第26話 先生への報告
凍えるように寒い朝だった。暖かい布団から抜け出すのが億劫だったが、起きなければ仕事に間に合わない。
私が起きる頃には、いつも母はすでにベッドにいない。わたしより遅く眠ることが多いというのに、朝はわたしよりも早く起きるのだ。私は布団の中に戻ろうとする身体を叱咤しながら、のそのそとリビングへと移動した。
「おはよう、レノ」
「おはよう母さん」
母が汲んでくれている水の入った桶にまで一直線して、ぱしゃぱしゃと顔を洗うと、少しだけ目が覚める。さっさとパジャマから普段着に着替えて、朝食の支度を手伝った。
「そうそう、レノ。今朝は雪が降ってるから、いつもよりきちんと着こむのよ」
チャーリーに貰った外套は着ちゃだめだからね、と言われ、私はそれに頷いてから、一瞬遅れてぎょっとした。
「え、雪!? 雪が降ってるの!?」
外套はもちろん着るわけがない。あんな、いかにも『金持ちです!』というアピールをするような服、こんなところで着る方が恐れ多い。まあ、数年経てば私の身体も成長して、あれに袖を通せなくなるだろう。父には悪いが、それまで大切に保管させてもらって、着れなくなったら街に売り払いに行こうと思っている。良い値で引き取ってもらえるだろう。貧民は強かに生きねば。
「そうよ。レノは雪の日に外に出るのは初めてよね? 地面が凍ったり、雪で視界が悪くなっていたりするの。気を付けて外を歩くのよ?」
「ちょっとだけ外を見てもいい?」
「レノったら……少しだけよ?」
母は、まだ見ぬ雪にワクワクする子供を仕方なさそうに見て、そう言った。私はすぐに扉を開けて、顔だけ外に出す。風は無かったが、その分こんこんと雪が降り続けていた。山のふもとだし、とんでもなく積もってるのではと警戒したが、見る限り、まだ降り始めのようだった。五センチ程度しか積もっていない地面を見て、ほっと胸を撫でおろす。
「母さん、雪ってどれくらい積もるの?」
硬いパンとバター、スープをテーブルに準備して、私は椅子によじ登った。暖かいミルクを入れたコップをテーブルに運んだ母も、そのまま席に着く。
「そうねぇ。ここはそんなに雪が深くないところのようだから、毎年多い日でレノの身長くらいかしら」
「え!? そんなに積もるの!?」
「ふふ。でもその時々によるみたいよ。今年はそんなにも降らないといいわねぇ」
母はほのぼのとそう言って、スープを一口飲んだ。いやいやいや、そんな軽い感じで言う話なのか!? そんなにも雪が降ったらこの家なんて雪の重さで潰れるんじゃ、と不安になったが、すでに母はここで何年も生活しているのだ。どうやって冬越えをするのかは、母の方がどう考えても詳しいだろう。そしてその母が平然としているのだ。多分、大丈夫なのだろう。私はスープに硬いパンをひたしてふやふやにしながらかぶりついた。
「雪の日は何をするの? また根っこを取るの?」
雪雲がいるせいで、周囲があまり明るくならない。ジョルジュとサロメが明かりを持って、私たちは今日の収穫地へと向かった。
最近は根っこ系の食べ物を収穫することが多かったのだが、こんな雪の日まで同じことをするのだろうか? 手がとても冷えてしまいそうだ。サロメたちを見れば、布の切れ端を手に巻き付けて、手袋代わりにしていた。帰ったら母さんに作ってもらおう、と心の中で呟く。
不思議と子供たちはみんな足取りが軽かった。子供が雪を好きなのは全世界共通なのかもしれない。
「相変わらずバカだなー、レノは。こんな日に穴掘ってたら、あっという間に手が潰れっちまうぜ」
「じゃあ他のことをするの?」
「ああ。今日は雪野菜を取る日だぜ」
「何? 雪野菜って言った?」
「レノムシは雪野菜も知らねーのか?」
「知らない。何それ?」
「はっ! レノはやっぱりバカだな!」
「うん、そうだね」
ヒューゴは私に物を教えられるのが嬉しいのか、私を馬鹿にしながらも嬉しそうに笑うという器用な真似をして見せた。ヒューゴが年下の子を悪く言うのはもう口癖みたいなもののようなので、私もすっかり扱いに慣れ、煽り文句は全て聞き流すスキルを手に入れていた。
その後、今日の収穫地に無事到着した私たちは、かじかんだ手をなんとか動かしながら、雪の下にある野菜を収穫した。ずっしりとした冬キャベツや、芽キャベツ、クレソンのような葉っぱ類をサクサク籠の中に入れていく。キャベツだけは重いたので、基本的には男の子の籠に入れた。
収穫している最中にも雪は降り続け、作業に集中していると頭の上に積もったりして、みんなで頭を払い合った。中でもヒューゴがまるで叩くように人の頭の上にある雪を払おうとするので、そこでひと悶着もあったりした。
