第29話 クッキーの価値
ガスパルの店までクッキーを定期的に焼きに行くのは難しい。まだまだ幼い私は自分の足で街まで行けないので、全く現実的ではない。となると、焼いたクッキーを街まで売りに行くのも無理。ガスパルがわざわざタクシーみたいなことをしてくれるとも思えない。時は金なりというのはどの世界でも商人の合言葉と言っても過言ではないだろう。
「レシピを? 僕に?」
ガスパルの瞳が鋭くなり、私の真意を読み取ろうと細められる。マルタンがその雰囲気に気圧され、ぐっと息を呑んだのが分かった。……若いお兄ちゃんの威圧なんて、特に気にすることなんてないんだけどな。むしろ真剣に話を聞いてくれているというのは、クッキーに価値を見出してくれた証拠なので、私としては好感度が上がった。
「ただ、レシピは共有物であって、クッキー販売における専売権っていうわけじゃないことだけは納得してほしいです」
「……そのレシピを知っているのは、何人くらいいる?」
私の言葉尻から意図を読み取ったのか、ガスパルの表情が少し翳った。話の早さに内心驚きつつ、私は正直に話した。
「わたしと、サロメっていうこの村の女の子と、母さんと、父さんですね……あ、でも、例えばサロメがサロメのお母さんに話したりして、レシピは多少広まってるかもしれないから、私が把握してないところで増えていってるかもです」
父さん(の執事)だけど、まあ嘘はついていない。私の言葉にガスパルは再び太陽のような笑顔を取り戻し、はつらつな笑顔を見せてくれた。
「それくらい僕にも想像がつくよ。大丈夫、その程度で商品価値はすぐには下がらないさ」
だが早く動くに越したことはない。ガスパルはそう考えたらしく、オーブンを家の中に置くとなるとあの辺か……とぶつぶつ呟きながら、頭の中で計画を組み立て始めた。その独り言が落ち着いた頃、ガスパルは目を輝かせて私を見た。
「じゃあ、なるべく急いでオーブンを準備するよ。次の行商人の日にまた来るから、その時に日取りを決められるかな?」
君も家の手伝いがあって、そう簡単に家を空けられないだろう? とガスパルが言ってくれたので、私は大きく頷いた。農民の生活に理解があって大いに助かる。
じゃあそうしよう、と一旦話がまとまった。それと同時に、マルタンが疲れたようにため息をついた。ガスパルもそろそろ君たちは村に戻った方がいいね、なんて言い始めたので、私はひくりと頬を引きつらせた。まだ、一番重要な話を済ませていない。やっぱり、ガスパルは信頼できるようで、信頼できない人間だ。
私はにっこりと笑って、ガスパルの裾を掴んで言った。
「それで。レシピはお幾らで買い取ってもらえるんですか?」
今度はひくりとガスパルの頬がひきつった。マルタンがハッとした様子で居住まいを正す。そう、まだまだ話は終わっていない。むしろ、ここからが本番なのだ。
どうやらガスパルは私を街まで連れてきて、自分の店の中ですべてが整った状況を見せてから、レシピを買い取る話を自分に有利に進めたかったらしい。ガスパルが勝手にやったとはいえ、先行投資を済ませている状況を見てしまうと、安い金額を提示されたからという理由では断りにくくなるだろう。
……とはいえ、私たちは商人と交渉するような技術を学んでいなければ、商人見習いでもない。そもそも新しいレシピの売買の相場さえ知らない。ガスパルがそういうものだと言えば、そうなのだろうと思うしかないのだが。
「……レノちゃんはやっぱりしっかり者だね」
「ええ。でなければ、食い物にされちゃいそうですしね」
ふふ、と笑えば、ガスパルもはっはっは、と笑いを零した。互いに目の奥が笑っていない。
商人は信頼を商売にしていると言っても過言ではない。私は今、ガスパルの言葉を信頼しきっていない。そしてそのことに、ガスパルは気付いている。さて、そのうえで、ガスパルはどう出るのか。私はじっとガスパルを見つめた。
「………大銀貨だ。これ以上は出せない」
少しの沈黙の後、ガスパルは肩を竦めてそう言った。マルタンはひゅっと息を呑んでいたが、私はこれが相場なのか買いたたかれているのか、はたまた上乗せしてもらっているのかも分からない。
私は疑わしそうにガスパルをじっと見つめたが、ガスパルは心外そうに苦笑を零した。
「これ以上、もう子供相手に大人げないことはしないよ。もう意地悪はしない、領主様に誓うさ」
そう言って、ガスパルは胸に手を当てて、恭しく小さく頭を下げた。ちらりとマルタンを見ると、マルタンも頷いた。どうやらここでは、これが一番の誓い文句らしい。私はやっと頷いて、ガスパルに手を差し出した。
「分かりました。その金額で手を打ちましょう」
「レノちゃんに納得してもらえて光栄です。じゃあ、大銀貨は君が僕の店に来た時に渡させてもらうよ」
ガスパルは大きな手で私の手を掴み、契約成立の握手を交わした。
