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牙と、狂う潮

早朝、漁師から借り受けた小舟で、二人は沖へと漕ぎ出した。


まだ薄暗い水平線に、朝日の気配だけが滲んでいる。

港を離れるにつれ、波の音が少しずつ大きくなっていった。


「……舟、意外と揺れるね」


「慣れですよ、たぶん」


小舟が波にさらわれるたび、二人の体が大きく傾いだ。

陸の上ならどうということもない揺れが、水の上ではひどく心もとなく感じられる。


「あんたが言うと説得力ない。船なんて乗ったことなさそうだし」


「ないです。実は今日が初めてです」


「今言う?」


軽口を叩き合いながらも、二人とも、櫓を漕ぐ手だけは止めなかった。

港が小さくなっていくにつれ、雑談の余裕も、少しずつ消えていく。



沖合に差しかかった頃、マリンの表情から、完全に軽口が消えた。


「……来る」


静かな、それでいて確信のこもった声だった。


言葉が終わるより先に、海面が大きく盛り上がった。

波を割って現れたのは、想像していたよりもはるかに巨大な影――大海蛇、ネレウス。


うねる胴が陽光を弾き、鋭い顎が舟の方へと向けられる。

全長は、これまで戦ってきたどの魔物よりも長く、その動きは水そのものと一体化しているようだった。


「跳んで!」


健一の声とほぼ同時に、二人は舟を蹴って海面へ飛び出した。

直後、ネレウスの顎が、空になった小舟をあっさりと噛み砕く。


木片が四方に飛び散る音を背に聞きながら、健一は水面に足場代わりの浮力を作り出し、

すかさずネレウスの側面へと斬り込んだ。


「マリンは後方へ! まずは様子見です!」


「分かった!」


指示に従い、マリンが跳躍で距離を取る。

海上でも、跳躍・強化の訓練は無駄になっていなかった。危なげなく、狙った岩場へ着地する。


その隙に、健一は一撃、また一撃と、ネレウスの体表に浅い傷を刻み込んでいった。


だが、陸上の戦いとは、勝手がまるで違った。


足場は絶えず揺れ動き、踏み込むたびに体勢が崩れる。

波と潮流そのものが、まるで敵の一部のように牙を剥いてくる。


健一は健闘していた。剣の間合いも、踏み込みの精度も、これまでの経験で培ったものは裏切らない。

だが。


(潮の流れが、読み切れない……)


陸なら、地面の傾きも、相手の重心も、目で追える。

だが海の上では、次にどこから力がかかるのか、健一自身の感覚では予測しきれなかった。


ネレウスの尾が、大きく弧を描いて振るわれる。

健一はそれを避けようとするが、足元をすくう波に一瞬遅れた。


体勢が、大きく崩れる。


(まずい――)


決定的な一撃が、視界いっぱいに迫った、その瞬間。


「――右!」


マリンの声が、鋭く飛んだ。


考えるより先に、体が動いたような叫びだった。

理由も、理屈もない。ただ、確信だけがそこにあった。


言われるがまま、健一は反射的に身をひねる。


直後、さっきまで健一がいた場所を、巨大な水柱が叩き潰した。


冷たい飛沫が、二人の顔にまで降りかかる。


しばらく、二人とも動けなかった。


その隙を突くように、ネレウスの尾が今度はマリンの方へと薙ぎ払われる。


「マリン、伏せて!」


考えるより先に、健一が割り込んだ。

体で庇うようにマリンの前に出て、剣で尾の一撃を受け流す。

衝撃で腕が痺れ、片膝が海面に沈みかけたが、それでも踏みとどまった。


「大丈夫ですか」


「……あんたの方こそ」


健一の腕から、うっすらと血が滲んでいる。

マリンの顔から、さっと血の気が引いた。


「たいした傷じゃないです。それより、集中してください」


「……うん」


短いやり取りの中に、互いを気遣う気配が滲んでいたが、今はそれを言葉にする余裕もなかった。



荒い呼吸の中、健一が振り返る。


「今の……」


心臓が、まだ激しく鳴っている。

あと一歩遅ければ、健一はあの水柱に巻き込まれていたはずだった。


マリン自身も、戸惑ったように自分の手のひらを見つめていた。


「分かんない。なんか……そこに来る気がした」


その声には、確信と困惑が、半分ずつ混じっていた。


健一は、それ以上聞かなかった。


(……来たか)


内心でだけ、そう呟く。


ずっと鑑定で見えていたものが、今、初めて表に出た。

だが、それを言葉にする余裕は、まだどちらにもなかった。


小さな休息もそこそこに、ネレウスが再び海面下に姿を沈める。

次の一撃のために力を溜めているのが、水の揺らぎだけで分かった。



「マリン、もう一回来ますよ」


「……分かった」


一度目の直感は、偶然かもしれない。

そう思う自分と、確かに何かが見えたという実感が、マリンの中でせめぎ合っていた。


(もう一回、来い)


祈るように、海面を睨みつける。


だが、期待していたほどの明確な予感は、すぐには訪れなかった。

ぼんやりとした違和感のようなものはある。だが、さっきのような確信には届かない。


「……まだ、はっきりしない」


「大丈夫です。今のところは、俺が何とかします」


健一が、剣を構え直しながら言う。

その声に、焦りは滲んでいなかった。


(無理に急かすようなことじゃない。彼女のペースで、いい)


自分にそう言い聞かせながら、健一は再び海面へと視線を戻した。


ネレウスの影が、水面下でゆっくりと旋回している。

次の一撃は、これまでよりも大きく、深いところから来る予感がした。


「健一、腕、本当に大丈夫なの」


「多少しびれてますけど、動きます」


「無理してない?」


「してます。でも、動けないほどじゃないです」


正直な返事に、マリンは一瞬言葉に詰まった。

強がって「平気」と言われるより、よほど信用できる答えだった。


「……分かった。あたしも、ちゃんと見る」


海面から突き出た岩を足場に、マリンは意識を研ぎ澄ませる。

これまでの訓練で培った集中の仕方を、そのまま海の気配に向けてみる。


(何か、来る。……見える、はず)


だが、意識すればするほど、その感覚は逃げていくようだった。

焦りだけが、じわじわと胸の中で膨らんでいく。


「無理に掴もうとしなくていいです」


健一の声が、思考を遮った。


「え?」


「さっきのあれ、狙って出したものじゃないでしょう。だったら、探すより、待つ方が近いと思います」


「……待つ、か」


その言葉に、マリンは肩の力を、少しだけ抜いた。


海面の向こうで、ネレウスの巨体が、再び姿を現す準備を始めている。

水しぶきが、遠くから徐々に近づいてくるのが分かった。


戦いは、まだ終わっていなかった。


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