第6話 私のお菓子工房
ヴァルと契約した翌日。
朝食を終えたメルは、オスカーから「少し話がある」と呼び止められた。
「メル。昨日のことについてなんだが……父さんとしては、5歳の娘が災害級魔獣と契約した事実を、まだ完全には受け止めきれていない」
オスカーは疲れたように息を吐き、メルの足元へ視線を落とした。
そこでは柴犬ほどの大きさになったヴァルが、我関せずとばかりに伏せている。
「ただ、ヴァルグレイヴ様がメルと共にいてくださることについて、私から何か申し上げるつもりはないよ。それより、これからもお菓子作りは続けたいんだろう?」
「もちろん! まだ作ってみたいものがいっぱいあるよ」
「そう言うと思った。そこでバルドとも相談したんだが、厨房は毎日、屋敷の食事を作るために使っている。今までは誕生日だったから融通を利かせてもらったが、これから好きな時に使うのは難しいんだ」
言われてみれば当然だった。
前世では自宅の台所を好きな時間に使えたが、この家の厨房はバルドたちの仕事場だ。
(私がお菓子を作ってる横で、何十人分もの夕食を作るのは邪魔だよね)
「だから、メル専用のお菓子作りの部屋を用意しようと思っている。使っていない離れがあるから、そこに厨房設備を入れてもらおう」
「私だけのお菓子を作る場所!? いいの?」
「ああ。必要なものがあれば、エナやバルドと相談して好きなように決めなさい」
「ありがとう、お父さま! 大事に使うね!」
お菓子を好きなだけ作れる、自分だけの場所。
前世でもそんなものは持っていなかった。
(専用のお菓子工房……!)
その響きだけで、作りたいものが次々に浮かんでくる。
「エナ、早く見に行こう! どんなところか見てみたい!」
「かしこまりました。では、ご案内いたしますね」
メルが勢いよく部屋を出ると、当然のようにヴァルもついてくる。
「ヴァルも来るの? まだ何もないと思うよ」
「俺が食う菓子を作る場所になるのだろう。ならば見ておく」
「私のお菓子工房なんだけどなぁ……」
すでに半分くらい自分の場所だと思われている気がする。
そんなヴァルとエナを連れ、メルは屋敷の裏手へ向かった。
案内されたのは、庭の隅に建つ小さな離れだった。
長く物置として使われていたらしく、中には古い家具がいくつか残っている。
「こちらを片づけて、中央に調理台を置く予定だそうです。あちらには焼き窯を入れて、壁際には材料や調理器具を置ける棚も作っていただけるそうですよ」
エナが説明してくれる横で、メルは完成した工房を想像しながら部屋の中を歩き回った。
「じゃあ、材料の棚はこっちがいいな。小麦粉とか蜂蜜とか……これから魔物の材料も増えるかもしれないし、いっぱい置けるようにしたい」
「でしたら、種類ごとに分けられる大きな棚にいたしましょう。ただし、お嬢様がお使いになるものは下の段に置けるよう、職人の方にもお願いしておきますね」
「それ大事! 調理台も私が使いやすい高さがいいな」
「そちらもお願いしておきます。ただ、焼き窯など火を扱う場所だけは通常の高さにして、お使いになる際には必ず私かバルドさんをお呼びくださいませ」
エナが念を押すようにこちらを見る。
メルは素直に頷こうとして、一瞬だけ考えた。
(ちょっと焼くだけなら自分でも……いや、ダメだ。今の身体で火傷したら洒落にならない)
「分かった。火を使う時はちゃんと呼ぶね」
「はい。お嬢様は時折、思い切ったことをなさいますので……そのお返事を信じております」
笑顔なのに、妙な圧がある。
昨夜の森の件はまだバレていないはずなのだが、どうやら5年間一緒にいるエナには自分の性格をかなり把握されているらしい。
ふと見ると、ヴァルが窓際の日当たりのいい場所に伏せていた。
「ヴァル、そこ気に入ったの? じゃあ、大きいクッションでも置いてあげようか」
「必要ない。俺は床で十分だ」
「でも、ふかふかの方が気持ちいいよ。エナ、ヴァルが寝られるくらいの大きいのもお願いしていい?」
「もちろんでございます。せっかくですから、ヴァルグレイヴ様のお身体に合うものを用意していただきましょう」
「……俺の意見は聞かないのか」
聞いた上で採用しなかっただけである。
こうして、メルのお菓子工房作りが始まった。
◇
それから数日後。
完成した工房へ足を踏み入れたメルは、思わず目を輝かせた。
「すごい……! 本当にお菓子を作る場所になってる!」
中央にはメルの背丈に合わせた低めの調理台が置かれ、新しいボウルや泡立て器が綺麗に並んでいる。壁際の大きな棚には小麦粉や蜂蜜、木の実などが種類ごとに収められ、よく使うものはメルでも手が届く下段に置かれていた。
火を扱う設備だけは安全のため大人が使いやすい高さになっている。
そして窓際には、銀白色の毛並みを持つ狼がすっぽり収まりそうな、大きなクッションまで用意されていた。
「ヴァル、ちゃんとヴァルの場所もできてるよ」
「頼んだ覚えはない」
「じゃあ使わない?」
「使わないとは言っていない」
