第9話 ミルクホーンラビットの乳蜜
フィーネの東門を抜けたところで、ルークが街道の先を指さした。
「ミルクホーンラビットがいるのは、この先の草原だ。歩いても行ける距離だけど、今からだと戻ってくる頃には夕方ギリギリになるな」
「それなら、ヴァルに乗っていこうよ」
メルが何気なく言うと、ルークが隣で目を瞬かせた。
「……乗る?」
「うん。ヴァル、大きくなったらみんな乗れるよね?」
「この程度の人数なら問題ない。その方が早いだろう」
ヴァルが答えた直後、その身体を淡い光が包んだ。
柴犬ほどだった身体が一気に膨れ上がり、銀白色の毛並みがメルの視界を埋めていく。
やがて現れたのは、体長3m近い巨大な天月狼だった。
「おお……」
ルークが思わず声を漏らす。
エナも以前に見ているとはいえ、すぐ目の前に立つ災害級魔獣にはまだ緊張するらしく、わずかに身体を強張らせていた。
一方、メルが気になったのは別のところだ。
「やっぱり大きいヴァルも、すっごくもふもふ……!」
銀白色の毛に両手を差し込む。
柴犬サイズの時でも十分柔らかかったが、この大きさになると毛の量がまるで違う。腕どころか顔まで埋められそうだ。
(すごい……これ、ずっと触ってられる……)
「お嬢様。お気持ちは分かりますが、そろそろ出発いたしませんと」
「もうちょっとだけ」
「メル。お前は何をしに来たんだ」
「乳蜜を取りに来たよ。でも、もふもふも大事だから」
契約条件に入れたくらい大事である。
そんなメルを眺めていたルークが、少し離れたところから恐る恐る尋ねた。
「なあ……災害級魔獣って、そんな遠慮なく触っていいものなのか?」
「契約した時に、好きにもふもふしていいって約束したの」
「俺が知ってる魔獣契約とだいぶ違うな……」
ヴァルは諦めたように息を吐くと、周囲に柔らかな風を巻き起こした。
「遊んでいる時間が惜しいのだろう。さっさと行くぞ」
「わっ!」
身体がふわりと浮いた。
ヴァルの毛に埋もれていたメルだけではない。エナとルークも同じ風に包まれ、そのまますっと持ち上げられる。
「お、お嬢様!?」
「ちょっと待て、俺まで――」
次の瞬間には、3人ともヴァルの広い背中に乗せられていた。
「これでいい」
「ヴァル、こんなこともできるの?」
「お前たち程度を持ち上げるくらい造作もない。走っている間も風で支えてやるから、落ちる心配もするな」
「いや、普通は驚くんだよ……」
ルークが呆れたように言った直後、ヴァルが地面を蹴った。
景色が一気に後ろへ流れていく。
かなり速度が出ているはずなのに、身体を叩くような強風は感じない。ヴァルの魔法が3人を包み、背中から落ちないよう支えるだけでなく、走行中の風まで和らげているらしい。
「すごい! 速いのに全然怖くないよ!」
しかも目の前には大量の銀白色の毛がある。
メルが走っている最中も撫でていると、ヴァルの耳がぴくりと動いた。
「移動中くらい大人しくしていろ」
「だって契約した時、何回までって決めなかったもん」
「……その話をまだ覚えていたのか」
前方から呆れた声が返ってくる。
後ろでは、ルークが流れていく景色を眺めながら感心していた。
「馬よりずっと速いな。これでも本気じゃないんだろ?」
「当然だ。本気で走れば、お前たちの身体が耐えられん」
「これで手加減してるのかよ……。一度これを知ったら、普通の移動が馬鹿らしくなりそうだな」
徒歩ならかなり時間がかかるはずだった道のりを、ヴァルはあっという間に駆け抜けた。
◇
東の草原へ到着すると、ヴァルは3人を風で地面へ下ろした。
辺りには腰ほどまで伸びた草が広がり、ところどころに白や黄色の小さな花が咲いている。
「ここから先がギルドの管理区域だ。俺が手続きしてあるから採取して構わないけど、必要以上には取るなよ」
ルークはそう説明しながら、腰につけていた小さな容器を取り出した。
「そういえばルークは、なんで冒険者になったの?」
「急だな。大した理由じゃないぞ。親父も冒険者だったから、子供の頃から憧れてたんだ。気づいたら剣を持ってた」
「じゃあ剣が得意なの?」
「一応な。これでもBランクだから、そこそこ食っていけるくらいには腕もある」
自慢するでもなく笑うところが、なんとなくルークらしい。
そんな彼が今度はメルへ問い返してきた。
「俺も1つ聞いていいか? お前、なんであのパン屋のためにここまでやってるんだ? 親戚ってわけでもないんだろ」
