豪華な馬車
昇格の書類地獄から数日、健一はようやくいつも通りの朝を取り戻していた。
依頼掲示板の前に立ち、片手で串焼きサンドを頬張りながら、もう片方の手で貼り紙をめくる。
平和だ。これでいい。人生、平和が一番だ。
「今日はどれにしようかな……」
呟きながら二枚目の串を頬張ったところで、ギルドの外がふいに騒がしくなった。
「……おい、見ろよあれ」
「馬車?」
窓際の冒険者たちが、ざわざわと外を覗き込み始める。
健一もつられて視線をやった。
正面に停まっていたのは、見たこともないほど豪華な馬車だった。
黒塗りの車体に、金の装飾。側面には見覚えのない紋章が描かれている。
獅子でも竜でもない、翼を広げた鳥と剣を組み合わせたような紋様だ。
「あの紋章、どこの家だ」
「見たことないな……」
「ギルドに何の用だ」
ざわめきが波紋のように広がっていく。
受付のミリアが、いつもの笑顔をわずかに引きつらせながら背筋を正すのが見えた。
「……ケンイチさん、今すぐその串、見えないところに隠した方がいいですよ」
「なんでですか」
「勘です」
健一は串を持ったまま、首をかしげた。
勘、にしては妙に具体的な忠告だった。
二階のマスター室の扉が開き、ガルドが階段の上に姿を現す。
腕を組んだまま、階下の様子をじっと見下ろしていた。
「……マスターまで出てきた」
「珍しいですよね、こんな時間に」
近くにいた冒険者たちが小声で言い合う。
健一は串焼きサンドを持ったまま、成り行きを見守ることにした。
ギルドの扉が、静かに開いた。
まず入ってきたのは、鎧を纏った護衛が二人。
物々しいが、動きに一切の無駄がない。訓練された者たちだとひと目で分かる。
その後ろから、絹の衣に身を包んだ若い女性が現れた。
背筋の伸びた歩き方、迷いのない足取り。
一目で「育ちが違う」と分かる佇まいだった。
ギルド中の視線が、一斉にその女性へ集まる。
誰もが息を潜め、次に何が起こるのかを見守っていた。
女性の視線が、ゆっくりとギルド内を巡る。
受付、掲示板、依頼者たち――そして。
その視線が、ぴたりと止まった。
「あなた……! あの時の!」
声が、まっすぐ健一へ飛んできた。
健一は串を咥えたまま、思わず後ろを振り返った。
自分の後ろに誰かいるのではないかと思ったのだ。誰もいない。
(俺?)
もう一度前を見ると、女性はすでにこちらへ歩き出していた。
迷いのない速足だった。護衛たちが慌てて追従する。
ギルド中の視線が、女性の視線の先――つまり健一に集中する。
「……えっ」
健一の口から漏れたのは、その一言だった。
串を持った手が、行き場を失って中途半端な位置で止まる。
女性が目の前まで来て、まっすぐに健一を見上げた。
瞳が、驚きと喜びで揺れている。
「……本当に、あなたなんですね」
「……えっと」
健一は口の中の串焼きを慌てて飲み込み、居住まいを正そうとした。
が、間に合わず、まだ半分ほど残っていた串が手の中にある。
「食べかけですみません」
我ながら締まらない第一声だった。
ギルド内のどこかから、小さく噴き出す声が聞こえた気がした。
女性は一瞬、きょとんとした顔をしてから、ふっと表情を緩めた。
「……そういうところも、変わっていらっしゃらないのですね」
「知り合いでしたっけ」
「一方的に、ですが」
女性は護衛たちに軽く目配せをしてから、改めて健一に向き直った。
「申し遅れました。私、クローデット・フォン・ラーゼンと申します」
「……はい」
「半年ほど前、街道で魔物に襲われた馬車がありました。覚えていらっしゃいますか」
言われて、健一の記憶がゆっくりと巻き戻る。
――ああ、あれか。
まだこの街に来て間もない頃だ。
街道沿いを歩いていたら、馬車が数体の魔物に囲まれて立ち往生していた。
御者が怪我をして、護衛も数で押されている。
考えるより先に体が動いて、気づいたら魔物を蹴散らしていた。
中の乗客に「大丈夫ですか」と一声かけて、御者の傷に井戸の水――どらさんの結界の井戸で汲んでおいたものを少しかけて、そのまま立ち去った記憶がある。
礼を言われるより先に、次の依頼のことしか考えていなかった気がする。
「……ああ、あの馬車の」
「やっと、思い出していただけました」
クローデットは心底ほっとしたような顔をした。
