第17話 文字を教えてください!
夏の盛りが過ぎて、ゆっくりと木々に彩りが見え始めた。暑かった日々にも終わりが見え始めて、朝と夜は半袖では少し肌寒いかなーという頃。
「初めまして、レノです。よろしくお願いします」
「ほっほう、ほっほう。まだまだ小さいのに、随分とまた出来たお嬢さんじゃの」
はきはきと挨拶をすると、おじいさんは好々爺といった様子でニコニコと笑った。薄い茶色に白髪を混じらせ、細身で、たぶんそんなに身長が高いわけではないだろうが、私から見ると随分と大きく見える。それはきっと、農民なのに、年を取っても腰が曲がっていないからだ。行商人とのやりとりのために村の広場へ歩いた道中では、何人か老人も見かけた。その人たちは皆一様に腰を曲げたままになっていたが、彼はまっすぐに立っている。
「僕と一緒に、今日からレノもここで学びたいらしいんだ。レノは頭が良いから、たぶん、こういう勉強に向いてると思う。だから僕からもお願いするよ、先生」
「マルタンが人を褒めるなんて、長生きはするもんだのう」
「……先生」
「ほっほっほ。そうカリカリしなさるな」
先生、と呼ばれた老人は朗らかに笑った。六十歳くらいだろうか? 『私』の常識からいけばまだまだ人生これからだ、というような年齢だが、ここでの平均寿命は短そうなので、結構なご高齢になるのかもしれない。
「わしはオラースという。少しばかり若い者より物を知っているだけの、ただの老人でな。先生と呼ばれるような人間ではないんじゃ」
「マルタンから聞いてます。先生は、キノコ博士で、薬草博士で、何でも知ってるんだって」
オラースとは直接面識は今まで無かった。というのも、彼は村の東側に住んでいるのだ。そのため、必然的に会う機会はほとんど無い。
今日は、サロメたちに了解を得てここにきている。サロメたちとは今後、マルタンがここに来るときには一緒に行かせてもらう、という約束をした。農民にはお休みの日がないので、サロメに相談して、通っても良い日を作ってもらったのだ。野菜の収穫と下処理はするけど、森には行かずに、マルタンと二人でオラースのところへと訪れる日。
その代わり、と言ってはなんだが、サロメにはクッキーの作り方を今度教える約束をした。手順はそんなに難しくないが、火加減や分量など、サロメは改めて一から知りたいらしい。
「わしにも分からぬことはこの世の中に山ほどある! しかし、君たちよりかは少しばかり知恵を持っているかもしれぬ。わしの知恵でよければ、君たちにできうる限り授けよう」
「ありがとうございます!」
「ではこの石板を貸そう。石筆は持ってきたね? ああ、ああ、それだ。文字は? まだ書けない? では一から教える必要がありそうじゃのぅ」
「先生、僕は文字は覚えています。今日は薬草について教えてもらえるって約束ですよ」
「おお、マルタン。時は金なり、その通りだ。だがこうともいう。焦らず待て」
オラースは私の先生にもなってくれた。クールそう顔をしているが内心絶対にふてくされているマルタンを放って、私に黒板みたいなやつを手渡してくれた。それを受け取って、長椅子に座る。
ここは、先生の家だ。奥さんとはずいぶん前に死別したとのこと。一人で暮らすには少し大きめな平屋の家に住んでいるようだった。家の中には大きな暖炉があり、長椅子と長机がひとつ。老人一人には大きすぎる気がするが、きっとこんな風に学びを乞うて来る子供たちのために大きめのものを準備しているのだろう。
部屋中に、所狭しと見慣れないものがたくさんあった。干された薬草、瓶に詰められた薬草、中身の見えない手のひらサイズの容器、採ってきたらしいキノコがザルに入っている───と、食材や薬草が入っている棚の一部に、本があるのが見えた。その近くには、くるくると巻かれた紙もあった。この世界にもちゃんと本はあったんだな、と変なところで感心しつつも、私は黒板に意識を戻した。
先生から受け取った黒板にはいくつか文字が書かれていた。アルファベットに少し似ているような気もする。私はマルタンのお下がりのチョークを手に持って、お手本をせっせと真似て書き始めた。
「先生、もういいですよね?」
しびれを切らしたマルタンが、私の向かいに座った。先生は苦笑して、戸棚の方へと向かった。瓶詰の容器を何種類か持ってきて準備しているので、種類を見せて説明してくれるのだろう。私はその説明をちらちら見たり聞いたりしながら、せっせとチョークで文字を書き続けた。
貸してもらった布で文字を消して、また書いて、と繰り返しているうちに、あっという間にお下がりのチョークは私でも持てないサイズにまで小さくなってしまった。さすがにもう書けないだろう。私は諦めてマルタンたちの方を見た。マルタンは真剣な表情で、先生の説明を聞いている。