「うん。でもエナが好きなお店なんだって。パンも美味しかったし、なくなったらもったいないでしょ?」
メルとしては、それ以上でもそれ以下でもない。
エナが寂しそうだったし、美味しいものを作る店がなくなるのも嫌だった。
「だから、お客さんが来てくれるお菓子を作ってみたいの」
「……それだけで、思いついたその日にギルドまで来て、素材採りに草原まで来たのか」
「早い方がいいでしょ?」
「行動力あるなぁ、お前」
ルークが呆れ半分、感心半分といった顔で笑った。
「まあ、嫌いじゃないけどな。そういうの」
その時、少し先の草むらが揺れた。
「いたぞ。あれがミルクホーンラビットだ」
ルークが声を潜める。
草の隙間から現れたのは、真っ白な毛に包まれたウサギ型の魔物だった。普通のウサギより一回り以上大きく、額には乳白色の小さな角が生えている。
(かわいい……!)
思わず近づこうとした瞬間、ミルクホーンラビットがこちらを見た。
次の瞬間、猛烈な勢いで逃げていく。
「あっ!」
さらに周囲の草むらが次々と揺れ、隠れていたらしいミルクホーンラビットたちまで一斉に遠ざかっていった。
「ヴァル!」
「俺は何もしていない」
「いるだけで怖がられてるよ!」
災害級魔獣からすれば、ミルクホーンラビットなど比べることすらできないほど格下なのだろう。
どうやら姿を小さくした程度では、本能的な恐怖までは完全に消せないらしい。
「ならば俺が捕まえてこよう」
「ダメだよ。もっと怖がっちゃうでしょ」
困っていると、ルークが笑いながらヴァルの前へ出た。
「ここは俺に任せてくれ。こういう素材採取は、強ければいいってもんじゃないんだ」
ルークは近くに生えている細長い草を何本か摘み取った。
「こいつらはこの草が好物なんだ。警戒心は強いけど大人しい魔物だから、刺激しなければ襲ってこない。風下から近づいて、向こうから寄ってくるのを待つ」
ヴァルには少し離れた場所で待ってもらい、メルとエナもルークの後ろで姿勢を低くする。
ルークは急いで距離を詰めることもなく、草を置いてじっと待った。
しばらくすると、白い耳が草むらから覗く。
1匹のミルクホーンラビットが警戒しながら近づき、ルークの置いた草を食べ始めた。
(こういうのも冒険者の仕事なんだ)
ヴァルなら見つけて捕まえるだけなら一瞬だろう。
けれどルークは魔物の習性を知り、怖がらせずに目的の素材を手に入れようとしている。
「メル。ゆっくり来てみろ。急に触ろうとするなよ」
「うん」
言われた通り、少しずつ近づく。
ミルクホーンラビットは一度こちらを見たものの、逃げずに草を食べ続けていた。
近くで見ると、乳白色の角の先端に小さな雫が浮かんでいる。
「これが乳蜜?」
「ああ。溜まった分が自然に滲み出てくるんだ。角を傷つける必要もないから、こうやって専用の瓶で受ければいい」
ルークに教えてもらいながら、小さな瓶を角の下へ近づける。
とろりとした乳白色の液体が、ゆっくり瓶の中へ落ちてきた。
何匹かから少しずつ分けてもらえば、十分な量になりそうだ。
ところが次の1匹へ移ろうとした時、ヴァルが不意に顔を上げた。
「来るぞ」
直後、草むらから灰色の魔物が飛び出した。
ミルクホーンラビットより遥かに大きく、鋭い牙を持った獣がこちらへ駆けてくる。
メルが驚くより先に、ルークが動いた。
「下がってろ!」
腰の長剣が抜かれ、銀色の軌跡が走る。
飛びかかった魔物の身体をすれ違いざまに斬り抜けると、獣はメルたちへ届くことなく地面へ倒れた。
「……すごい」
剣を振るうところすら、ほとんど見えなかった。
ルークは周囲に別の魔物がいないことを確認してから剣を収め、ヴァルへ顔を向ける。
「気づいてたなら、お前が倒してくれてもよかったんじゃないか?」
「お前で十分だと思った」
「災害級魔獣に実力を見られてると思うと、ものすごくやりづらいな……」
「人間にしては悪くない」
「そりゃどうも」
ルークは苦笑しているが、ヴァルからすればかなり褒めている気がする。
その後は邪魔も入らず、何匹かのミルクホーンラビットから少しずつ乳蜜を分けてもらった。
十分な量が集まったところで、メルは指先にほんの少しだけつけて味を見る。
「……甘い!」
牛乳のようなまろやかさに、蜂蜜を思わせる濃い甘み。
それなのに口の中へいつまでも残るようなしつこさはなく、飲み込むとすっと消えていく。
(これでクリーム作ったら、絶対美味しい!)
