国境と、初めての書類仕事
数日の道のりを経て、街道の先に石造りの関所が見えてきた。
これまで過ごしてきた国とは別の国――オルディーン商邦の領域に入るための検問。
街道の両脇に柵が延び、旗を掲げた詰め所がいくつも並んでいる。
遠目にも分かるほど、行き交う馬車や人の数が多い。
「……なんか、物々しいね」
「国境ってこういうものらしいです。俺も初めてですけど」
「初めてなんだ。もっと色々知ってそうなのに」
「知ってることと経験してることは、別ですから」
近づくにつれ、道端に並ぶ露店の品揃えも、少しずつ変わっていることに気づく。
見慣れない香辛料の匂い、異国の織物、聞いたことのない言葉の呼び込み。
オルディーン商邦の経済圏が、すでにこの国境沿いにまで及んでいるのが分かった。
窓口には、すでに何組かの旅人や商人が列を作っていた。
書類、身分証、ギルドカードの確認、通貨の両替。
「書類、また多いですね」
久しぶりに漏れた健一の定番のぼやきに、マリンが横で小さく笑った。
「それ、なんか懐かしい言い方」
「よく言ってた気がします、前の街でも」
「その街の人にも、同じこと言ってそう」
「ミリアさんですね。言ってました。毎回」
列は長く、進みも遅かった。
順番待ちの間、健一は前後に並ぶ旅人たちを何気なく眺めた。
商人らしき集団、家族連れ、装備を担いだ冒険者風の男たち。
それぞれに国境を越える理由があるのだろうと思うと、なんとなく感慨深いものがあった。
前に並んでいた行商人の荷馬車から、香辛料らしき強い匂いが漂ってくる。
その後ろの家族連れは、幼い子どもが待ちくたびれてぐずり始め、母親が根気強くあやしていた。
誰もが、それぞれの荷物と事情を抱えて、この一本の列に並んでいる。
(考えてみれば、俺たちもその一組なんだよな)
改めてそう思うと、なんとなく不思議な気持ちになった。
数ヶ月前まで見知らぬ他人だった二人が、今は並んで同じ国境を越えようとしている。
順番が来て、健一がギルドカードを差し出す。
検問官が、記載された実績――ワイバーン討伐の記録などに目を通し、一度、二度と読み返した。
「……このランクで、この実績か?」
「聞かれる前提で答えを準備してませんでした」
検問官はしばらく健一の顔とカードを見比べていたが、やがて小さく息を吐いて、次の作業に移った。
続いてマリンの番になる。
彼女が差し出したのは、簡易の身分証だった。国境を越える一般旅行者向けのものらしい。
「同行者、と。関係は?」
「……同行者です」
検問官が、怪訝な顔をした。
「いや、それは分かってるが、その、なんというか」
「言葉のあやです」
健一が横から即答すると、検問官はそれ以上追及せず、書類に何か書き込んで次に回した。
マリンにとっては、生まれて初めて自国を出る瞬間になる。
ゲートをくぐる直前、彼女の足取りが、ほんの少しだけ遅くなった。
「……大丈夫ですか」
「別に。ただ、ちゃんと外に出るの初めてだから」
健一は、それ以上は聞かなかった。
自分自身、この世界に来た時のことを、少しだけ思い出していた。
帰る場所も、戻る手段も、最初から存在しなかったあの感覚。
(帰る場所がない、という意味では、俺の方が先輩かもしれないな)
そんなことを考えながら、健一はマリンの少し後ろを、歩調を合わせて歩いた。
マリンは、振り返って、遠ざかっていく自国の関所を、一度だけ見た。
父の墓も、育った家も、あの国の中にある。
それでも、足を止めなかった。
(戻る理由は、ない。だったら、進むしかない)
自分にそう言い聞かせるように、彼女は前を向き直した。
生まれてから今日まで、故郷の港から出たことは一度もなかった。
魚を獲って、売って、また獲る。父が生きていた頃は、それで十分だと思っていた。
その全部が、たった半年でひっくり返った。
(父さんは、外の世界、見たことあったのかな)
聞いたことはない。今更、答えを知る術もない。
それでも、こうして知らない国の空気を吸っている自分を、もし父が見たら何と言うだろうかと、
柄にもなくそんなことを考えてしまう。
「……マリン、大丈夫ですか」
物思いに沈んでいたところに、健一の声がかかる。
「平気。ちょっと考え事してただけ」
「そうですか」
それ以上は聞いてこない、その距離感が、今のマリンには少しだけありがたかった。
ゲートを抜けると、道の舗装や街並みの雰囲気が、少しずつ変わっていくのが分かった。
石畳の継ぎ目が整い、道端の看板の文字も、心なしか洗練されている。
(商業国家、ってこういう感じか)
そんな感想を抱いたのも束の間、検問所の一角で小さな騒ぎが起きた。
健一のギルドカードを、検問官が別の魔道具――実績照会用のものにかざした瞬間、
装置が小さく警告音を鳴らしたのだ。
「……おい、これ壊れてないか? ランクと実績の数字が全然噛み合ってないんだが」
「壊れてないと思います、たぶん」
「たぶんって……」
訝しむ検問官に、マリンが横から涼しい顔で口を挟んだ。
「壊れてないですよ、それ。この人がおかしいだけです」
「フォローになってないです」
検問官は、なおも装置とカードを見比べていたが、最終的には「まあ、通行に問題はないな」とだけ言って通してくれた。
「……あの装置、俺のことおかしいって認識で処理された気がします」
「間違ってないと思う」
「フォローがないと聞こえるんですが」
マリンは答えず、ただ少し前を歩き始めた。
手続きをすべて終え、正式にオルディーン商邦の領内に足を踏み入れる。
道の先には、これまで見たことのない形の建物が並んでいた。
石造りではなく、木材と煉瓦を組み合わせた、独特の意匠の家々。
遠くに、大きな帆を掲げた船の影も見える。
「海、近いのかな」
「たぶん。この国、商業国家って話でしたし」
「あんた、詳しいの?」
「詳しくはないです。噂で聞いた程度なので」
首都アルカディアの名前は、あえて出さなかった。
今の自分たちが向かうのは、もっと手前の、名もない港町だ。
それで十分だった。
道沿いの露店で、見慣れない果物を売る商人と目が合う。
「旅の方かい、味見していくかい」と気安く声をかけられ、健一はつい足を止めた。
「……これ、何て果物ですか」
「南の方でよく採れる、甘いやつだよ」
一口かじると、思っていたよりずっと濃厚な甘さが口に広がった。
「……美味い」
「でしょう。この国はね、食い物にはうるさいんだよ、みんな」
商人が誇らしげに笑う。
健一は、その言葉に、思わず身を乗り出しかけた。
「食い物にうるさい、ということは……串焼きも、ひょっとして」
「串焼き? さあ、聞いたことないね」
「……そうですか」
肩を落とす健一の隣で、マリンが小さく吹き出した。
「早速それ聞くんだ」
「大事な情報収集です」
「ただの食い意地でしょ」
そんなやり取りをしながら、二人は新しい国の道を、少しずつ先へと進んでいった。
新しい国の風が、二人の間を吹き抜けていった。