「この葉はこの薬草と混ぜると効力を発揮するのじゃ。切り傷に塗り込むととんでもなく痛いが、すぐに血は止まるだろう。必ず傷口は洗うことを忘れるでないぞ」
「はい、先生」
基礎の基の時も知らない私は、なんとなくその葉っぱを眺めていたが、やがて飽きてしまい、きょろきょろと部屋の中を見渡した。行商人が次に来たときまでにお金になりそうなものを貯めて、たくさんチョークを買っておこうと心の中に決めつつも、何か暇つぶしになるようなものがないか探す。
「なんだ、レノ。もう飽きたのか?」
マルタンが呆れたように言った。私が落ち着きなくきょろきょろしていた様子を見られていたらしい。慌ててそうじゃないよ、と否定して、小さくなって持てなくなってしまったチョークを見せた。
「ねえ、先生。あの本を読んでもいいですか?」
戸棚を指さすと、先生はうーむ、と顎をさすった。少し悩んだ後、その枯れ木のような細い手で、戸棚から大きな本を一冊持ってきてくれた。
「なかなか難しいぞ、これは。マルタンでもまだ読めぬやもしれぬ」
「マルタンでも読めない? どうして?」
「難しい言葉がたくさん使われておるんじゃ。マルタンはまだ知らない言葉も多い……さて、さて」
テーブルに置かれた本は、薄汚れていて、ボロボロだった。表紙は真っ黒で、何も書いていない。重そうな表紙を開くと、そこにはカサカサの紙にミミズが走ったような文字が並んでいた。ところどころ穴が空いたり、ちぎれたりしてしまっているところもある。うわ、と私は思わず顔をしかめた。
「先生。これ、お手本の文字と全然違います。こんなの読めないですよ」
「これは写本といってな、元の本を誰かが書き写したものじゃ。だから、その者のクセが強く出る。これは急いで書き殴ったおかげで、こうなったんじゃろう。そういう時は大抵、本人にはよくよく読める字かもしれぬが、本人以外にはなかなか解読が難しい時もあるものでな」
筆記体みたいなものだろうか。それにしても、癖が強すぎる。私にはどこが文字の切れ目なのかさっぱり分からない。マルタンも分からないらしく、難しい顔をしてなんとか少しでも読み解こうとやっきになっているのが分かった。
「基本的に本とは高価なものじゃ。写本でさえも、恐らく君たちにはそうそう縁あるものではない。そもそも買える場所も、この辺りには限られておる……街に行ったとて、売ってくれるかさえも怪しいところじゃて」
基本的には裕福な人間のものだということらしい。先生はそう説明した。
「じゃあこれ、先生は書き写さないんですか? これ、もうボロボロで読みにくくて……放っておいたら、もっと悪くなるんじゃ?」
本のために整えらえた環境とはお世辞にも言えないだろう。放っておけば湿度や虫等の影響によってどんどん品質が劣化していくのは目に見えている。だったら、文字を書けるのだから、先生が写本を写本すればいい。読めているっぽいし。そう軽く考えて提案したが、先生は無理だと一刀両断した。
「そもそも写本にはお金がかかってのう。インクも紙も、我々では到底手の出るような代物ではないのじゃ」
「だったらどうして先生はこれを持ってるんですか?」
マルタンが不思議そうに言った。その通りだ。私も一緒になって先生を見上げれば、先生は苦笑しながら遠くを見た。
「……ほっほっほ。それを話すには、まずわしの過去を語らねばならぬ」
だがそれにはまだ早いだろう、先生はそう言って私をちらりと見た。……まだ私がどういう人間か分からないから、話してくれないのかもしれない。
しかし村随一の知識人ならば、早めに信頼を得ておきたいものだ。ここの常識だけでなく、薬草やキノコについてももちろん、街のことや、そのほか色々なことを先生は知っていそうだった。
「先生。じゃあ今度教えてください。それで、とりあえず、私、先生からチョーク……じゃない、この白いのって、買い取れませんか?」
石筆、だったっけ? と言いながら私は首を傾げた。次に行商人が来るのがいつのなのか知らない。それまで文字の練習ができないのは正直時間的にもったいない。先生が余らせてないかと期待したのだが、先生は笑うだけだった。
「マルタンの言う通り、レノは呑み込みが早い。そうそう簡単に石筆を使いこなせる子供も少なかろう。マルタンでさえ、最初のうちはすぐに文字の練習に疲れて、他のことに興味を移しておったぞ」
「せ、先生。やめてください」
マルタンが慌てたように言った。ここにきてから、マルタンの意外な姿が見れて、何とも楽しい。クールで頭の良さそうな少年だと思っていたが、ここでは先生の手のひらの上でころころ転がされてしまうようだった。私は内心ニヤニヤしながらも、口を開いた。
「石筆が貰えないなら、何か他の勉強がしたいです。せっかくサロメたちに時間を貰ってるのに、何もしてない時間がもったいないんです。わたし、キノコも薬草も詳しくないです。マルタンの隣で話だけでも聞いてていいですか?」
