潮の匂いと、追われる少女
坂を下りきったところで、潮の匂いが強くなった。
海だ。
生まれてから今日まで、この世界で一度も見たことのなかった景色が、視界いっぱいに広がる。
水平線、行き交う漁船、荷を積んだ商船。
「……海、あるんだ」
分かりきったことを、思わず口に出していた。
声に出したところで、誰も突っ込んでくれる相手がいないことに、少し遅れて気づく。
門をくぐる直前、ふとシスターの言葉が頭をよぎった。
(……品のいい商売をしてない、か)
まあ、何かあってから考えればいい。
楽観的にそう結論づけて、健一は町へ足を踏み入れた。
港町メリスは、これまで訪れたどの町よりも騒がしかった。
魚市場の呼び込み、荷揚げの掛け声、揚げ物の匂い。
そして、健一の目が真っ先に吸い寄せられたのは――屋台に並ぶ、見慣れない串だった。
「……貝?」「これ、海老か……?」「魚の切り身を、串に……?」
未知の串焼き文明との遭遇に、健一のテンションは正直に跳ね上がった。
「一本ください」
数枚の銅貨と引き換えに、貝の串を受け取る。
一口かじった瞬間、潮の香りと炭の香ばしさが同時に押し寄せてきた。
「……これは、勝ちだ」
誰に向けた勝敗判定なのか、自分でもよく分からなかった。
そんな幸福な時間は、長くは続かなかった。
市場の奥、荷物の山が崩れる派手な音とともに、怒声が響いた。
「待てっ、この餓鬼!」
人だかりを縫うように、小柄な人影が全力で駆けてくる。
健一の目の前を、ぎりぎりですり抜けていった。
「――っと」
一拍遅れて、健一の手にしていた串が地面に落ちた。
串よりも先に、健一の視線は駆け抜けていった少女の背中を追っていた。
年の頃は、三人組より少し下だろうか。
使い込まれた作業着、日に焼けた肌、そして何より、追われ慣れているとしか思えない身のこなし。
彼女は路地に飛び込むと、そこで足を止めた。
行き止まり。積み上げられた木箱が、逃げ道を塞いでいる。
追ってきた男二人が、ゆっくりと距離を詰める。
「大人しく来い。お前の親父の借りだ」
「……知らない。あたしには関係ない」
「関係あるかどうかは、こっちが決めることだ」
男の一人が、少女の腕を掴もうと手を伸ばした瞬間――
「……すみません、通りますよ」
健一が、串を持ったまま、二人の間にするりと入り込んでいた。
「あ?」
「いえ、道を塞がれてると、市場の人たちが困るので」
言いながら、健一は伸びてきた男の腕に軽く触れ、力の流れをずらすように受け流した。
本気で戦うつもりはない。ただ、注意を自分に向けるだけの、最小限の動き。
「てめえ……!」
もう一人が、横から回り込むように健一の肩を掴みにかかる。
だが、その手も、最初の男と同じように、するりと空を切った。
二人がかりで動いて、二人とも空振り。
それだけで、通りすがりの素人ではないということは、十分に伝わったらしい。
「……なんだ、お前」
「通りすがりです」
「通りすがりが首突っ込むな」
「首を突っ込んだというより、通り道に立ってただけです」
言葉の応酬をしながらも、健一の目は油断なく二人の重心を追っていた。
(本気で来るなら、もう一歩……)
いつの間にか、騒ぎに気づいた市場の人だかりが、遠巻きにこちらを窺っていた。
店主の何人かは、すでに衛兵を呼びに走ろうとする素振りを見せている。
男たちの視線が、ちらりとその人だかりへ動いた。
(この人数の中で、これ以上やり合うのはまずい。仕事はただの取り立てで、命を張る依頼じゃない――)
そんな計算が、二人の顔にありありと浮かんでいた。
所詮は雇われの回収屋。捕まえられなかったところで、自分の懐が痛むわけではない。
男たちは、それ以上仕掛けてこなかった。
値踏みするような視線を健一に向けたあと、二人は顔を見合わせる。
「……今日のところは、覚えとけ」
捨て台詞を残して、男たちは人だかりを避けるように、足早にその場を離れていった。
「(覚えとけって、何を……)」
助けられた形になった少女は、しかし健一に向ける目に、警戒しか浮かべていなかった。
「勝手なことしないで」
「え」
「余計ややこしくなる」
それだけ言うと、少女は踵を返し、路地の奥へ走り去っていった。
健一は、しばらくその場に立ち尽くした。
「……なんで怒られたんだ、俺」
誰も答えてくれない問いが、潮風に流れて消えていく。
ふと足元を見ると、さっき落とした串が、地面で無残に割れていた。
串に刺さっていた海老が、二つに転がっている。
「……一番いいやつだったのに」
本気で肩を落とす健一の後ろを、市場の喧騒が何事もなかったように流れていった。




