消えた串焼き
翌朝。
宿の快適なベッドの上で、ぱちりと目を開けた。
「……串焼き」
寝起き一番の言葉がそれだった。
昨日、書類という名の強敵に敗れた健一は、固く誓っていた。
今日こそ串焼きを食べる。
絶対に食べる。
何があっても食べる。
宿の窓から差し込む朝日を見ながら、健一はゆっくりと体を起こした。
森での生活なら、朝起きてまず周囲の気配確認。
魔物の足音、風向き、魔力の流れ、罠の状態。
だが町では違う。
朝起きてまず考えることは、串焼きの開店時間である。
「文明ってすごいな……」
少し方向性のおかしい感動を覚えながら、健一は身支度を整えた。
昨日レオンに教えてもらった宿は、さすがにBランクおすすめの宿だった。
ふかふかのベッド、毛布、鍵のかかる扉。
森の砦に比べれば防御力は紙みたいなものだが、町中で屋根があるだけでもありがたい。
いや、森の砦と比べるのが間違っている。
あれは家ではなく、もはや小規模要塞である。
夕食は時間が遅かったため残りのスープと何かの肉の炒め物だったが
十分おいしかった。
それでも串焼きのにおいが鼻に残っている。
「よし」
健一は革袋と冒険者証を確認し、部屋を出た。
目指すは屋台通り。
昨日、香ばしい匂いだけを残して閉まっていた、あの場所だ。
屋台通りに着いた健一は、胸を高鳴らせた。
朝の町は昨日とはまた違う顔をしている。
- 荷車を引く商人
- 井戸端で話すおばさんたち
- 眠そうな顔で歩く冒険者
- 焼きたてのパンを運ぶ少年
- 湯気の立つ鍋をかき混ぜる屋台の店主
人の声と匂いが混ざり合い、町全体が目を覚ましていくようだった。
健一は深く息を吸い込む。
「……肉の匂いが、しない」
そう。
ない。
昨日の夕方、あれほど強烈に鼻を刺激した焼き肉の匂いがない。
代わりに漂っているのは、
- 焼きたてのパン
- 野菜スープ
- 甘い豆の煮物
- 焼いた魚
- そして、包み飯のようなもの
まさに朝の街中のにおい。
健一は屋台を一軒ずつ見て回る。
ない・・ないのだ・・
「すみません、串焼きってありますか?」
最初の屋台のおばさんは、朝から元気な笑顔で答えた。
「串焼き? ああ、肉串なら夕方からだよ」
「夕方」
「朝から脂っこい肉串は重いだろう?」
「重くないです」
即答だった。
おばさんは一瞬きょとんとし、それから笑った。
「若いねえ。でもうちは朝は弁当だけだよ。昼用に買ってくかい?」
「弁当……」
健一は並べられた包みを見た。
葉で包まれた弁当らしきもの。
中身は麦飯、焼いた魚、塩漬け野菜、少しの肉そぼろ。
悪くない。
むしろかなり美味しそうだ。
だが、串に刺さっていない。
串焼きではない。
「串に刺せば……」
「何か言ったかい?」
「いえ、文明の形について考えていました」
「朝から難しいこと考えるねえ」
おばさんは笑いながら弁当を一つ差し出した。
「銅貨八枚だよ」
少し悩んだ。
串焼きではない。
だが腹は減っている。
そして弁当も文明の味である。
「ください」
「まいど!」
弁当を受け取る。
温かい。
手のひらにじんわり伝わる熱が、少しだけ心を慰めてくれる。
だが、串焼きへの未練は消えなかった。
「夕方……夕方か……」
健一は空を見上げる。
朝日はまだ高くない。
夕方まで、長い。
長すぎる。
串焼きが夕方からだと知った健一は
弁当を抱えたまましばらく立ち尽くした。
このまま屋台通りに居座っても、串焼きは夕方まで現れない。
肉を串に刺して焼くという奇跡はお預けである。
「……しょうがない。ギルドに行くか」
今日は町を見て回るつもりだ。
宿、武具屋、道具屋、市場、教会、浴場があるなら浴場。
知りたいものは山ほどある。
特に教会にはこの呪いが解けるのか聞きに行きたい。
だがまずは冒険者として、依頼の種類くらい見ておいた方がいい。
そう考え直し、健一はギルドへ向かう。
朝のギルドは忙しい。
掲示板の前には冒険者たちが集まり、依頼書を眺めている。
受付には順番待ちの列。
酒場の方では、朝から飲んでいる猛者もいた。
「朝から酒……」