「……はて。レノは本当に三歳なんじゃろうか?」
先生は疑わしそうな目でマルタンを見た。マルタンはちらりと私を見た後、コクコクと頷く。先生はひとつため息をついた。
「言ったでしょう? レノは頭が良いんです」
「頭が良い悪いの話ではない。学ぶことに慣れておる……普通、ここにいる子供たちは、椅子に座ってじっとしているのが難しい。座って人の話を聞くことに慣れておらぬからじゃ。日々、親の手伝いをしている子供がほとんどだからのう」
「先生。でも、僕も最初から、きちんと椅子に座っていられました」
マルタンが拗ねたように言ったので、私は思わず少しだけ笑った。マルタンがむっとしたようにこちらを見たので、私はすぐに表情を取り繕って先生をじっと見つめた。
「そうだ、そうだ。マルタンもそうだった。……レノ、君の母親の名前は、マリアンヌと言ったな?」
先生の瞳がきらりと光った。何か意図が含まれた質問のように感じたが、隠しても何の意味もない。私がそうだと頷くと、先生の顔が苦々しいものになった。
「そうか、そうか……」
年輪を刻んだ皺が、何かを深く考えながら歪む。
「誠に、奇なり……」
まるで独り言のようにそう呟いて、先生は目を閉じてひとつ大きく息を吐いた。次に目を開いたとき、先生は先ほどまでの苦悩はどこかへ放り投げたかのように、元の穏やかな好々爺に戻っていた。
「レノ。わしから初回の贈りものじゃ。次からは自分で準備するように。わしは蓄えで普段生活する、金も力もない老人での。あまり搾り取ろうとせんでくれ」
そう言って、先生は私にチョークを五本もくれた。言葉と行動が釣り合ってない。こんなに良いのか、と目を見開いて唖然としていると、先生はほっほっほ、と朗らかに笑った。
「未来ある若者に道を教える。これがわしの生きる道でのう」
ぽんぽん、と私の頭を軽くたたいて、先生はまじめな顔で私を見た。
「……お前さんも、願わくば、このまま平和に幸福に生き続けることじゃ」
「先生……?」
「さて。そろそろお開きの時間じゃ。これ以上は老人の身体に酷での。隣の家の人間がわしのために夕食を作ってくれておる。もう少しすればそれを持ってきてくれるのじゃ。わしの夕食を君たちに分け与えられるほどわしの心も広くない……ああ、いや、もし今日の料理当番があの家の末っ子だったら、ぜひとも食べてみてもらいたいものではあるのう。いやなに、素晴らしい料理の才能でな。あの家の末娘は、味付けという工程を知らんらしい」
素材の味しかせん、と先生が顔をしかめたのを見て、私とマルタンは顔を見合わせて吹き出した。
その翌日から、私はマルタンが文字の練習をするタイミングで、一緒に文字の練習をした。チョーク節約のために、木切れを使って地面に文字を書いたりして練習した。
そうしているうちに、マルタンからクイズを出されるようになった。例えば、ルミュールはどうやって書く? と、唐突に聞かれるのだ。私はすぐに持っていた木切れで地面に文字を書いて、マルタンのチェックを受ける。
この日も作業が終わって帰る直前、夕陽を浴びながらマルタンとクイズをやっていた。子供の落書きを見て、大人たちは暖かい笑みを浮かべて、食糧を取りに来ている。
ふと、その時。地面に向かって文字をがりがり書いていた私の視界に、ひらりと目の前を歩いた人の裾広がりのズボンが見えた。その拍子に、私の頭の中には、母の足首についている銀輪が思い浮かんだ。……そういえば、あの銀輪。御者は手首につけてたんだったっけ。
流行のアクセサリーだとは思いにくい。願掛けのミサンガとか、うーん、静電気防止用の腕輪? いまいちピンとくる想像がつかなくて、私は難しい顔をしながら、歩いている大人の手元を見た。まだまだ半袖の人も多くいるし、この夏場、御者の男と同じように、手首に銀輪を付けている人は見かけなかった。
……となれば。
「きゃっ!?」
「レノ? な、何してるんだ?」
マルタンが困惑したように言った。それもそのはず、私は唐突に、目の前にいたお姉さんの足首を見るため、ズボンの裾をめくりあげたのだ。
「うーむ」
お姉さんの足首には、何もなかった。続いて、近くにいる他のお姉さんの足首をチェック。そうして、そこにいる人たち全員のズボンの裾をたくし上げ、足首には何もついていないことを確認した。……マルタンはドン引きの表情でこちらを見ていたようだった。マルタンからの信頼度は少し減少したかもしれないが、これからもしばらくの間はこれを続けようと私は思った。まあ三歳児なので、意味不明ムーブも許されるだろう。ちょっとした新しい遊びというか、悪戯だと思ってくれるはずだ。
だが、結局のところ、全ての村人の足首を見ても、誰も銀の輪を嵌めている人はいなかった。




