第13話 父からの誘い
「えっと……?」
「今の生活はひどく大変でしょう。私と一緒に来れば、生活はずっと楽になります。今より良い服を着て、今より良い物が食べられる。身の回りのことはクロードのような者が行うので、レノはやらなくていい。今は随分と色々な面で苦労しているのでしょう?」
まだまだ幼い君がいて良いような環境じゃない、と父は心配そうに言った。
「君が大人びているのは環境のせいでしょう。それはつまり、私のせいでもあります。私はレノを愛していますし、大切に思っています。君に苦労をさせたいわけではありません」
「ま、待って、父さん。母さんはどうなるの?」
「もちろんマリアンヌも一緒です。二人が快適に住める場所もすでに考えてありますよ」
「……父さんは一緒じゃないの?」
「……最近、ここに来られなかったのにも事情があるんです。だから今すぐには一緒に住めません。しかし、私と一緒に来れば、今よりずっと近い距離に住むことができます。そうなれば、今よりもずっと頻繁に、それも気軽に会えるようになるでしょう。いつかは一緒に暮らせるかもしれません」
父は曖昧な笑みを浮かべて、私の頭をあやすように撫でた。
「レノの欲しいものは全て私が準備しますよ。レノは何が欲しいですか?」
ぐらりと心が揺れた。まるで深緑の瞳に捕まったように、身体が強張った。
欲しいものなんて山ほどある。今よりずっと良い衛生環境の中で、今よりずっと良い食糧事情の中で、今よりずっと良い教育環境の中で生きていけるなら、それはどんなに幸せなことだろう。もう土埃にむせなくていいし、もう森の中に入って葉っぱで切り傷を作ったり、何かの植物にかぶれて困ることもない。それはとても魅力的なお誘いだった。
「…………」
ぎゅっと唇を噛み締め、自分を叱咤する。考えろ、考えろ! 相手は父親とはいえ、あまり交流が無い大人だ。私はこの世界の常識をあまり詳しく知らないのだから、より一層他人の言動には気を付けていなければならない。
父はなんと言った? 三人一緒に暮らすわけじゃないと言った。つまり、愛妾として、自分の側に囲い込むつもりじゃないだろうか?
……もし、母が死んだら? 身寄りもない私はどうなるんだろう。母がいる間、父は私を大事にしてくれるかもしれないが、母が死んだ途端に捨てられるかもしれない。養育してもらったとしても、愛妾の子として、よくありそうな家督争いに巻き込まれて、暗殺されてしまうかも。
何よりこの父が没落したら私も一緒におしまいだ。それならば、今の状況から自分の手でのし上がった方が、百倍安定した未来があるんじゃないか?
「……父さんの気持ちはうれしいよ、わたしも、父さんと母さんと、三人で暮らせたらいいなって思うよ」
言葉を選んで、ゆっくりと話す。父から観察するような目で見られているような気がしたが、私はお腹に力を込めて、怯まないように気を張った。
「でも、きっと、そうしない方が良いと思う。お互いに、幸せにならないと思うから。こうやってまた、時々父さんが会いに来てくれるっていうのは、もう難しい?」
「そんなことはありませんよ。ただ、側に住んだ方が頻繁に会えるのは本当です。ここは私の住んでいるところから随分と離れていますからね」
そこに母さんを追いやったのはどこの誰だよ。そもそも、母さんは元々どこに住んでいたのだろう? 生まれも育ちもこの村、というのは無いはずだ。よそ者として扱われているのだから。となれば、もともと父の側に住んでいたのだろうか。父と同等の位の人間ではなかったのは分かるが、召使いか何かだったのだろうか?
