第01話 狂犬の狂騒曲 Ep7
無言で立ち上がったハイドの足がもつれたのはほんの一瞬。大きく呼吸をすると直ぐに揺れも消え去り、健常に立ち上がる。
感情は無く、怒りも見えない。
感情は凪いでいて、“意” があまりにも小さい。
なるほど、この男はただ、王を護る近衛。そして、王の意を敷く騎士。
自身の拘りが無いから、恐れもなく、怒りも無い。
ザリ。
ザリ……。
崩れた本棚の残骸を踏み潰し、そして踏み越えながら、静かに一歩、また一歩と近付いてくる。足元から青い光が微かに立ち上がっては解けている。
クロスは剣を構えて集中しながら思考する。
魔法はもはや使えない。
クロスの異世界での戦いは、魔法という技術ありきで構築された戦術であると言っていい。
魔法による強化、魔法による撹乱と攻撃。全てを含めた総合戦術。クロスは魔法に依存せずに戦ってきたつもりだったが、異世界に来て、魔法を奪われて、その依存度の高さに辟易していた。正直両手落ちでは足りないくらいである。
そして、それに加えて。
この男は危険だ。
英雄因子という異常な現象を起こす媒体。
この男のオリジナルの異能。
ルールは開示されず、相手だけが知っているという、非対称。
それだけの有利を持ちながらも、眼前の敵は異能だけに頼っていない。
間違いなく、異能無しでも強い。
今までの戦いで感じたことを整理する。
本来威力をさておき、手数を重視した敵のスタイル。
だが、受けすら困難なほど威力が上がったという異常。
そして、それは初手より次手、さらにその次手と重くなったように感じた。
さらに、自分が吹き飛ばしたはずのハイドが、常識外れの速度で本棚へ叩きつけられたこと。
あれは自分の腕力では説明がつかない。
――確証はない。
いや、確証を持つほど受けるのは危険だ。
攻撃させてはいけない。それだけ整理できれば充分。
クロスは床を蹴って飛び込む。
斬撃。
速度も威力も申し分ない。
だが。
ハイドはそれを待っていたかのようだった。
身を屈めての異常な踏み込みで間合いを潰す。
それは斬撃の完成を挫くもの。
まるで畏れるものなどないかのように、振り下ろされようとする刃の直下に滑り込む。
剣そのものを受けず、かといって避けず。
振り下ろされるはずだった斬撃。クロス右手首を、ハイドの手首で止めた。
刃は受けない。
“攻撃”は成立しない――。
故にこれは、ただの《《手首の衝突》》である。
回転。
捻転。
重心が崩れる。
次の瞬間。
腹部へ蹴りが突き刺さる。
派手な轟音。
クロスの身体が吹き飛んで、今度は逆側よ本棚へ叩きつけられる。
腹部と背骨に衝撃が走り、呼吸が一瞬にして吐き出されて止まりそうになる。
「ガッ――!」
視界が白く染まる。
呼吸ができない。
なんとか立ち上がろうとして。
足が絡れる。
膝が折れる。
再び床へ崩れ落ちた。
「……この威力……やはり…………」
霞む視界のその向こう。
ノーマとハイドが激しくぶつかり合っている。
ようやく理解しかけていた。
この男の攻撃は――
だが。
答えへ辿り着く前に、身動きが取れない。
ダメージが大きすぎる。
ノーマが吠える。
「うおおおおおおっ!!」
ノーマの身体から激しい電撃か溢れ出て、右拳は鋭く雷光を纏う。
獣の爪撃は、空気を裂きながら振り抜かれる。
疾い!!