やがて籠の中身をいっぱいにした私たちは来た道を戻った。先ほどよりも数センチ積もった地面を転ばないように気を付けて歩いたので、行きの時よりも疲れてしまった。
今日の下処理はサーラおばさんがやってくれるらしい。収穫は必要だが、基本的に雪の日はお仕事がお休みになるらしかった。
もちろん、私たちの森行きも中止だ。サーラおばさんには、雪が降った後は、数日間森に子供だけで入ってはいけないと教えられた。雪崩の危険があるし、冬ごもりに失敗した獣がうろついているかもしれないとのことだった。雪が降れば基本的に大人も森に行くのは禁止されてしまうので、狩りの日が行われない。そのため、森の中に獣がうろついていても大人が気付けないらしい。
行く予定は全くないし、危険な中で仕事をする必要が無いならそれに越したことはないので、私は喜々としておばさんの言葉に頷いた。
午前の作業が終わったので、今日はサロメの家で硬いパンとウインナーの入った塩味の野菜スープを食べさせてもらった。全身がぽかぽかして、疲労も相まってなんだか眠い。
私の真っ赤になった手を見て、サーラおばさんは可哀想な手だねぇ、と私の手をこすって温めようとしてくれた。素手で作業をしたせいだと話すと、サーラおばさんは一体何してるんだいと苦笑し、明日までに手袋の代わりになる布切れを準備してくれるという話になった。良い人だ!
「レノ! じゃあ明日雪合戦しようぜ!」
おばさんと私のやり取りを見ていたヒューゴが、嬉しそうにそう言った。どうやら本当は今日やりたかったらしいが、私が素手なのを見て、言い出せなかったらしい。明日ならみんな同じ状態になるからと、ヒューゴはワクワクを抑えきれない様子でそう言った。
「別に予定もないからいいよ」
「ダメだ」
誰だ勝手に断ったやつ。声の方を振り向くと、戸口にはマルタンが立っていた。頭に雪が積もっていて、サロメがそれをせっせと落としている。
「なんだ、お前。どうして勝手に人の家に入ってきてんだよ!」
ヒューゴが噛み付くように言った。マルタンはふんっとそっぽを向いて、サロメに話しかける。
「午後からは作業が無いんだったよな?」
「うん、雪の日は朝だけだよ」
「じゃあこれから雪の日は、作業が終わり次第レノを貸してくれる?」
「別に私はいいんだけど……」
サロメがちらりとヒューゴを見た。ヒューゴは顔を真っ赤にして、マルタンを睨みつけている。
「お前が勝手に決めていいことじゃない。レノはこれから、俺たちと雪合戦をするんだ」
「レノは素手だろ? 手を痛めてしまう。僕は反対だね。それに、君もさっき言ってたじゃないか。雪合戦は明日だろう?」
「そうだけどっ……でも、母ちゃんが早く作ったら、今日やれるかもしれないだろ!」
「おばさんにはおばさんの予定がある。明日の雪合戦は僕より先約だったから譲るけど、そのあとからはレノは貸してもらうからね」
「ふざけるなっ! レノをどこに連れて……分かった。どうせあの、ヘンテコな博士のところだろっ!」
「博士をそんな風に呼ぶな!」
「ヘンテコ博士! ヘンテコ博士!」
私は頭を抱えながらヒューゴの肩を引いた。二人の喧騒が止まる。ヒューゴが睨むように私を見た。
「レノはここにいるだろ?!」
「あー……。今日のところはとりあえず、マルタンと一緒に行くよ。私も先生と話したいこともあるし、春になったら採集で忙しいだろうから、それまでにいろいろ覚えておきたいしね」
せっかくの空き時間だ。いつもはサロメたちに仕事を押し付けてわざわざ時間を貰っていたので心苦しいところもあったが、今回は晴れ晴れとした気持ちで先生のところへ行くことができる。うっかり父に本の存在を知らせてしまったことを先生に話しておいた方が良いだろう。というか、話さないといけないよね……先生、怒らないといいんだけど……。
私が内心冷や汗を流していると、ヒューゴが憤慨したように私をキッと睨みつけた。
「俺との約束はどうなるんだよ!」
「雪合戦だよね? 明日やろうってさっき話したでしょ? 今日は無理だよ」
「でもっ……!」
「ヒューゴ。また明日、遊ぼう?ね?」
納得いかない様子のヒューゴの肩をぽんぽんと叩くと、ヒューゴは拗ねたようにそれを振り払い、部屋の奥へと行ってしまった。サロメはひとつため息をついて、こちらへやってくる。
「ごめんね、レノ。ヒューゴは寂しいんだよ。レノのこと、自分の大事な子分だと思ってるみたいだから……」
子分かよ!