「……でも、事情があったから、わたしたちは離れて暮らしてるんだよね?」
詳しいことは分からないが、母が正妻であれば特に問題なく今頃裕福な暮らしを送っていたことだろう。今更どうして側で暮らしたいなどと言うのだろうか? 正妻とうまくいってないのか? それとも二人目の子供でも狙ってるのか? 正妻の方に、長男が生まれないとか? ……うわ、自分で言っててあり得る可能性に気付いちゃうの、なんかやだな。
「この子は本当に、……全く。三歳児とは思えないほど賢い子ですねぇ」
苦笑交じりにぼやいて、父は私の頭を撫でた。
「目先の利益より、自分の未来、ですか。……悪くない判断です」
すっと視線を逸らされた。父が小窓を見たと思った瞬間、馬車が止まった。コンコン、と御者台の方からノックの音が聞こえてくる。
「落とし物を発見致しました」
「そうですか。では、マリアンヌの家へ向かってください」
「かしこまりました」
馬車が方向転換して、ゆっくりと動き始める。……そういえば、落とし物って何だったんだろう? 馬車から落とし物するのって、難しくない? 別に大きな窓が開いてるわけでもないし。
「……三歳児相手だからといって、過小評価していました。単なる子供であれば物で釣れるか、もしくは、マリアンヌに判断を仰ぐと思っていたのですが……レノは私が思っていたより随分と聡い子に育ったようですね。私はとても嬉しいですよ、レノ」
いつもよりも低くて静かな声が、上から降ってきた。独り言のように小さく小さく呟かれたそれは、しかし私が至近距離にいたために、全て丸聞こえだった。いつもの穏やかな雰囲気と少し違った声音に、私は思わず父を見上げた。父の横顔は、初めて見る顔つきをしていた。私を子供として扱うのではなく、一人の人間として扱っているのがわかる。
「さて、レノ。いつか、もう一度同じ質問をさせて頂きます。今回は急でしたからね、断られるかもしれないとは思っていました。ですから、それまで一度ゆっくりと考えてみてください。次こそは快い返事を貰えることを期待しています」
「……母さんが、父さんを選ぶっていうなら、私はそれに文句はつけないよ。だから、母さんに聞いたらいいんじゃない? 多分、今の暮らしで一番大変な思いをしてるのは母さんだし。だけど、もし本当に父さんの元に二人で引っ越すってことになれば、幾つか条件を付けさせてもらうからね」
「条件?」
「私と母さんが、父さんの側でも安心して安全に暮らせるための条件。それと、どうして今更呼びつけるのかも聞かせてもらうから」
「私はレノとマリアンヌを愛しています。……それでは足りないのでしょうか? レノは私を愛していないのですか?」
「それは……」
しまった。邪推しすぎてしまったか。警戒心に任せて、父の甘言の裏を読もうと一生懸命になっていたが、父のしょんぼりと傷ついた顔を見せられて、私は慌てて首を横に振った。
「と、父さんのことも、大好きだけど、母さんのことも大好きだから。だから、その。みんなが幸せになれるようにしたいなって、それだけだよ!」
「……レノは優しい子ですね」
父は満足したようににこりと笑った。冷たくて長い指が、私の頬を撫でる。
「…………そして、賢い子です。私は君の成長が楽しみでなりません」
ざわり、と背筋を何かが走った。まるで猛禽類に睨まれた獲物のように、心臓がどくりと跳ねる。だがそれも一瞬のことで、すぐにその感覚は収まった。だが心臓だけはどきどきと脈打っている。私は顔を強張らせたまま、父を見上げた。父はいつもと変わらない優しい笑みで、私の頬を撫で続けている。
「それで? 何か欲しいものはありますか? ……ああ、大丈夫ですよ。ねだったからといって、無理やり君たちを引っ越させようなんてこと、思っていませんから」
そんなことをして君に嫌われてしまったら大変です、と、まるで愛娘にするように父がおどけてみせた。
……欲しいもの、か。なんとなく父には得体のしれないものを感じてしまって、あまり恩を作っておくのも良くない気がする。どこまで何を本気で言っているのか、よくわからない人だとも思う。
私は少し悩んだ後、閃いたように目を輝かせた。
「……フライパン。フライパンが欲しい!」
「レノは料理が好きなんですか?」
「うーん、まあ、うん! そんなところかな! 本当は砂糖も欲しいんだけど、高いでしょ? このクッキーもフライパンで作ったんだよ! 本当はオーブンが欲しくて……あ、ねえ、父さんの家にはオーブン、あるの?」
もちろんですよ、と父が頷くのを見て、感激した。ちょっと父の家に行きたくなってしまった。
「いいな……。でも、だったら余計にこんなお菓子、食べたことあるんじゃないの? こういうのはお抱えの料理人がレシピを知ってそうなものだけど」
あれ? でも父さん、さっきレノが考えたのかい? って言ってたっけ。ってことは、食べたことなかったのかな? でも、お抱えの料理人がいて、オーブンがあって、砂糖があるなら、普通食べたことあるんじゃないの?