ヴァルはそう言うとクッションの上へ移動し、何度か前足で感触を確かめてから伏せた。
(気に入ってるじゃん)
メルが笑っていると、エナがお茶の入ったポットを持ってくる。
「お嬢様。せっかく工房も完成したことですし、今日は何か作られるのですか?」
「もちろん! 最初のお菓子は、ここを作ってくれたみんなで食べられるものにしたいな」
メルは《しあわせレシピ》を呼び出し、まだ作ったことのないページを眺めていく。
今日は誰かの悩みを解決したいわけではない。新しい工房ができたのだから、みんなで美味しいものを食べたい。それだけだった。
選んだのは、蜂蜜と牛乳をたっぷり使った柔らかなケーキだ。
特別な魔物素材も必要なく、工房に揃えてもらった材料だけで作ることができる。
「エナも一緒に作ろうよ。私1人より、2人で作った方が早いし楽しいと思うの」
「私もご一緒してよろしいのですか? でしたら、お嬢様の助手として精一杯お手伝いいたしますね」
「助手じゃなくて、一緒に作るの!」
「ふふっ。では、そのように」
2人で卵を割り、牛乳と蜂蜜を混ぜていく。
メルが泡立て器を握ったものの、しばらく続けているうちに腕が重くなってきた。
(頭ではできるのに、腕がついてこない……。5歳の身体ってこういうところが不便なんだよね)
「エナ、交代してもらっていい? 腕が疲れちゃった」
「もちろんでございます。あとは私が混ぜますので、お嬢様は次の材料をお願いいたしますね」
エナが慣れた手つきで生地を混ぜ始める。
「エナ、上手だね。最初からお菓子も作れたの?」
「いいえ。お嬢様がお菓子作りを始められてから、私も少しずつ覚えているところです。ですから、このまま何度もお手伝いしていれば、いつか私の方がお上手になるかもしれませんよ?」
「それは困るなぁ。でも、エナが作ったお菓子を私が食べるのも楽しそう」
「まあ。それでしたら、いつか私からお嬢様にお作りしなくてはいけませんね」
そんな話をしながら生地を型へ流し、焼き窯へ入れる。
しばらくすると、工房いっぱいに蜂蜜とバターの甘い香りが広がり始めた。
すると窓際で寝ていたヴァルが、いつの間にか調理台のそばまで来ている。
「まだ焼けないのか?」
「もうちょっと。ヴァル、さっきまで寝てたのに、お菓子の匂いがするとすぐ起きるね」
「当然だ。俺は試食するためにここにいる」
「いつから試食係になったの?」
「今決めた」
あまりに堂々と言われて、メルは笑ってしまった。
その横ではエナも口元に手を添え、楽しそうに笑っている。
焼き上がったケーキを少し冷まし、3人分に切り分ける。
まずエナが一口食べると、柔らかな生地をゆっくり味わってから嬉しそうに頬を緩めた。
「とても美味しいです、お嬢様。蜂蜜の優しい香りがしますし、牛乳のおかげでしょうか、生地もしっとりしていますね。お茶と一緒なら、いくらでもいただけそうです」
「ほんと? じゃあ今度は蜂蜜の種類を変えてみても面白そう。ヴァルはどう?」
尋ねてみると、ヴァルの皿はすでに空になっていた。
「美味かった。もう1つよこせ」
「それだけ? エナはちゃんと色々教えてくれたよ」
「美味いものを美味いと言って何が悪い。それに、もう1つ食いたいと思った時点で十分な感想だろう」
「……それはちょっと分かるかも」
妙に説得力がある。
メルがもう1切れ渡すと、ヴァルは満足そうに食べ始めた。
「ふふっ。でしたら私は細かな感想をお伝えする係で、ヴァルグレイヴ様には、おかわりの数で評価していただくのはいかがでしょう?」
「それいいかも! いっぱい食べたら大成功ってことだね」
「ならば今日は大成功だ。残りも全部よこせ」
「それは食べすぎ!」
メルとエナが揃って笑う。
するとヴァルがエナへ顔を向けた。
「それと、エナ。お前も俺のことはヴァルでいい。毎回ヴァルグレイヴでは長いだろう」
「そ、そのような恐れ多いことは……せめてヴァル様とお呼びしてもよろしいでしょうか?」
「好きにしろ」
「ありがとうございます、ヴァル様」
数日前まで災害級魔獣が庭にいるだけで青ざめていたエナが、今では同じテーブルでお菓子を食べている。
まだ少し緊張しているようだけれど、それでも以前よりずっと自然に話せるようになっていた。
(なんか、いいなぁ)
前世では、仕事から帰ったあと、1人きりの部屋でお菓子を作ることが多かった。
それも好きだったけれど、今は作る途中から一緒に楽しんでくれる人がいて、完成すればすぐに感想を聞くことができる。
「これから新しいお菓子を作ったら、2人に味見してもらうね。エナは細かい感想を教えてくれる係で、ヴァルはどれくらい食べたいか教えてくれる係!」
「はい。喜んでお引き受けいたします」
「俺にも異論はない。むしろ毎日でも構わん」
「毎日は作らないよ?」
自分だけのお菓子工房。
そこで一緒に作ってくれるエナと、誰よりたくさん食べてくれるヴァル。
こうしてメルの新しい日常に、2人の試食係が加わった。