「後のことは任せて」
サロメはそう言って、ヒューゴの後ろを追いかけていった。取り残された私はマルタンに苦笑して見せたが、マルタンはこうなって当然だという顔で扉を開けて、外へ出て行った。
転ばないように気を付けながらも、雪道を歩いて先生の家へと到着した。家の前で身体に積もった雪を払い落としてからノックすると、先生が中へと招き入れてくれた。家の中に入った途端、ふわりと暖かい空気が頬に触れて、寒さで強張った身体が少しだけ和らいだ。
暖炉の前でマルタンと二人身体を温め、温かい紅茶を飲ませてもらったところで一息ついた。雪が溶けて少し濡れた服は暖炉の前で乾かせてもらいながら、いつもの席に座った。
「さて、さて。今日の授業を始める前に、ひとつレノに聞いておかなくてはならんことがあっての」
「なんですか?」
意気込んで石筆を手に持っていた私は、首を傾げた。先生がひどく疲れたような顔をしていることに気付く。その様子に、マルタンも心配そうに言った。
「何かあったんですか?」
「……レノ。雪が降る前の最後の行商人の日に、君は一体何をしたんじゃ?」
噂を聞いての、と先生が言った。
「あまりに荒唐無稽な話だったため、わしは鼻で笑い飛ばしたんじゃが……それをやったのがレノだと聞いて、考えが変わっての」
「えーと。クッキーの話ですか? 銀貨一枚って、そんなにヤバい話なんですか?」
「銀貨一枚!? 待て、レノ! まさか君は、クッキーをその値段で売ったのか!?」
っていうかアレがそんな値段で売れるのか!? とマルタンが驚愕のあまり椅子から立ちあがった。先生は疲れたようにひとつ大きなため息をついた。
「確かに君に行商人について知りたいと言われた時に、こうなることを予見できんかったわしの責任でもある……じゃが、まさかこんなことになるとは……」
「た、確かにシュクール抜きのクッキーを高値で売りつけすぎたかなとは思ってますけど……そんなにいけないことでしたか?」
「君は問題の本質に気付いておらぬようじゃ」
先生はそう言って、首を横に振った。
「君が売ったのはクッキーだけではない。その行商人は、今後も君と取引をしたいと言ったのではないか?」
「そりゃあ、まあ。わたしとしてもクッキーを定期的に買い取ってもらえるのはありがたいことですし……でも、これって別に犯罪行為じゃないですよね? 領主様の許可が必要なわけじゃないはずです」
「そうじゃ。じゃが問題はそこではない」
先生の重い口ぶりに、ごくり、と私はつばを飲み込んだ。
「その行商人は、君との繋がりを銀貨一枚で買い取ったのじゃ、君は今後、その行商人に『金の生る木』として扱われるじゃろう。わしの考えでは、次の行商人の日に、君は街へ来ないかと誘われるのではないかと思っておる」
「街、ですか?」
「そうじゃ。君はまだ幼い。君を商人見習いにして、自分の店に取り込むつもりじゃろう」
「商人見習い……」
確かにあの時、私はあの商人に他にもレシピがあるということを匂わせた。ただそれはクッキー限定の話であって、私にそこまでの価値を見込んでいるとは思えない。そう伝えたが、先生はそうではない、とまた首を横に振った。
「あのレシピを君が考えたにせよ、君の周囲の人間が考えたにせよ、行商人には関係ないことじゃ。重要なのは、君との関係そのものなのじゃ。商品を編み出す脳を持つのが君でなければ、目標を君からその者に変えればいいだけじゃろう? 君が使えなくなれば、何か理由をつけて切り捨てれば良い。じゃからこそ、君を最初に取り込むことで、とにかく情報を搾取しようとするじゃろう」
私は単なる情報収集の切り口でしかないということか。
ふむ、と私は顎に手を当てて考えた。考えようによっては、悪い話ではないだろう。向こうは私の情報が欲しい。私はお金とこの世界の常識が欲しい。商人の世界であれば、いろんな情報も手に入るだろう。私はこの領地でどこに住むのが一番楽に、かつ安全に暮らせる場所なのかを知りたい。この村もいいけれど、毎日が大変だ。もう少しデスクワークちっくなことをして、安全な場所で食料に困らない毎日を送りたいのだ。
「街っていうのは、年に一回、大人たちが行くところですよね?」
「……レノ、まさか君、行くつもりなのか……?」
私が興味深々、といった様子で先生に質問すると、マルタンが焦ったように言った。どうしてマルタンが焦るのかは分からないが、私はコクリと頷く。
「別に街に今すぐ引っ越したいとか、商人見習いになりたいとかっていう気持ちはないよ。ただ、言ったと思うけど、わたしは知らないことがたくさんあるから、とりあえず行っていろんなことを自分の目で確かめてきたいの」