首を傾げていると、父は複雑そうな顔を見せた。
「実をいうと、驚いていたんです。我が家にはもちろん砂糖もあるのですが、このようなお菓子は初めて食べました」
「えっと……じゃあ、おうちではどんなお菓子を食べてるの?」
「先ほど、レノはシュクールの話をしていましたね? 本当のシュクールは四角くて、サクサクしています。砂糖を固めたもの、と言えばわかりますか?」
……つまりそれって、ただの角砂糖じゃん! え、それお菓子なの? お菓子じゃないよね? 氷砂糖をお菓子としちゃうようなもの? まあ確かにべっこう飴もお菓子売り場に売ってるしね??
「ほ、ほかには?」
父の話を聞けば聞くほど、私の顔は引きつった。どうやら砂糖をふんだんに使ったお菓子が上流階級の証みたいなところがあるらしく、馬鹿の一つ覚えのようにとにかく砂糖をまぶしたり、固めたりするお菓子が流行しているらしかった。父はあまりお菓子が好きではない、と言っていたが、それは単純に砂糖の塊を食べるのが好きじゃないということだろう。私も別に好きではない。それだったら森で採れた果実かじってたい。
「そうだ、クロードさん。良かったらクッキーのレシピ、教えておきましょうか?」
ちょっぴり父の食事環境が可哀想になって、私は善意から申し出た。するとクロードは困惑したように私を見た後、父を見た。父も驚きの顔で私を見ている。
「本当ですか、レノ?」
「フライパンと交換だよ」
「なるほど……ふふ。レノは強かですね」
そりゃあタダでは教えられませんとも。父の家の側に住んでいたらクッキーを作って砂糖と現品交換とかも考えられたが、現時点ではレシピとフライパンの交換が一番現実的だろう。フライパンさえ手に入れられれば、こっちもシュクールを入荷させ次第クッキーを大量生産することで、行商人とのやり取りを優位に行える可能性がグンと跳ね上がる。クッキーの市場価値が下がる前にどこかにレシピを売りつけて、新しいレシピを考案してもいい。
父にフライパンを後日届けてもらう約束を取り交わした後、クロードに口頭でクッキーの作り方を教えた。オーブンでも作れるのだが、この時代のオーブンがどんな形で、どれくらいの精度のものなのか、よくわからない。できれば立ち会って色々確認してみたいところなのだが、まあ欲はかくまい。私はフライパンで作った時のやり方を一通り説明しておいた。
あっという間に家に戻ってきた。長いようで、短い時間だった。少し陽が傾いている。父は私を抱き上げたまま馬車を降りた。クロードが特徴的なノックをすると、すぐに扉が開いた。
「まあ! 帰りが遅いと思ったら、チャーリーと一緒だったのね?」
父に抱きかかえらえている私を見て、母が目を丸くした。ただいま、とへらりと笑うと、父も一緒にただいまと言った。母に中へと迎えられ、私たちの後ろからクロードが私の籠を持って入ってきた。地面に下ろしてもらい、クロードから籠を受け取ってお礼を言って、さっさと荷物を戸棚へと片付けた。その最中に父と母は情熱的な抱擁をしていたので、私はなるべくゆっくり、丁寧に片付けを行った。
片づけが終わる頃には二人は身体を離していて、母は食事の準備を始めた。父は椅子に座っている。私は戸棚から食器を取り出し、母の手伝いを買って出た。
「母さん、食器はテーブルに置けばいい?」
「そうね、その大きなお皿だけこちらにくれるかしら?」
「はぁい」
母の指示通り動きつつ、三人分のスプーンやフォークを準備していると、ふと気付いた。
「父さん、クロードさんたちのご飯はいいの?」
父はここで食事を済ませるからいいかもしれないが、クロードらは食事をどうするのだろう? ここには食事が出来るレストランやパブみたいなお店もなければ、お店屋さんもない。飲まず食わずではさすがに可哀想だろう。そう思って尋ねたが、父はかわいい幼い子供を愛でるような笑みを浮かべた。
「レノは、近所の家に行って、夕食を勝手に食べたりはしないでしょう?」
「え。う、うん。そんなことしないよ」
「それは何故ですか?」
「え? 何故って……そんなの、変だよ。失礼だし、普通はしないよ」
「そうです。この世界にはルールやマナーといった常識があります。皆、意識的にせよ無意識的にせよその常識に従って生きています。それと同じですよ」
「………えっと?」
「あの二人が私と共に食事をしないのは、それが普通だということです」
つまり身分社会だから、父と同じ食卓を囲むことはあり得ないってこと? それはそれでわかるけど、だったら別室で食べるとか、下げ渡しとか、なんかそういうのがあるんじゃないの? だって、じゃなきゃあの二人だってお腹空いてない?
