二人だけの依頼
ギルドの掲示板には、一枚だけ、明らかに他と違う空気をまとった依頼票が貼られていた。
『――沖合海域、大海蛇(推定)討伐。討伐報酬・特級。詳細はギルド職員まで――』
報酬額の桁は、これまで見てきたどの依頼よりも一段高い。
それでいて、票の端はすでに黄ばみ始めていた。長く放置されている証拠だった。
「これ……」
「割に合わない、ってやつだと思います」
依頼票に触れた瞬間、健一のいつもの癖が、また勝手に発動した。
(鑑定で分かる範囲だけ、内心で確認しておくか)
視界の端に浮かぶ情報は、あくまで断片的なものだった。
それでも、おおよその輪郭はつかめる。
規格外の巨躯、水中での圧倒的な機動力、そして、周囲の海流そのものを乱す特殊な性質。
(……厄介そうだけど、今の自分たちなら、たぶんいける)
マリンには、その結果を伝えなかった。
伝えれば、鑑定の存在そのものに話が及びかねない。
周りにいた他の冒険者たちが、ちらちらとこちらを窺っているのに気づく。
装備の整った、見るからにベテランらしい男が、隣を通りすがりに一言だけ残していった。
「……あんたら、まさかそれ受ける気か? やめとけ、命が惜しけりゃ」
「参考にします」
「参考にするだけかよ」
男は呆れたように首を振り、離れていった。
周囲の視線には、無謀を心配する色と、面倒事に関わりたくないという色が、半々に混じっていた。
マリンは、そんな視線に気づいていないふりをして、依頼票をじっと見つめていた。
本当は、少しも気にならないわけではなかった。
それでも、今更引き返す気にはなれない。
むしろ「やめとけ」と言われるたびに、意地のようなものが、静かに固まっていくのを感じていた。
受付で詳細を尋ねると、職員は困ったような顔で説明を始めた。
「Aランク以上の冒険者は、他の依頼で出払っていまして。緊急要請をかけても、到着まで数日はかかるかと」
「その間も、漁には出られないままですか」
「……そうなります」
職員の声には、申し訳なさと、どうしようもなさが、両方滲んでいた。
掲示板に貼られたまま黄ばんでいく依頼票は、そのまま町の疲弊の象徴のようにも見えた。
健一は、しばらく依頼票を見つめたあと、静かに口を開いた。
「俺たち二人で行きます」
職員が、驚いたように目を見開く。
「お二人で、ですか。失礼ですが、ランクを拝見しても……」
言いかけて、職員はふと健一のギルドカードに記載された実績――ワイバーン討伐の記録に目を留めた。
「……この記録、本当ですか」
「本当です」
しばらくの沈黙のあと、職員は渋々といった様子で受注手続きを進め始めた。
「……無理はなさらないでください。無理をしてでも、と考える方が多い依頼なので」
「肝に銘じます」
マリンが、当然のように口を挟んでくる。
「あたしも行く」
「危険です」
「知ってる。でも、行く」
その目に、迷いはなかった。
健一は、少しの間、彼女の顔を見つめた。
父親を奪ったものと同じ種類の何かに、彼女なりのけじめをつけたいのだと、聞かなくても伝わってきた。
「……分かりました。ただし、俺の指示には絶対に従ってください」
「うん」
短い返事だったが、それだけで十分だった。
ギルドを出て、宿に向かう道すがら、マリンは少し先を歩きながら、誰にともなく呟いた。
「父さんを殺したやつと、同じじゃないのは分かってる。でも……」
言葉が、そこで途切れた。
健一は、その先を促さなかった。
言い切れない気持ちがあることくらい、聞かなくても分かったからだ。
「終わったら、串奢ってください」
沈黙を破ったのは、健一の方だった。
マリンが、驚いたように振り返る。
「……こんな時に、それ?」
「こんな時だから、です。終わったあとの楽しみがないと、やってられないので」
マリンは、しばらく健一の顔を見ていたが、やがて小さく笑った。
「この町、串ないんだけど」
「その時は、丸焼きで手を打ちます」
張り詰めていた空気が、少しだけ緩んだ。
出発前、これまでの訓練の総まとめとして、跳躍と連携の最終確認を行った。
海沿いの岩場を使い、足場が不安定な状況を想定した動きを何度も繰り返す。
「合図は、さっきの『右』みたいなやつでいいです。短く、はっきり」
「分かった」
「あと、無理な誘導はしないでください。分からなかったら、分からないって言ってください」
「うん」
素直な返事に、健一は少しだけ意外そうな顔をした。
普段の彼女なら、意地を張って「大丈夫」と言いそうなものだった。
「……今日は素直ですね」
「今日くらいは、ちゃんと聞いとく」
その一言に、彼女なりの緊張と覚悟が滲んでいるのが分かった。
装備を整える段になって、健一が「万が一の時のため」と、大量の携行食を鞄に詰め込み始めた。
干物、保存食、水袋。荷物が明らかに膨れ上がっていく。
「なにこの量、遠征でも行くの?」
「万が一の時のためです」
「絶対食べきれない」
「食べきれなかったら儲けものです」
マリンが、呆れた顔で健一の荷物を見た。
「あんた、そういうとこ本当に保護者だよね」
「否定できないので黙ります」
「素直だ」
夕暮れの港を背に、二人は明日の出撃に備え、早めに宿へ戻った。
窓の外では、まだ動かない漁船が、静かに波に揺られていた。
その夜遅く、健一が寝支度を整えた頃、マリンはまだ窓辺に立って、暗い海を眺めていた。
(父さんも、こんな風に海見てたのかな)
出漁前の晩、父はいつも無口だった。
「明日は良さそうだ」とだけ言って、あとは黙って網の手入れをしていた姿を、今でも覚えている。
その静けさの意味を、当時のマリンはよく分かっていなかった。
(今なら、ちょっとだけ分かる気がする)
怖くないと言えば、嘘になる。
それでも、行かないという選択肢は、最初からマリンの中になかった。
「……マリン、まだ起きてるんですか」
背後から声がかかり、マリンは振り返った。
「もう寝る」
「明日、早いですよ」
「分かってる」
窓を閉め、寝床に入りながら、マリンは小さく呟いた。
「……ねえ」
「はい」
「あたし、ちゃんと役に立てるかな」
珍しく弱気な言葉に、健一は少し考えてから答えた。
「立てなくても、俺がなんとかします。だから、今は寝てください」
「それ、答えになってない」
「なってます。安心して寝る材料としては十分です」
マリンは、それ以上何も言わず、毛布を被った。
すぐには寝付けなかったが、隣の部屋から聞こえる健一の穏やかな寝息が、
思っていたよりずっと、安心材料になっていた。