「確かめるって……それは、商人見習いになっても良いってことか?」
「待遇と条件が良ければ、それも視野の内に入るかな」
「タイグウとジョウケン……」
マルタンは難しい顔をして私の言葉を復唱した。先生はもはや呆れを超えて諦観したように笑い、私の頬をつついた。
「全く。このお嬢さんは、どこでそんな言葉を覚えてくるんじゃろうか」
……村の生活では普段使わない言葉を使い過ぎてしまったか。以前は子供っぽい言葉選びをして話すことに留意していたのだが、最近その気持ちを忘れてしまうことが多い。難しいことを考えると、考えているままに口から言葉が出てしまうのだ。私は自分は三歳児なのだと自分に言い聞かせて、口を開く。
「先生。わたしがもし、行商人の人たちについていったりしたら、何が起こりますか?」
「ふむ、ふむ……それこそ向こうが何を君に望むかによって変わってくるが……」
先生はちらりと私を見て、またため息をついた。
「なんですか?」
「普通、こういうことは大人がやることでの。君のようなまだ幼い子供に、直接行商人と話させるようなことはせぬ。……じゃが、君の場合、君が直接行商人と話した方が事がうまく進むようで、しかしそれ以上に想定もつかない方向へ話が飛躍しそうでもあり……難しい、非常に難しいのぅ……」
本来、人事に関することなので、村の中でも話し合いの場を設けるのが普通らしい。親がやってきた仕事を子が引き継がないとなれば、次世代に穴が開いてしまう。そのため、仕事の再分担などが必要となり、村の人々も無関係ではないからだ。
ただ、私の場合はどうだろう。もともと代々引き継いできた仕事があるわけではなくて、単にここに住まわせてもらうからといって新たに仕事を用意してもらったようなものだ。もちろん無責任に放り出すのは良くないが、例えばジョルジュが跡取りをやめると言い出すよりかは、随分と身動きがとりやすいのではないかと思うのだけれど。
「まあ、ここで話してても埒も明かないか。次の行商人の日に、もし向こうからそういう声がかかったら、一度詳しく話を聞いてみるよ」
「その場で安易に返事をせず、必ず話を持ち帰るのを忘れるでないぞ」
「もちろん!」
「マルタン、よろしく頼む」
「ぼ、僕ですか?」
あれっ、もしかして先生の中では、私よりマルタンの方が信頼がある感じですか? 確かに先生と接してきた時間は私とマルタンを比較すれば当然マルタンの方が長い。そりゃマルタンの方を信頼するか、と私が苦笑していると、先生は私そっちのけでマルタンに真剣な顔を向けた。
「その時が来たら、マルタンもレノと一緒にいておくれ。又聞きよりマルタンからの情報の方が正しいうえ、何よりわしが信頼できる。それと、いざという時にはレノを止めてほしいのじゃ」
「レノが勝手に何かを決めようとした時には、止めればよいということですね?」
「その通りじゃ」
はい、先生。とマルタンは物分かりの良い生徒のように頷いてみせた。まあ私としても、常識人が側にいてくれるのは心強いので、有難くそういうことにさせておいてもらおう。
会話がひと段落したところで、先生が今日の授業に入ろうとしていることに気付き、慌てて私は手を挙げた。先生が怪訝そうな顔で私を見た。
「どうした、レノ」
「わたし、先生にもう一つどうしても報告しなければならないことがあります!」
それも、めちゃくちゃに謝罪案件である。私が覚悟を決めたかのような顔でそう言えば、先生はとても嫌そうな顔で上げた腰をもう一度椅子に降ろした。
「そんなにまずい報告かの?」
「まあなんとか回避したというか……」
「詳しく話しなさい」
私は大人しく、父に本の存在がばれてしまったことを話した。ただ先生については最後まで教えなかったし、本についても口外しないと約束して、交換条件として新しいお菓子のレシピを教えたことも話した。
「レノ……君は…………」
先生が頭を抱え、深い深いため息をついた。私は先生の背中を励ますように撫でながら、わたわたと言葉をかけた。
「だ、大丈夫ですよ! 父さんにはちゃーんと口止めしてありますし、暫くここに来ないとも言ってました! そ、それに、その証拠に何も起こってないですよ!」
「今はまだ、というだけじゃ」
一気に十歳くらい年を取ってしまったかのような先生の様子に、私はまた冷や汗を流し始めた。不用意な発言には気を付けているつもりなんだけど、だって、父さんの方が一枚上手だったんだもん! 言葉尻から揚げ足を取られると、たぶん指摘された瞬間の動揺も見抜かれてるだろうし、八方塞がりじゃない!?
