【第7話】魂の決断と対価
黄金に輝く巨大な『冥府の天秤』が、因果の間の神殿の中で厳かに揺れ動いていた。
天秤の左右に掲げられた皿は、依頼主とターゲットの魂の重みを測るように静かに上下している。その前で、右手をまっすぐに突き出したジンは、冷徹な瞳でエレーナの言葉を待っていた。
ファラリスの雄牛からは、いまもバルドの断末魔のような叫び声が絶え間なく鳴り響いている。その狂気の咆哮を耳にしながらも、エレーナの顔にはもう一片の迷いも残っていなかった。
「私は、……あの男を許しません!」
エレーナの凛とした声が、神殿の空気を震わせた。
「妹の命を理不尽に奪い、保身のために嘘を重ねて私たちを嘲笑ったあの男が、罪を忘れてのうのうと生き続けることなど絶対に認められない。私の寿命の半分を捧げてでも、あいつには永遠の罪を償わせます」
ジンが静かに頷くと、彼の背後にそびえ立つ冥府の天秤が、強い魔力の光を放ち始めた。
「気高き魂の決断は、冥府の天秤が受諾した!」
次の瞬間、エレーナの身体から温かくも眩い、大きな光の球がすうっと浮かび上がった。それは彼女の生命の核心であり、これからの未来を生きるはずだった『寿命の半分』そのものだった。
「あっ……!」
光の球が身体から抜け出た瞬間、エレーナは全身の力がフッと抜けるような奇妙な感覚を覚えた。自身の命の半分が削り取られていくという確かな感覚。しかし、彼女の表情に後悔や恐怖の色はなかった。
ゆっくりと宙を舞った光の球は、ジンの背後にある巨大な冥府の天秤の片側の皿へと、静かに舞い降りた。
光の球が皿の上に乗ったその瞬間、まるで時間が止まったかのような静寂が訪れた。
そして、天秤がゆっくりと、しかし確かな重みを伴って、光の球が乗った側へと大きく傾き始めた。ギギギ……と重々しい音を立てながら、天秤の片側が沈み込んでいく。
コトン……。ゴーン……ゴーン……ゴーン……。
どこからか響く重い鐘の音が、神殿の空間を震わせる。
「対価は支払われ、冥府の天秤は傾いた。これより、永遠の贖罪が執行される!」
ジンの宣告と共に、上空から下りてきた因果の鎖が青銅の牛に絡みつき、強く縛り上げた。
牛の腹の中で焼かれていたバルドは、自身の運命が完全に確定したことを悟り、絶望の叫びを上げた。
「嫌だ!出せ!ここから出してくれえええっ!俺はまだ死にたくない、こんなところで永遠に焼かれるなんて嫌だあああ!」
バルドの悲鳴は、やがて野獣の咆哮のような牛の鳴き声へと変わり、神殿の中に大きくこだました。
「お前に選択権はない。お前を裁くのは復讐者だ!」
天秤の審判が下ったことで、彼の精神はこの因果の間に永遠に囚われ続けることが決定したのだ。現実世界にある彼の肉体は、今この瞬間、二度と意識を取り戻すことのない深い昏睡状態へと落ちているだろう。たとえ現実の肉体が老いて死を迎えたとしても、ここに引きずり込まれた魂がこの地獄の炎から解放されることは永遠にこないのだ。
「アハハッ!これでゴミ屑さんは、ずーっと牛さんの中だね!」
リナが無邪気な笑顔を浮かべて、雄牛の周りをピョンピョンと跳ね回った。そして彼女は、天秤の上で輝く『寿命の半分』の光の球を見つめてよだれを垂らした。
やがて、バルドを閉じ込めたままのファラリスの雄牛が、轟音と共に静かに宙へと浮かび上がり始めた。
「熱い!熱い!誰か助けてくれえええっ!」
絶え間なく悲鳴を上げ続ける青銅の牛は、因果の鎖によってジャラジャラと、神殿のはるか上空へと引き上げられていく。上空には、血のように真っ赤に光る巨大な魔法陣が展開されていた。
雄牛は鎖に引かれ、魔法陣の中心へとゆっくりと吸い込まれていき、最後に一際大きな悲鳴を残して、完全に魔法陣の中へと消えていった。
残った魔法陣も光の粒子となって霧散し、神殿には再び静寂が訪れた。罰を受けるべき悪は、永遠の苦痛の檻へと封じ込められたのだ。
すべてを見届けたジンは、突き出していた右手をゆっくりと下ろし、静かに息を吐いた。
寿命の半分を失ったエレーナは、身体にわずかな虚脱感を覚えていたが、その顔にはかつてないほどの穏やかな表情が浮かんでいた。
「すべて……終わったのですね……」
「ああ。あなたの覚悟と対価によって、あいつは永遠の裁きを受けた。もう、あなたを脅かすものも、妹さんの尊厳を傷つけるものも存在しない」
ジンの言葉に、エレーナの目からあたたかい涙がこぼれ落ちた。権力によって隠蔽され、法に見捨てられた理不尽な絶望から、彼女はついに深い救いを得たのだ。
「ありがとうございます、ジン様。そして、お嬢様も……。私は妹が生きたかったこの世界で、正しく、懸命に、残りの寿命を全ういたします」
エレーナが深く頭を下げると、彼女の足元から小さな光の粒子が立ち昇り始めた。因果の鎖による魂の拘束が解かれ、彼女の精神が現実世界、あのアパートのベッドに眠る肉体へと帰っていくのだ。
「もう会うこともないでしょう。さようなら、お元気で。エレーナさん」
「ばいばーい!長生きしてね!」
ジンとリナが見守る中、涙を流しながら微笑むエレーナの姿は、あたたかい光に包まれ静かに虚空へと溶けていった。
静寂の中、彼女が消えた場所をしばらく眺めていたジンは、深く息を吸い込み、詠唱を唱える。
「冥府の天秤よ、尊き対価を我に!」
その言葉と共に、天秤の皿の上で輝く『寿命の半分』が、ジンの右の手のひらに舞い降り、収縮し小さな光の球となった。
やがて、巨大な黄金の天秤は静かに光を失い、空間に溶けて消えていった。
因果の間に残されたのは、ジン、そしてリナの二人だけとなった。