「ちなみに、これはクッキーの『プレーン』味の契約です。他の味のレシピもご入り用でしたら、一種類につき銀貨十枚でお取引しますよ」
にこりと笑ってそういえば、ガスパルの笑顔が固まった。
「それと、今日の取引についてもまだお話ししていませんでしたよね? 今日はシュクール入りのクッキーを五十枚準備しました。前回はガスパルのお父さんにシュクール抜きのクッキーを、シュクールが十粒と銀貨一枚と交換してもらいましたけど……さて、こちらはお幾らで買い取ってもらえますか?」
「……レノちゃん、本当にしっかりしてるね。商人に向いてるんじゃない? 僕の弟子にしたいよ! いや、これは本当に!」
私がさらに笑みを深めれば、ガスパルは硬直していた笑顔を解きほぐすように大笑いした。……商人かあ。悪くはない職業だ。お金の勘定は嫌いじゃないし、現代知識を利用すればうまくやれるかもしれない。ただ、そんなに社交力は高くないし、営業トークも苦手だから、商品開発だけに集中していいならやってもいいかなぁ。
私はガスパルから残っていた微妙なシュクールを三粒と、銀貨二枚を貰った。そして、もうひとつ。布にくるまれたものを手渡された。
「これは?」
「シュクールだよ」
「シュクール? シュクールはもう……」
三粒貰ったんだけどな、と不思議に思ったが、ハッとした。ガスパルの売り場にあった、四角い角砂糖。これが本当のシュクールなのではないか。私は包みを少しだけ開いて、中身を確認した。マルタンにも見せてあげる。
「もしかして、これが本当のシュクール?」
上白糖の塊だ。さぞかしお高いのだろう。ガスパルはこくりと頷いた。
「君はお得意様になりそうだからね。これは御心づけだけよ」
なんともまあ、勿体ないことを。間違えた、有難いことだ。ちょっともらいすぎな気もする。この間のシュクール抜きクッキーを銀貨一枚であげたのもそうだが、今回はシュクールが入ってるだけで銀貨二枚も貰ってしまっている。原価を考えたらぼったくりにもほどがありそうだ。
なんだか申し訳ない気持ちになったが……まあ貰えるものは貰っておこう。っていうか角砂糖がシュクールってことは、やっぱり角砂糖を昼下がりの茶うけに出してたってこと? それ、あまりにシュール過ぎない? 父さんがあんまり好きじゃないっていうのも当たり前だよ! だってそれ、お菓子じゃなくて、紅茶に入れる方のやつじゃん!
とりあえず私は有難く角砂糖を受け取り、何に使おうかなと頭の中を回転させつつ、ガスパルにお礼を言った。
この後、銀貨十枚で味変レシピ提供、という話もきちんとまとまり、私たちは村に戻った。ガスパルは荷台を馬に引かせているらしく、三人仲良く広場へと戻った。
そろそろ行商人たちも店じまいを始めているところが多く、ちらほら広場を離脱している商人もいた。
私たちは次の行商人の日にまた会おう、と約束して解散した。
「レノ。本当に街へ行くつもりなのか?」
帰り道、夕日が差し込む平坦な道を歩いている途中で、マルタンが言った。その表情は真剣で、結局勝手に話を進めてしまった私を咎めているというよりかは、確認しているような声音だった。私はこくりと頷く。
「クッキーがお金になるのは間違いないよ。とはいえ、これ以上、行商人の日に広場で色んなことして目立つのも嫌だしね」
丁度良い話の落としどころだったと思う。ガスパルはすべてを信頼できるとはいえないが、悪い人ではなさそうだし、こちらの状況を汲んでくれる人だというのも確認できた。
「街へ行けるのは大人だけだ。子供は行けない。レノはそれを知っているよな?」
「知ってるよ。でも行けないのは街へ行く交通手段がそもそもないから、子供の足で行くのが大変だっていうことと、お金がないからでしょ? 子供が街へ行ったところでお金を稼いだりとか、何ができるっていうわけでもないだろうし」
「そこまで分かってるなら、一体どうやって街へ行くつもりなんだ?」
マルタンの当然の疑問に、私はふふんと笑ってみせた。
「ねえマルタン。わたしたち、招待されてるんだよ? だったら、招待した側が責任を持ってわたしたちを迎えに来るべきじゃない?」
「……ガスパルに迎えに来させるのか?」
「本人に来てもらうのは無理かもだけど、荷台を引いた馬車の手配くらいしてくれるんじゃないかな。わたしとマルタンと、誰かもう一人、大人を連れて行けば村の人たちもうるさくしないでしょ」
何か村の利になるものを提供できれば、問題はないはずだ。私は作業をまたお休みすることになってしまうが、それもその分迷惑料としてサロメたちの家に何か献上しておけば良いだろう。
「……自分の懐は温めたまま、相手に支払わせるなんて。レノ、もうすでに商人の卵として出来上がってるんじゃないか?」
ふっふっふ、という私の悪そうな笑みを見て、マルタンが呆れ果てたように言った。