「こ、今後はより一層言動には気を付けますので……」
「もう手遅れかもしれんが……そうしてほしいものじゃ」
年寄りにあまり気苦労をかけるものではないぞ、と先生がボヤいた。一体何が手遅れなのかは分からなかった。現に騎士団が詰めかけてきて本を証拠に先生やこの村の人間を反逆者として捕まえようとしているわけでもないわけだし。
「レノは何故、インクや本が高価なものなのかは分かるかの?」
先生は疲れたように言った。唐突な問いかけに、私は面食らいながらも考えた。
……どうしてって。本を大量生産するための技術がまだそこまで追い付いてないから、としか思えない。昔は本が高級品だったという話はよく聞く。インクも大体同じ理由なのだろう。
「貴重なものだからじゃないですか? 一個一個手作業で時間をかけて作って、しかもその材料を手に入れるのにも苦労するからでしょう?」
「おおよそはその通りじゃ。じゃが、それだけではない」
先生は、重々しい口調で他の理由を話してくれた。
本や紙というのは、そもそも何かを書き記すために存在している。つまり、語り部がいなくなっても、書物そのものが受け継がれていけば、後世に様々なものが伝達できるということだ。そう、先生が持っている歴史書が良い例だろう。
だがそれを快く思わない者がいる。そう、領主だ。先代領主の時代より、全ての書物は検閲対象となり、所持する際には必ず届出書が必要となった。そうなるとどうなるか。人件費や管理費がかかってしまう。そのため、何かを書き記す行為そのものに必要となる道具は軒並み金額が跳ね上がっているとのことだった。
そもそも紙類は高級品のため、貧民には出回らない。豪商や貴族のステータス付けで持たれることがほとんどだ。だからこそ、書物がどんどん高騰していっても、庶民には全く関係のない話だった。つまり、誰もかれもが無関心。豪商や貴族は、基本的に長い物には巻かれろ精神。そうして領主の思惑通りの書物だけが残り、その他の正しい歴史書等は次々と消失していっているということだった。
「……それって、ほんとにあの本って、バレたらまずいものじゃないですか」
ごくりと唾を飲み込んでそう言うと、だからそう言ってるだろ、と間髪入れずにマルタンと先生に突っ込まれた。
更に言えば、紙類を販売しているのも領主管轄の商いだそうだ。元締めをしているということは、売り先も把握できるということで。本当に全ての情報を領主がコントロールしているのだと気付いた私は、やっと先生が言っていた『覚悟』の意味を理解できた気がした。
「それをレノは、貴族かもしれない自分の父親に言ったってことだぞ。状況、分かってるのか?」
マルタンが追い打ちをかけてきた。私はしゅんと項垂れ、分かってます、と呟いた。
先生はこれ以上この話を続ける気はないらしい。何も起こらんと良いがの、と最後に一言ボヤいた後、今度こそ今日の授業が始まった。
それから数日の間はドキドキして過ごしていたが、いつまで経っても村に検閲班や、騎士団は訪れなかった。父が本当に約束を守ってくれたのだと確信を持った私は、ダメ男の印象が強かった父への好感度を急上昇させた。




