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目覚めの一撃

海面が、不気味なほど静かになった。


ネレウスが、決着をつけるべく大きく身をよじる。

海全体が、次の一撃のために息を潜めているような、嫌な静けさに包まれていた。


健一は、剣を構え直しながら、次の攻撃の起点を探ろうとする。

だが、荒れる水面と光の反射に紛れて、狙いが定まらない。


(どこから来る……)


腕の痺れは、まだ完全には引いていない。

それでも、退くという選択肢は、最初から二人のどちらの中にもなかった。


その時だった。


マリンの意識の奥で、何かが弾けるような感覚があった。


(怖い。でも――)


父を奪った海を、ずっと憎んでいたわけではなかった。

それでも、正面から向き合うことからは、ずっと目を逸らしてきたのかもしれない。

今、目の前で牙を剥くこの化け物と、逃げずに向き合っている自分がいる。

それだけで、何かが少しずつ変わっていく気がした。


耳の奥で、波の音が急に近くなる。

音というより、感覚そのものが、体の内側から押し寄せてくるようだった。


潮が満ちる方向。水が渦を巻く場所。ネレウスの巨体が、次にどちらへ体重を預けるか。

そのすべてが、まるで最初から知っていたことのように、すとんと腑に落ちていく。


マリンの目の色が、はっきりと変わった。



「……見える」


呟くような、それでいて確信に満ちた声だった。


潮の流れ、うねりの兆し、水面下でうごめくネレウスの次の軌道――

言葉にならなかった感覚が、初めてはっきりとした「像」を結んでいた。


それは、見るというより、感じるという方が近かった。

海そのものが、これから何をしようとしているのか、皮膚を通して流れ込んでくるような感覚。

父の背中を追いかけていた幼い頃、漠然と憧れていたものの正体が、これだったのかもしれない。


そんなことを考える余裕すら、頭のどこか冷静な部分にはあった。


「健一、そこ動いて! 次はそっちが空く!」


迷いのない声だった。

健一は、考えるより先に体を動かしていた。


的確な誘導に従い、死角から一気に踏み込む。

剣先が、ネレウスの急所を正確に捉えた。



咆哮が海面を震わせ、巨体が大きく仰け反る。


だが、まだ終わりではなかった。

致命傷には届かず、ネレウスは怒りに任せるように、なりふり構わぬ突進を仕掛けてくる。


「もう一回、行けます!」


「うん――こっち!」


マリンの声に迷いはなかった。

健一は、彼女の指し示す一点に向かって、迷わず踏み込む。


体の芯まで疲労が滲んでいたが、それでも足は止まらなかった。

剣を握る手に、これまでの全てを込めるように、力を込める。


刃が、深く沈み込む感触があった。


ネレウスの巨体が、大きく痙攣し、力を失ったようにそのまま海中深くへと沈んでいった。


波紋だけが、しばらくの間、海面に広がり続けていた。



静寂が戻る。


荒い息を吐きながら、マリンが自分の手のひらを、じっと見つめていた。


「……今の、なに」


健一は、内心で小さく頷いた。


(……ようやく、来たか)


ずっと前から、鑑定で見えていた〈潮読み〉。

それが、たった今、目を覚ましたのだと分かっていた。


だが、それを言葉にはしなかった。


「才能、開花したんだと思います」


「教えてもいないのに?」


「教えられないところは、自分でどうにかするタイプみたいですね、あなた」


マリンが、まだ実感の湧かない顔のまま、それでも小さく笑った。


「……なんか、疲れた」


「よく頑張りました」


「あんたもね」


崩れ落ちるように岩場に座り込んだマリンの隣に、健一も並んで腰を下ろした。

二人とも、しばらくの間、何も言わずに荒れた息を整えていた。



小舟の代わりに、近くの浅瀬まで泳ぎ、そこから歩いて港へと戻る。


出迎えた漁師たちの間から、次第に歓声が湧き上がった。

沈んでいた港の空気が、一気に色を取り戻していく。


「あんたら、何者だ……」


年配の漁師が、呆然とした声で呟いた。

昨日、食堂で甥の話をしていた、あの老漁師だった。


「通りすがりです」


もう定番になりつつある返しに、マリンが横で小さく吹き出した。


老漁師は、しばらく健一の顔を見つめたあと、深々と頭を下げた。


「……ありがとうよ。もう、駄目かと思ってた」


その一言に、飾らない実感がこもっていた。

港のあちこちで、漁師たちが顔を見合わせ、何十日ぶりかの笑い声を上げ始める。

明日には、この港からまた船が出るのだろう。


宿の主人が飛び出してきて、二人の手を代わる代わる握った。


「今夜は宿代なんかいらん! 好きなだけ飲み食いしていってくれ!」


「……いいんですか」


「いいも何も、こっちが払わせてくれって言ってるんだ」


普段なら遠慮するところだったが、健一は素直に厚意を受け取ることにした。

隣でマリンが、疲れも忘れたような顔で、久しぶりに屈託なく笑っている。

その表情を見られただけで、今日の全部が報われた気がした。


ギルドへの報告と報酬の受け取りを終える頃には、すっかり日が傾いていた。

職員は何度も頭を下げ、規定の報酬に色をつけようとしたが、健一はやんわりとそれを断った。


「規定通りで十分です。あとは、この町の漁が早く元に戻ることを祈ってます」


「……本当に、変わった方ですね」


職員の一言に、健一は曖昧に笑って答えなかった。



その夜、宿の食堂で盛大な祝いの席が用意された。

漁師たちが代わる代わる健一とマリンの席にやってきては、酒や料理を勧めてくる。


「嬢ちゃん、大したもんだ。あの若さでよくやった」


「あたし一人の力じゃないです。健一が――」


「いえ、マリンの手柄ですよ」


健一が横から遮ると、マリンは驚いたようにこちらを見た。


「今日の一番の功労者は、あなたです。俺は、指示に従っただけなので」


「……そんなことないでしょ」


「あります。素直に受け取ってください」


マリンは、それ以上言い返さず、少しだけ照れくさそうに視線を逸らした。

その様子を見ていた漁師たちが、微笑ましそうに囃し立てる。


「いい相棒じゃないか、なあ」


「相棒っていうか、保護者っていうか……」


マリンが小さく呟いた一言に、健一はあえて聞こえないふりをした。



宴もひと段落し、部屋に戻った頃には、夜もすっかり更けていた。


宿の窓から海を見ながら、マリンがぽつりと呟いた。


「父さんも、こういうの、感じてたのかな」


健一は、何も答えなかった。


答えの代わりに、ただ隣に並んで、同じ海を眺めていた。


しばらくの沈黙のあと、マリンが小さく続けた。


「……ありがと。今日、庇ってくれて」


「同行者の役目なので」


「弟子でしょ、それ」


「言葉のあやです」


いつものやり取りに、二人とも小さく笑った。


波の音だけが、静かに部屋の中まで届いていた。

翌朝には、また新しい道が、二人を待っているはずだった。


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