意の外から放たれた獣の一撃。
黒衣の男は絡め取れないと即座に判断したのか。両腕のスティックを十字に構えて防御姿勢を瞬時に取る。
性急だが、完璧な防御。
対して、その衝撃は凄まじかった。
受けたスティックが悲鳴を上げて軋む。
僅かにたわんだように見えたその後。
男の武器はまるで小枝のように砕け散った。
武器の喪失。
それでもハイドは崩れない。
武器が砕けた勢いすら利用し、獣の一撃を受け、そして流す。
自身の体の、そのギリギリサイドに押し込む。
そして。
押し込んだその流れはそのまま。すぐに次の攻撃の体勢に移行する。
そう。相手は自身のスピードを加えて懐に飛び込んできた。
そして、その距離は。
“必殺” の間合いである。
黒衣の男の身体が静かに沈む。
腰が落ちて重心が沈む。
丹田へ力を、集めるかのような刹那の集中。
クロスの背筋を冷たいものが走った。
だが声が出ない。
身体が動かない。
肺が言うことを聞かない。
ハイドが初めて口を開いた。
「充分だ」
静かな、感情のない冷たい声だった。
腕が、身体が、全身が、引き絞られる。
まるで巨大な投石器のように。
極限まで。
後方へ。
次の瞬間。
解放。
爆発。
音すら置き去りにした突きがノーマへ放たれる。
反応したノーマはギリギリでその一撃を強化した両腕でガードするが、威力が違いすぎた。
爆撃のような音が部屋に響き、インパクトのポイントで撓んだノーマの巨体がミサイルのように飛ぶ。
展示ケースの強化ガラス。
そして後方の壁すらもぶち抜いて、施設の外まで吹き飛んだ。
次々と激しくぶち当たって連続する破砕音。
カーテンのように室内に立ち込める粉塵。
そして崩落。
ノーマは瓦礫の中から立ち上がろうとして、膝が折れて崩れた。
意識を失ったようであった。
――
倒された二人の“ターゲット”は未だ立ち上がれない。
グラザスは満足そうに頷き、そして微笑んだ。
「『警備の二人を倒して欲しい』だったか」
顎を撫でるような仕草で唇へ指を這わせながらグラザスは笑う。
「依頼達成――というところかな?」
静かに踵を返して出口へ向かう。
冷や汗を流しながらも睨め付けるヤマナシを意にも介さず、悠然と。
まるで散歩でもしているような足取りで。
片手を上げて、もはや振り返らずに言う。
「また会おう、ヒーロー」
ノーマは立てず、身体を起こそうとしては失敗している。
「また会おう、救世主」
クロスは呼吸を取り戻す、意識を保つだけで、精一杯である。
黒衣の男は、ついには自分の名前すら告げず、そのまま無言でグラザスの後をゆっくりと従い歩く。
「なに――。すぐだ」
「滅び、歪み、行き詰まる」
「この世界のどこかで――また、いずれ」
静かに地の底を這うような、嫌な笑い声を残しながら、二人の姿はゆっくりと闇へ消えていった。
――――
しばらくして。
クロスがゆっくりと身体を起こした。
「負けた……のか」
苦い声だった。
だが。
呆然としていたヤマナシが正気に戻ったように振り返る。
「いや――それより!」
視線の先。
壁には巨大な穴。
吹き飛ばされた展示ケース。
砕けた強化ガラス。
そして、その中心に本来あったはずのもの。
カルマのグラスが無残に。粉々に砕け散って床へ転がっていた。
ファスクスが膝をつく。
震える手を伸ばす。
「あぁ……そんなぁ……」
涙で濡れて、掠れた声。
「私の……カルマのグラスが……」
ファスクスのその姿にヤマナシは唇を噛んだ。
喪ったものは戻らない。
大災厄すら生き抜いて、そして人の心を動かしてきたカルマのグラスは砕け散ったのだ。
チンピラの悪ふざけの延長の。下劣で理不尽な、逆恨みによって。
いや、その逆恨みを呑み込んだ“営利悪” によって……。
それがグラスに注ぐべき、人の“業” とでも、結ぶには、あまりに皮肉で救いのない話である。
ヤマナシはファスクスに静かに歩み寄って片膝をつき、背中へ手を添える。
「ファスクスさん。大変申し訳ありません」
苦い声だった。
「どうあれ、我々は貴方との契約、美術品護衛任務を達成できなかった」
「なんの慰めにもならないかもしれませんが、当初の条件通り、補償は行います。ただし、今回の補償は第一支部だけでは行えないため、本部を通してからの入金となります。」
ファスクスはしばらく黙っていたが、数秒待つと涙を拭った。
そして、静かに頷いた。
「いえ、仕方ありません」
立ち上がる。
「残念ですが、壊れたものは元には戻りません」
涙を拭った後だというのに、驚くほど早く表情を整えていた。
ヤマナシは胡乱な顔でファスクスを見る。
「ファスクスさん……?」
ファスクスはヤマナシから顔を背け、そして震えながら言う。
「カルマのグラスも失ったことですし、私は明日、この街を離れます」
「補償金の振込先は後ほどお知らせしましょう」
そしてヤマナシの肩に軽く手を置き、微笑んだ。
「長い間の警備、お疲れ様でした」
ヤマナシは数秒沈黙し、胸に去来する何かを消化しようと心みたが。
「……はい」
そう答えるしかなかった。
「分かりました」




