潮の乱れと、漁に出れない町
国境を越えて数日、最初にたどり着いた町は、思っていたより大きな港町だった。
――カリュス。
メリスよりも整然とした街並み、大きめの商業ギルド支部、行き交う多国籍な商人たち。
道行く人々の服装も、耳にする言葉の訛りも、これまでとは少し違う。
石畳の広場には露店がずらりと並び、遠くからでも活気が伝わってくる。
織物、香辛料、細工物、見たこともない果物。
呼び込みの声は、これまで聞いたどの町よりも威勢が良かった。
両替商の看板がいくつも並んでいるのも、いかにも商業の町らしい光景だった。
「商業国家、っぽいな……」
健一が、素直に感心した声を漏らした。
「なんか、儲かってそうな町だね」
「率直な感想ですね」
「褒めてるんだけど」
広場を抜け、港の方へ近づくにつれ、二人はある違和感に気づき始めた。
賑わっているのは町の中心部だけで、港に近づくほど、人影も声も減っていく。
だが、港そのものの空気は、街の賑わいとは裏腹に、妙に沈んでいた。
係留されたまま動かない漁船が何隻も並び、魚市場は閑散として、値段の張り紙もない空の屋台が続く。
漁具を手入れするでもなく、ただ座り込んでいる漁師たちの姿が、あちこちに見えた。
「……変な感じ」
マリンが、ぽつりと呟いた。
漁師の娘として育った彼女には、この静けさが普通ではないと、すぐに分かったらしい。
「船が出てないんだよ、この空気」
「動いてないんじゃなくて、動けない、って感じですか」
「うん。……なんか、知ってる空気」
その一言に、健一は何も返さなかった。
彼女の故郷でも、似たような沈黙が漂っていたのだろうと、聞かなくても察しがついた。
桟橋の先まで歩いてみると、繋がれたままの漁船の甲板に、干したままの網が放置されているのが見えた。
魚を入れる木箱は、どれも空のまま積み上げられている。
本来なら威勢のいい掛け声が飛び交っているはずの場所に、今はかもめの鳴き声だけが響いていた。
「……もったいない」
マリンが、小さく呟く。
「船も、網も、腐るほど揃ってるのに。それを使う人間の方が、動けないんじゃ意味ない」
漁師の娘らしい物言いだった。
健一は、その言葉に、妙に納得させられるものを感じた。
宿を取ったあと、健一は主人に何気なく声をかけた。
「港、あんまり動いてないみたいですけど」
宿の主人が、露骨に顔を曇らせる。
「ああ……ここひと月、沖に大きいのが出るようになっちまってな」
「大きいの、ですか」
「出た船のうち、何隻かは戻ってきてない。ギルドに討伐依頼は出てるが、割に合わないってんで、まだ誰も受けちゃいないよ」
淡々とした口調の中に、諦めに近い疲れが滲んでいた。
宿の食堂では、居合わせた漁師たちが、ぽつぽつと話に加わってきた。
「うちの息子の船も、危うくやられかけてな。命は無事だったが、船は半壊だ」
「隣町から助っ人来てもらおうにも、みんな同じ状況らしい」
「このままじゃ、冬前に食い扶持がなくなる」
誰の口調にも、悲愴さより先に、諦めが色濃く滲んでいた。
戦って解決できる問題ではなく、待つしかない問題として、みんなが受け入れてしまっているようだった。
隅の席で黙って酒を舐めていた老漁師が、ぽつりと口を挟んだ。
「……儂の甥っ子も、あれに船ごと持ってかれた」
場の空気が、一瞬だけ静まる。
「討伐依頼、誰も受けないんじゃない。受けられないんだ。Aランクの連中は他所で手一杯、
Bランク以下じゃ、束になっても相手にならん」
「そんなに強いんですか」
「見た者は、そう多くない。生きて帰った者は、もっと少ない」
老漁師は、それだけ言うと、また黙って酒に口をつけた。
その横顔には、諦めと同時に、まだどこかで誰かを待っているような、複雑な色が浮かんでいた。
健一は、その表情を見ながら、内心でそっと呟いた。
(……これは、思ってたより根が深いかもしれない)
隣に立つマリンの表情が、目に見えて強張っていくのが分かった。
甥を失った男の横顔が、いつか見た、父を失った港の大人たちの顔と重なったのだろう。
父親の死を思い出しているのは、聞くまでもなかった。
(半年前の、うちの町と同じだ)
嵐の日、帰らなかった船。港に残された家族の顔。
誰も悪くないのに、誰かがいなくなる。
その理不尽さを、マリンは誰よりもよく知っていた。
拳を握る手に、知らず力がこもっていた。
(今度は、間に合わせたい)
はっきりと言葉にできたわけではない。
それでも、胸の奥で、その思いだけが静かに固まっていくのを、マリン自身が感じていた。
健一は、それ以上マリンに何も聞かなかった。
ただ、彼女の肩に一瞬だけ視線をやり、それから何事もなかったように宿の主人に礼を言う。
「情報、ありがとうございます」
「役に立つ情報でもないだろうが、な」
「いえ、十分です」
宿を出て、二人はひとまずギルドの掲示板へ向かうことにした。
道すがら、健一はこの町の名物を探して屋台を覗き込んでいた。
「せめて串は……」
期待を込めて覗き込んだ屋台には、しかし串らしいものが一本も見当たらない。
並んでいるのは、魚介の丸焼きばかりだった。
「串刺し文化、ない……?」
「串じゃなくても、美味しければいいでしょ」
「串は俺の心の支えなので」
真顔で返す健一に、マリンが呆れたように肩をすくめる。
「その情熱、他に使えないの」
「これはこれで、大事な情熱です」
試しに丸焼きの魚を一匹買ってみると、香ばしい匂いに反して、味付けはあっさりしていた。
「これはこれで、悪くないですね」と健一が呟くと、マリンが少しだけ笑った。
「串じゃなくても平気そうじゃん」
「串があればもっと良かったという話です」
「まだ言うんだ」
とはいえ、目の前の問題はもっと大きい。
串の不在に落ち込む健一の隣で、マリンは黙って、ギルドの建物がある方角を見据えていた。
ギルドの前まで来たところで、マリンが不意に足を止めた。
「……ねえ」
「はい」
「もし依頼、受けるなら。あたしも連れてって」
健一は、少し考えてから頷いた。
「まだ依頼の中身も見てないですけど」
「見なくても分かる。あんたの顔、もう決めてる顔してる」
図星だった。
健一は、苦笑しながら扉に手をかけた。
「否定はしません」
「でしょ」
夕暮れの港には、まだ一隻の船も、漕ぎ出してはいなかった。