「レノ。もしレノが言った通りに事が運んだら、人選については僕に考えさせてくれないか?」
「別にいいけど……」
マルタンは、このままだといろんなところに角が立つからな、と冷静に状況を分析していた。そして口元を釣り上げてふっと笑い、冷たい笑みを浮かべた。
「僕に良い考えがある」
「そ、そっか……それは心強いです」
「根回しを含めて、僕に一任してくれる?」
「もちろんどうぞどうぞ! わたしは街に行って、ガスパルと取引ができるならなんでもいいから」
「わかった。レノはガスパルとどう交渉するかだけに集中しておくといい」
そう言って、マルタンは薄い笑いを浮かべながら頭の中で計画を練り始めたらしい。私はそれを邪魔をしないよう、静かに自分の頭の中でも今日のやり取りを反芻した。その後は分かれ道に来るまで、二人とも黙ったままだった。
家に帰ると、母がちょうど夕食の支度を終えるところだった。
「レノ、遅かったわね。今日もクッキーは売れたの?」
今日あったことを簡単に話すと、母は興味津々な様子で聞いてくれた。クッキーはおじさんじゃなくて女性に超人気のガスパルに売ったのだと話しながら、今日の収穫物を母に見せる。母はひとつずつ私が買ってきたものを確認しながら戸棚に仕舞っていたが、ふと小さな包みに気付き、不思議そうに頬に手を当てて首を傾げた。
「レノ。これは何? シュクールはこっちの三粒よね?」
「ああ。これはシュクールだよ。えーと、本物の方」
包みを開いて中を見せる。母は真っ白な四角い角砂糖を見て、目を見開いた。そして数秒の間沈黙し、じっと角砂糖を凝視する。
「母さん?」
「……あ、ごめんね。なんでもないのよ。ただ、……そうね。少し懐かしかったから」
「懐かしい?」
角砂糖は高級品のはずだ。それを懐かしいと思うということは、母の幼少期はやっぱり裕福なものだったのだろうか。ふと、農作業を始めるまでは柔らかですべすべだった母の手を思い出した。あの柔らかな手で頬を撫でられるのが好きだった。今では手にマメが出来たり、水作業でガサついたりしてしまっている。もちろん今の母の手も好きなのだが、論点はそこじゃない。
私は私の記憶の始まりを手繰った。柔らかですべすべの手。艶やかな髪。母の着ていた服も、今のようなボロ布ではなく、もっとまともなものだったような気がする。
「母さん……」
……母は貴族だったのだろうか? それとも、平民の大金持ちの娘とか。それがどうして妾になんてなってしまったんだろう。ああでも、平民の大金持ちの娘だったなら、身分違いの恋ということで話に筋が通る。父は貴族だろうし、平民の妾を疎んだ正妻が母の生家を虐めて、生家に縁を切られた母は父の手助けもあってこんなところにやってきて、貧しい暮らしをしてるとか?
私は複雑な気持ちで母を見つめた。だが母は先ほど見せた寂寥感のような表情を二度と見せることはなく、いつもの包み込むような暖かな笑顔を浮かべていた。
「夕ご飯の後に食べてみましょうか。本物のシュクール、レノは食べたことないでしょう?」
「う、うん」
いつか、母の生い立ちについて話してくれる日は来るだろうか。私がもう少し大人になれば、聞いたら答えてくれるかもしれない。今はまだ、私は三歳児だ。まだまだそんなドロドロしたことは聞かせられないだろう。下手をすれば、母方の実家からは生まれてくるのを望まれてなかったんだよ、っていう話に繋がりかねない。
「そういえば母さん。わたし、もしかすると、今度街に行ってくるかもしれないんだけど、いいかな?」
街へ行くとすると、日帰りで戻ってくるのは難しいだろう。となると、一泊二日か、下手したら二泊三日になってしまうかもしれない。自分が三歳児なのだと先程改めて思い出した私は、一応親の許可を取っておこうと思い、尋ねてみた。だがそれを聞いて母は、わけがわからないという顔をした。
「レノ? 街がどこにあって、どんなところなのか、分かってるの?」
「うん。ここからかなり遠くて、人がいっぱいいて、栄えてる場所でしょう?」
ざっくりとした答えを返すと、母は間違っちゃいないけど……と呟いた。
私は今日ガスパルと話したことや、マルタンが色々一緒に考えてくれてることを話した。母はそれでも困惑している様子だったが、仕方なさそうに頷いた。
「確かにここに高額な硬貨があるっていろんな人に知られるのはあまり良くないわね。でも、街に行くなんて……本当に大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。街に行くときは大人の人にもついてきてもらおうってマルタンとも話したし、街に行くにあたって気をつけなきゃいけないことは先生……えーと、博士にも話を聞こうって思ってるよ」
「そう……」
それでも母は心配そうだった。