健一は思わず呟いた。
「お、昨日の新人じゃねえか」
「ああ、レオンとやったやつか」
「負けたけど妙に余裕だったやつだろ」
「いや、あれは転び方が綺麗だった」
健一は聞こえないふりをした。
転び方の評判が広がっている。
なぜだ。
冒険者ギルドの情報伝達速度は、森の魔物の縄張り情報より速い。
健一はそっと依頼掲示板へ向かった。
掲示板には、ランクごとに依頼書が分けて貼られていた。
まずEランクの欄を見る。
そこには、思ったより生活感のある依頼が並んでいた。
- 薬草採取
- 畑を荒らす角ウサギの討伐
- 下水路の小型スライム掃除
- 商店の荷運び
- 町外れの柵修理補助
- 行方不明の鶏探し
- 老夫婦の薪割り
「冒険者……」
思っていたより、町の便利屋だった。
だが、よく考えれば当然である。
いきなり竜を倒せなどと言われても困る。
いや、健一の場合、竜は知り合いにいる。
しかも訓練相手である。
だからこそ、普通の感覚を学ぶ必要があった。
「角ウサギ……」
健一は依頼書を見つめる。
角の生えたウサギ。
森にも似たようなのはいた。
ただし、健一の知っている個体は体長二メートル近くあり、突進で大木をへし折った。
「角ウサギって、どれくらいの大きさなんだろうな」
隣にいた冒険者が答える。
「普通はこのくらいだな」
両手で犬くらいの大きさを示す。
「小さい」
「小さいって言うな。油断すると足に穴が開くぞ」
「足に穴……」
小さくても危険。
それは森で何度も学んだ。
毒虫。
毒蛇。
謎の胞子。
噛む草。
小さい敵ほど油断できない。
「鶏探しもあるのか」
健一は別の依頼を見る。
報酬は銅貨十枚。
特徴は白い羽、赤いトサカ、やたら逃げ足が速い。
「逃げ足が速い鶏……」
ちょっと気になる。
魔物より鶏の方が捕まえにくい可能性もある。
なぜなら魔物は倒せばいいが、鶏は無傷で捕まえなければならない。
これは高度な任務ではないだろうか。
真顔で悩んでいると、横から声がかかった。
「あの、昨日登録した人ですよね?」
振り向くと、三人組が立っていた。
ぱっと見た感じ、十代前半くらいに見える。
一人目は、大きめの丸盾を背負った少年。
背は三人の中で一番低いが、足腰はしっかりしている。
二人目は、腰に剣を下げた少年。
少し勝ち気そうな目をしていて、髪を後ろで雑に結んでいる。
三人目は、杖を持った少女。
ローブ姿で、眠そうな目をしているが、こちらを観察する視線は鋭い。
盾持ちの少年がぺこりと頭を下げた。
「俺、ロイです。こっちが剣士のトマ」
「よろしく」
剣士の少年が軽く手を上げる。
「で、魔法使いのニナ」
「……よろしくお願いします」
少女は小さく頭を下げた。
健一も慌てて頭を下げる。
「ケンイチです。昨日登録しました」
「知ってます」
ロイが即答した。
「もう知ってるんですか?」
「昨日、レオンさんと模擬戦した新人って、朝から話題になってました」
「早い」
「あと、転び方が綺麗だったって」
「そこまで広がってる!」
頭を抱えた。
転び方の名声って。
剣士のトマがにやっと笑う。
「なあ、本当にレオンさん相手に結構粘ったのか?」
「いや、粘ったというか……必死だったというか……」
「すげえな。俺たちなんか、まだEランクになったばっかでさ」
「えっ、みなさんもEランクなんですか?」
「そうです」
ロイが頷く。
「昨日、ケンイチさんが特例でEになったって聞いて。どんな人かなと思って」
「個人情報・・・・」
ニナがぼそりと言った。
「冒険者は噂で生きてますから」
「嫌な生態ですね」
健一は遠い目をした。
三人は健一の横に並び、掲示板を見上げた。
ロイが指差す。
「俺たちは今日、薬草採取に行く予定です。あと、余裕があれば角ウサギも」
「薬草採取ですか」
「はい。森の浅いところだけですけど」
森。
その単語に、健一は少しだけ反応した。
自分が長く過ごした森とは違うだろう。
だが、森は森だ。
「気をつけてくださいね。森は、静かな時ほど危ないです」
健一が真面目に言うと、三人は少し驚いた顔をした。