「クロードさんたちは今どこにいるの?」
「外で待機させていますよ」
え、家の外ってこと? 降りたあの場所であのまま待ってるってこと? そりゃ色んな意味で目立ちそう。
うーん、と私は渋い顔をしながら、テーブルにちょこんと置いた布の包みを手に取った。それを父に手渡す。
「これ、クロードさんたちと三人で帰りがけに食べたらいいよ。本当は父さんにお土産として持って帰ってもらおうと思ってたんだけど、せっかくだし、父さんがちょっと食べたら後は残りの二人に下げ渡したら?」
クッキーは日持ちするし、と思って父に渡すつもりだったが、まあしょうがないだろう。三人仲良く食べるのは難しいかもしれないから、上の地位のものから順番に食べていけばいいだろうと話すと、父は一瞬だけ驚いた顔をしたのち、複雑そうな顔をした。
「しかし、これはレノが私のために焼いてくれたものでしょう? マリアンヌはもう食べたのですか?」
「私がなんですって? ……あら、これは?」
スープの入ったお椀を持ってきた母が、包みを見て目を丸くした。父に促されるままひとつ手にとり、そっと匂いを嗅いだ。
「……香ばしくて、良い匂い。甘い匂いがするわ」
「食べてみてください。レノが作ったんです。とても美味しいですよ……私ももうひとつ頂いても?」
父と母は仲良くクッキーを一枚頬張った。父は満足そうにうなずき、母は目を丸くして驚いた。
「本当に? これ、本当にレノが作ったの?」
「うん、ほんとだよ。サロメの家でフライパンを貸してもらって、サロメに手伝ってもらって作ったの」
「まぁ……レノったら。もしかして、料理の才能があるんじゃないかしら!」
興奮する母に問われるがまま、レシピを話す。母はふんふんと聞きながら、テキパキとテーブルの上に夕食を並べていった。私も質問に答えながら自分の椅子に座って、母に配膳してもらうのを待つ。
今日の夕食は豪華だった。キノコと野菜とウインナーが入ったスープと、干し肉と、パンと、果実がテーブルに並んでいる。父のグラスには葡萄酒が入っていた。羨ましい!
しかし何より困惑したのは、茹でたパスタの存在だった。どうやら塩で茹でたパスタをそのまま食べるらしい。パスタソースもなくそのまま食べるのは初めてだったが、予想通り味気がなく、なかなか手を伸ばす気にならない。しかし、母と父は普通にそのまま食べていた。ここではこれが普通なのかもしれない。
私は苦肉の策として、味気の無いパスタを、スープの中に投入した。
「こら! レノ、食事で遊んではダメよ!」
ざざーっと投入した途端、母が私の行為に気付いて、やめさせるために私の手を引いて叱った。だがもう遅い。私の分のパスタはすべてスープの中に入っている。本来ならば硬いパンをスープにつけて少し柔らかくして食べるためにスープの水分は重宝するのだが、今日は干し肉もあるので、パンはなんとかなるだろう。薄い塩味のパスタをもそもそ食べるくらいなら、スープに入れた方がマシだ。
「レノったら! どうしてこんなことしたの!」
父の前の粗相だからだろうか。母はいつもより強く私を叱っていた。父はそれを止めることもなく、ただ面白そうにこちらを眺めていた。私はごめんなさいと適当に謝りつつ、ぱくりとパスタを食べた。……うん、そのまま食べるより全然マシ。塩味が基本なのでいまいちなのには変わりないが、コンソメを入れ忘れたスープパスタみたいなもんだ。出汁を入れ忘れたにゅう麺と言った方が近いか? ショートパスタなので、形は違うが。
「こっちの方が美味しいよ、母さん」
「そういう問題じゃないのよ。食べ物では遊ばないの。わかる?」
「遊んでないよ、美味しく食べたかっただけだもん」
「レノったら……」
三歳児が食器の中身を合体させていたら、そりゃあそういう反応になるよね。私は理解を示してくれない母に理解を示しつつも、まあ全部ちゃんと食べるから許してよっていう気持ちでスープパスタを食べきった。父だけは最後まで興味深そうに私の様子をじっと見つめていたので、なんとなく食べづらかった。