「あの日助けていただいた馬車に乗っていたのが、私です。名乗る間もなく、あなたはすぐに立ち去ってしまわれて……以来、ずっとお礼を申し上げたいと思っておりました」
「いや、そんな大したことは……普通に困ってたので、手伝っただけです」
「普通、で片付けられることではありません。護衛の報告では、あの群れは並の冒険者では手に負えない規模だったと」
「そうでしたっけ」
「そうでした」
きっぱりと言われて、健一は言葉に詰まった。
正直なところ、あの時のことはあまり深く覚えていない。
困っている人がいて、体が先に動いた。それだけだ。
ギルド内のざわめきが、次第に大きくなっていく。
「おい、聞いたか。ラーゼン家だってよ」
「北の方の伯爵家じゃなかったか」
「なんでそんな家の令嬢が、うちのギルドに……」
「しかも、あの新人に礼を言ってるって……」
囁き声が波のように広がっていく。
健一は居心地の悪さに、こっそり視線を逸らした。
その先――ギルドの柱の陰に、見覚えのある三つの頭がちょこんと並んでいるのが見えた。
「……ロイ、トマ、ニナ」
「気づかれた」
「隠れきれてないですよ、三人とも」
ロイが柱の陰から半分だけ顔を出す。
「い、いや、たまたま通りかかっただけで!」
「たまたま柱の陰から覗いてるんですか」
「そうです」
「開き直りましたね」
ニナはすでに手帳を広げ、猛烈な速さで何かを書きつけていた。
「新情報。健一さん、令嬢と知り合い」
「メモするの早すぎません?」
「重要事項なので」
トマが腕を組んで、感心とも呆れともつかない顔でこちらを見ている。
「ケンイチさん……いつの間に貴族と知り合ってたんですか」
「知り合ってたっていうか、成り行きで」
「その成り行き、いつも規模がおかしいですよね」
反論できなかった。
クローデットは、周囲のざわめきなど気にする様子もなく、健一に向き直った。
「あの節は、名乗ることもできず、本当に失礼をいたしました。せめてお礼をと思い、この街に立ち寄る機会をずっと待っておりました」
「いや、お礼とかは別に……困ってる人を助けただけなので、お気になさらず」
「そう仰るだろうと思っておりました」
クローデットは、なぜか少し嬉しそうに笑った。
「調べさせていただきました。あなたのことは、このギルドで随分と噂になっているようですね。ワイバーンの討伐、査定士も驚く魔石の鑑定眼、そして――」
「そこまでで大丈夫です」
「まだ半分も申しておりませんが」
「察しはつきました」
健一は片手で顔を覆った。
噂の伝達速度がワイバーンより速いという話は本当らしい。
受付のミリアが、そっと近づいてきて頭を下げる。
「ラーゼン様、当ギルドの受付を務めております、ミリアと申します。何かご入用の際は、どうぞ私共に」
「ご丁寧に。ですが、今日はこちらの方に用があって参りましたので」
クローデットの視線が、また健一に戻る。
「もしよろしければ、少しお時間をいただけませんか。改めて、きちんとお礼をさせていただきたいのです」
「今も十分いただいてる気がしますが」
「言葉だけでは足りません」
有無を言わさぬ口調だった。
健一は助けを求めるように、階段の上のガルドを見上げた。
ガルドは腕を組んだまま、わずかに顎を引いた。
――行ってこい、という合図らしい。
「……助けてくれないんですね、マスター」
「貴族の頼みを無下にする理由がない」
「理由なら今考えてます」
「考える前に返事はもう決まってる顔だ」
見透かされていた。
クローデットが振り返り、護衛の一人に短く何かを告げる。
護衛が一礼して、扉の外へ向かった。
「実は、本日はもう一人、あなたにお会いしたいと申している者がおりまして」
「もう一人、ですか」
「はい。あの時のことを聞いて以来、ずっと気にかけている者です」
言い終わるかどうかというところで、ギルドの扉が再び開いた。
外の光を背に、すらりとした人影が入ってくる。
ざわめきが、また一段と大きくなった。
「……あれも、貴族か?」
「今度は男か」
健一は串の最後の一かけらを口に押し込みながら、内心で呟いた。
(なんか今日、平和な一日じゃなくなってきたな……)
女神の声は、まだ聞こえてこなかった。
聞こえてこなかったが、なんとなく、どこかで面白がられている気配だけはした。




