「魔獣だ!! 逃げろ!!」
大人たちが悲鳴を上げながら、大慌てでその場から逃げようと動き出した。私も一緒になって逃げようとしたが、こんなパニックな状態で、小さい子供というのは哀れなものだった。
後ろに立っていた大人たちが、一斉に私のいた方向へと駆け出したのだ。
それも、わき目も降らず、一目散に。
そうなれば、私の短い脚ではそのスピードに追い付けず、どんどん大人が私にぶつかっていく。転ばないように踏ん張ろうとしても無駄だった。大きな体がドン! とぶつかり、私はその場にしりもちをついてしまう。
「レノ!」
サロメの悲鳴が聞こえたような気がして周囲を見たが、そこには大人たちの脚しか見えない。とにかく立ち上がって、私も逃げないと。そう思った瞬間、目の前に誰かの膝が迫ってきて、咄嗟に手で顔を覆った。衝撃とともに私は立ち上がりかけていた姿勢を崩された。ドスンと再びしりもちをついて、それでも慌てて私も立ち上がろうともがいた。
ふと、音が遠くへいった。土埃が舞っていて見えにくいが、みんな移動してしまったらしい。私は目や口に入った砂利に辟易しながら、その場に立ち上がる。
あの大きなライオンはどこにいったのだろう。逃げるみんなを追いかけて行ってしまったのかもしれ────。
「あ、」
ザリ、と地面を踏む音が聞こえた。グルル、という喉を鳴らした音も聞こえる。土埃が舞っている中から、それは姿を見せた。
見た目はほとんどライオンだった。どこが本当のライオンと違うかも、いまいちよく分からない。だって、私はライオンをこんなに間近に見たことがないのだ。
……動物園に行った時も、ライオンって夜行性だから、檻の中で寝てるし。後はテレビで見たりとか? みんな気だるそうにしてるイメージが強いから、こんなにも毛を逆立てて、大きな牙の生えた口から涎を垂らして、凶悪そうな形相で私を睨みつけている姿なんて、初めて見た。本当に私の知ってるライオンなのだろうか?檻の向こうにいたライオンは、こんなにも大きかっただろうか?
「あ……」
ガクガクと足が震えた。
……死ぬ、死ぬ? 死ぬ? 食べられる? あの牙で、あの口に、噛まれて、骨が折れて、死ねないかもしれない、一発じゃ死ねない、嫌だ、痛いのは嫌、でもダメだ、食べられる、死ぬんだ、ああ、ああ。
頭の中に色んな思いがものすごい勢いで浮かんでは消えていった。時間にしてみれば一瞬の出来事だったのかもしれないが、私にとってはひどく長い一瞬だった。
ライオンと目が合ったまま、私は馬鹿みたいに突っ立っていて。死にたくなんてなかった。でも身体は動いてくれない。蛇に睨まれた蛙のように体が強張って、頭が真っ白で。
ライオンが匂いを嗅ぎながら、ゆっくりとこちらに近付いてくる。
嫌だ、死にたくない、死にたくない、死にたくない!
「死にた、く、ない」
頭がじんじんした。手足の先が痺れたように感覚がない。後ろに一歩後ずさるだけで、とんでもなく力が必要だった。私が身動きをしたことで、ライオンはピクリと動きを止めた。そして少しだけ身をかがめる。
ああ、拮抗が、崩れる。
来る、来る。
私は身を固くした。二回瞬きをした頃、ライオンが四本の脚に力を込めて、まるでロケットのように頭からこちらに突っ込んできた。
大きな牙が眼前に迫る。跳ねた唾液が先に私に到達して、頬にぴちゃりと当たった。あ、死、
「おい! 大丈夫か!」
突然、内臓が飛び出そうなほどの衝撃が私を襲った。身体が横にくの字に曲がっている。前後にはくの時に折れるが、横にくの字には折れないもんだぞ、人体。
瞬きするたびに光景が変わっていく。先ほどまで迫っていた牙が消えて、青い空が見えた。と思えば、広場の地面が見えて、ぐるりと視界が回って、黒い服。赤い髪。
「ちゃんと掴まっておけよ!」
わけもわからないまま、聞こえる声に反応して、咄嗟に目の前の身体にしがみついた。短い赤い髪が見えて、ああ、フードを降ろしたんだと場違いなことを思った。