「ルーク、ありがとう! これならすっごく美味しいシュークリームが作れそう」
「そりゃ楽しみだ。俺の分、忘れるなよ?」
「ちゃんと作るよ。ルークも試食係になる?」
「報酬なら喜んで食うけど、毎回素材を取りに行かせるならちゃんと依頼料は取るからな」
「うん。それでいいよ」
やっぱり仕事のところはしっかりしている。
でも、それくらいの方がこちらも頼みやすい。
「珍しい素材が必要になったら、ギルドで俺を指名してくれて構わない。予定が合えば引き受けるよ」
「じゃあ、またお願いするね!」
初めて冒険者の知り合いまでできてしまった。
お菓子を作ろうとしただけなのに、少しずつ自分の世界が広がっている気がする。
◇
帰り道も、もちろんヴァルの背中だった。
今度はルークも何も言わず、風の魔法で持ち上げられるのを受け入れている。
「ルーク、歩かなくていいの?」
「一度これを知ったあとに歩いて帰れるか。夕方までかかる道を、こいつならすぐなんだろ?」
「人間はすぐ楽を覚えるな」
「その言葉、行きも帰りもお前の毛を触り続けてるやつに言ってくれ」
指摘されて、ヴァルが背中のメルへ視線だけを向ける。
「……メル」
「これは契約だからいいの」
「便利な言葉にするな」
そんなやり取りを聞きながら、エナも楽しそうに笑っていた。
メルはそこで、今朝の目的を思い出す。
本当なら今日はエナの休日だった。
「エナ。今日はお休みだったのに、結局いっぱい付き合ってもらってごめんね」
「確かに予定していた休日とはずいぶん違ってしまいましたね。ですが、お嬢様と街を歩けましたし、久しぶりに好きなパン屋にも行けました。それに……天月狼に乗って草原へ出かける休日など、きっともう2度とございません」
「望むなら、また乗せてやるぞ」
「……でしたら、2度目もあるかもしれませんね」
エナがヴァルへ自然にそう返したことが、なんだか嬉しかった。
数日前まで、名前を呼ぶだけでも緊張していたのに。
いつの間にか3人で過ごすことが、少しずつ当たり前になってきている。
フィーネへ戻ったあと、メルたちはそのままアルフォード家へ向かった。
ルークも依頼の報酬であるシュークリームを食べるため、一緒についてきている。
工房へ入ると、メルは採ってきたばかりの乳蜜を調理台の中央へ置いた。
エナが隣に立ち、ヴァルはいつものクッションへ向かう。
初めて工房へ入ったルークだけが、興味深そうに室内を見回していた。
「ここで作ってるのか。5歳児の菓子作りにしては本格的だな」
「私のお菓子工房だよ。ルークも食べるなら手伝ってね」
「俺も働くのかよ。まあ、報酬のためならやるけどな」
役者は揃った。
材料もある。
あとは、これをとびっきり美味しいお菓子にするだけだ。
「それじゃあ作ろう! パン屋さんにいっぱいお客さんを呼ぶ、ミルクホーンラビットのシュークリーム!」
寂しくなったあの通りに、もう一度たくさんの人を呼ぶためのお菓子作りが始まった。




