跳躍と、殴られ方
漁港メリスの喧騒が、少しずつ背後に遠ざかっていく。
潮の匂いが薄れ、代わりに土と草の匂いが濃くなってきた頃、健一は隣を歩くマリンを横目に見た。
荷物の背負い方も、歩幅の合わせ方も、この数日でずいぶん様になってきている。
(そろそろ、ちゃんと鍛えた方がいいよな)
ゴドー一家との一件で見えた〈潮読み〉と〈跳躍・強化〉。
あの未開花の才能を、ただ放っておくのは、あまりにもったいない気がしていた。
「マリン、今日から少し、本格的に鍛えましょうか」
「急に?」
「急にでもないです。ずっと考えてはいました」
「なんであたしに才能あるって分かるの」
内心、健一の心臓がわずかに跳ねた。鑑定で見た表示のことは、口が裂けても言えない。
「商会の連中から逃げてた時の動き、素人のそれじゃなかったので」
嘘ではない。全部を言っていないだけだ。
「……ふうん」
マリンは、それ以上は追及してこなかった。
まずは、跳躍・強化の基礎から。
足の運び方、体重の移動、着地の瞬間に力をどこへ逃がすか。
道端の石を使った段差跳びから始め、日を追うごとに段差は高く、間隔は広くなっていく。
「これ、意味あるの?」
「三十回目くらいで分かります。俺はどらさんに、似たようなことを一日三百回やらされました」
「一日で三百?」
マリンが、露骨に顔をしかめた。
(どらさんの修行、今思うとだいぶ理不尽だったな……)
何度も着地に失敗し、膝や肘を擦りむきながらも、マリンは弱音より先に「もう一回」と言う回数の方が多かった。
負けん気の強さは、初対面の頃から変わっていない。
反復を重ねた末、マリンが初めて、まとまった距離をきれいに跳び越えた。
「……できた」
「筋はいいです。センスがあるので」
「センスって言うわりに、鑑定でもしたみたいな断言だね」
「(ぎくり)……勘です、勘」
日が傾く頃にはすっかり調子に乗り、それなりに高さのある岩場によじ登ろうとするマリンを、健一は慌てて止めた。
「その意気込みは買いますけど、段階を踏んでください」
「さっきできたのに」
「さっきの十倍くらい高いです、そこ」
翌日からは、戦闘とサバイバルの基礎に移った。
「まず、構えです。殴られる前提で構えるのが、一番怪我しないコツです」
「なにその後ろ向きな教え方」
「前向きに教えて後ろから怪我するよりマシです」
ワイバーンやゴドー一家との一件で健一自身が体で覚えた感覚を、なるべく言葉にして伝えていく。
相手の重心がどちらに傾いているか、踏み込みの前に視線がどこへ逃げるか。
理屈で説明されると、マリンは思いのほか飲み込みが早かった。
木の枝を使った打ち合いの中で、健一の軽い一撃を、マリンがぎりぎりでかわしてみせる。
「筋がいいですね」
「褒めても何も出ないよ」
「褒めてるだけです。何も要求してません」
「調子乗るとうざい」
「褒めた側から手のひら返された」
意外だったのは、火起こしや水の確保といった生活の知恵の方は、最初からマリンの手際が圧倒的に良かったことだ。
乾いた枝の選び方、火口になる草の種類、風向きの読み方。漁師の娘として育った経験が、思わぬところで役に立っている。
「……その火のおこし方、教わったんですか」
「父さんに。魚焼くのに、下手だと全部台無しになるから」
さらりと出てきた父親の話に、健一は何も言わず、ただ頷いた。
その手つきには、どこか祈るような丁寧さがあった。
火がついた瞬間、マリンの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
毒のある植物と、食べられる野草の見分け方も、簡単なものだけ実物を見せながら伝えていく。
「これ、食べられる?」
マリンが、道端に生えていた葉を摘まんで掲げる。
「(内心こっそり鑑定)……食べられます。ちょっと苦いですけど」
「じゃあ今日の付け合わせ、これで」
「摘みすぎです、それ全部食べる気ですか」
休憩がてら、岩場に腰掛けて海の方を眺めていたとき、マリンがふと呟いた。
「……ねえ、海のこと、何かコツとかないの? 波の読み方とか」
健一は、一瞬答えに詰まった。
(それは……たぶん、俺には教えようがない)
跳躍も戦闘の基礎も、自分が体で覚えてきたことだから、なんとか分解して伝えられる。
だが「海を読む」感覚は、健一自身が持っていない。教え方どころか、そもそもの入り口すら分からない。
「……正直に言うと、それは俺にも分からないです。教えようがない」
「え、めずらしい。あんたが弱気なこと言うの」
「得意なふりして中身がないより、正直に言った方がいいと思うので」
マリンは、それ以上は聞かず、少しだけ意外そうな顔をしていた。
夕方、模擬戦形式で受け身の練習をしていたとき、健一はうっかり手の甲を軽く擦りむいた。
大した傷ではない。だが、マリンが妙に慌てて水筒と布を差し出してきた。
「じっとしてて」
「これくらい平気ですよ」
「いいから」
有無を言わさぬ手つきで手当てをされながら、健一はふと、妙な感覚に襲われた。
(……女の人に、こんな風に世話を焼かれるの、いつぶりだ?)
“縁遠しの呪い”持ちの自覚がある身としては、この手の親切は普段まず向けられない。
(まさか……いや、まさかな……)
一瞬、埃をかぶった期待のようなものが顔を覗かせかけたところで、マリンは手当てを終え、興味なさそうに立ち上がった。
「怪我したまま鍛えられても、こっちが困るから。あんたに倒れられたら、あたし一人じゃ帰り方も分かんないし」
至極実務的な理由だった。
健一は、自分の一瞬の勘違いが、猛烈に恥ずかしくなった。
(そりゃそうだ……)
マリンの側には、健一を異性として意識する気配など、欠片もない。
彼女にとって健一は、生きて帰るために必要な“頼れる大人”であり、それ以上でも以下でもない。
その事実に安堵したような、少しだけ寂しいような、複雑な感情を、健一は誰にも言わずに飲み込んだ。
その夜、焚き火を挟んで座りながら、健一は何気なく振ってみた。
「今日、妙に世話焼いてくれたね」
マリンが、真顔で即答する。
「保護者が死んだら困るからだけど」
「保護者……」
「弟子じゃなくて同行者、だっけ。なら実質、保護者でしょ」
「その理屈、前にも聞いた気がします」
火の爆ぜる音だけが、しばらく二人の間を埋めていた。
「これは基本中の基本です」
火起こしのコツを教えながらそう言った直後、健一は自分も最初は全然できなかったことを思い出し、気まずそうに視線を逸らした。
「今、なんか誤魔化さなかった?」
「(この子も勘がいいな……)気のせいです」
「その顔、絶対気のせいじゃない顔」
「そういう顔、生まれつきです」
言い合いながらも、二人の間に流れる空気は、初めて出会った頃よりずっと柔らかくなっていた。
「明日からは、もう少し実戦に近い動きをやります」
「まだやるんだ」
「休む暇はないです」
マリンが、げんなりした顔をしながらも、荷物の紐を結び直す手は止まらなかった。
夕焼けに染まる街道の先に、二人分の影が、並んで長く伸びていた。