トマが腕を組む。
「へえ。なんか経験者っぽいこと言うじゃん」
「一応、森には長くいました」
「どこの森?」
「ええと……かなり奥の方です」
ガルドに詳しく話すなと言われたわけではない。
だが、詳しく話せば面倒になる予感がする。
女神の家。
結界。
どらさん。
古竜。
森狼。
ワイバーン。
どれも初心者同士の雑談に出す単語ではない。
ニナがじっと健一を見る。
「奥の方にいたなら、薬草とか詳しいですか?」
「少しは」
本当は鑑定スキルでかなり分かる。
だが、ここで便利すぎることを言うとまた目立つ。
目立たない。
これは今日の目標である。
昨日の時点でやや手遅れだが、努力は大事だ。
「薬草は、似た毒草があるので気をつけた方がいいです。
葉の裏に薄い紫の筋があるやつは、触るとかぶれます」
「えっ、そうなんですか?」
ロイが驚く。
ニナは小さく頷いた。
「それ、たぶん眠り草の若葉。知らない人は間違える」
「ニナは知ってたのかよ」
トマが目を丸くする。
「いままでもあったでしょ!」
「教えてくれよ!」
「何度もいったわよ!」
「ええええ!?」
三人のやり取りに、健一は思わず笑ってしまった。
年齢は若く見えるが、ちゃんとしたパーティだ。
盾役、前衛、魔法支援。
役割も分かれている。
初々しく互いを信頼している感じがした。
ロイが少し照れたように笑う。
「よかったら、今度一緒に依頼行きませんか? 同じEランクですし」
「えっ」
健一は一瞬迷った。
誰かと依頼。
森で一人だった時間が長かった健一には、少し不思議な響きだった。
だが今日は、町を見て回ると決めている。
常識を学ぶ。
屋台の時間を把握する。
串焼きの店を調査する。
とても重要な任務である。
「今日は町を見て回ろうと思ってるんです。また機会があれば」
「そっか。じゃあまた今度!」
ロイは明るく頷いた。
トマも軽く手を振る。
「今度、剣の話でもしようぜ」
「はい」
ニナは健一をじっと見てから、小さく言った。
「串焼き、夕方です」
「なぜそれを」
「顔に書いてあります」
「顔に!?」
慌てて自分の頬を触った。
もちろん何も書いていない。
トマが笑う。
「じゃあな、串焼きの人」
「名前で呼んでください!」
三人は笑いながら受付へ向かっていった。
そこで会話は終わった。
一緒に依頼へ行くわけでもなく、何か事件が起きるわけでもない。
ただ、町に来て初めてできた、同じ冒険者らしいちょっとした会話だった。
少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
依頼表をもう一度眺める。
薬草採取。
角ウサギ。
鶏探し。
荷運び。
どれも気にはなる。
特に鶏探しは、なぜか強敵の気配がした。
だが、今日は休みと決めていた。
「うん。今日は休もう」
昨日は登録、模擬戦、書類、串焼き敗北。
精神的にはかなり戦った。
それに、町のことを知らなすぎる。
ここはどこなのか。
どこに何があるのか。
物価はどれくらいか。
宿は他にもあるのか。
服や道具は買えるのか。
魔石以外に何を売れるのか。
そして、串焼き屋は何時から開くのか。
最後が一番大事だった。
健一は弁当を抱え直し、ギルドを出る。
朝の光の中、町は賑やかに動き始めていた。
「まずは市場。それから道具屋。できれば武具屋も見たいな」
少し考えて、付け加える。
「あと、串焼き屋の下見」
これは絶対に外せない。
昨日、今日と二度も翻弄されたのだ。
相手はただの屋台ではない。
営業時間という見えない罠を張る、文明の魔物である。
健一は拳を握った。
「夕方には必ず戻る」
その決意を胸に、健一は町の通りへ歩き出した。
背後のギルドでは、ロイたち三人組が受付で依頼を受けている。
ミリアが窓口から健一の背中を見送り、小さく笑った。
「今日は平和に終わるといいですね」
近くにいたレオンが肩をすくめる。
「どうだろうな。あいつ、町を歩くだけで何か拾ってきそうだ」
二階の窓から、ガルドが腕を組み無言で見下ろしていた。




