第5話 災害級魔獣と契約しました
翌朝、メルは廊下を行き交う慌ただしい足音で目を覚ました。
まだ眠い目を擦っていると、部屋の扉が開き、いつになく青ざめたエナが入ってくる。
「お嬢様、起きていらしたのですね。どうか今日は、お部屋から出ないでください」
「おはよう、エナ。何かあったの?」
「庭に、とんでもないお方がいらしているのです。街から兵士の方々まで集まっていますが、決して騒がず、刺激しないようにと……とにかく、窓にも近づかないでくださいませ」
「お方?」
妙な言い方が気になって、メルはベッドから降りた。
「お嬢様、いけません!」
止めようとするエナより先に窓へ近づき、庭を覗き込む。
そこには、昨夜別れたばかりの銀白の巨大な狼がいた。
「あっ、ヴァルだ」
メルが何気なく口にした瞬間、背後で息を呑む音がした。
「……お嬢様?」
振り返ると、エナが目を見開いている。
「今……なんと?」
「ヴァル。あの狼の名前だよ」
「な、なぜお嬢様が、天月狼ヴァルグレイヴ様のお名前を……それも、そのような呼び方で……?」
いつも穏やかなエナが、明らかに動揺している。
メルはそこでようやく、昨夜のことまで話してしまいそうになっていると気づいた。
「えっと……ちょっと待ってて!」
これ以上ここで話すと墓穴を掘りそうだ。
急いで着替えを済ませ、エナと一緒に庭へ向かう。
外にはオスカーや屋敷の護衛だけでなく、フィーネの兵士や騎士まで集まっていた。
それだけの人数がいるにもかかわらず、剣を抜いている者は1人もいない。弓にも矢はつがえられておらず、全員が巨大な狼から十分な距離を取っている。
「天月狼ヴァルグレイヴ様。何か我々にご用命がございましたら、可能な限り対応させていただきます」
兵士たちを率いる男性が深く頭を下げる。
その少し前にはオスカーが立っていたが、普段の穏やかな表情は消え、額には薄く汗が浮かんでいた。
「お前たちに用はない。待っているだけだ」
「承知いたしました。必要なものがございましたら、何なりとお申し付けください」
誰もヴァルを追い払おうとはしない。
むしろ、怒らせないことだけに神経を集中させているように見えた。
「エナ、ヴァルってそんなにすごいの?」
「そんなに、ではございません……」
エナは声を潜めながらも、視線だけはヴァルから外さなかった。
「天月狼ヴァルグレイヴ様は、災害級魔獣です。人が戦ってどうにかできる存在ではございません。もし怒りを買えば、フィーネどころか……国そのものが滅びかねないとされています」
「国が?」
「ですから、決して敵意を向けてはなりません。刺激せず、敬意を払い、お望みがあるなら可能な限り叶える。それが天月狼に遭遇した際の鉄則です」
(ヴァルって、そんなにすごかったんだ……)
昨夜はくそまずいクッキーを美味しそうに食べていたし、家まで送ってくれた。
メルにはどうしても、国を滅ぼすような恐ろしい存在には見えない。
そんなことを考えているうちに、ヴァルの黄金色の瞳がこちらを向いた。
「ようやく起きたか、メル」
「おはよう、ヴァル!」
庭が静まり返った。
兵士たちが目を見開き、騎士たちの視線が一斉にメルへ集まる。
隣にいたエナなど、口を開いたまま固まっていた。
「お、お嬢様……ヴァルグレイヴ様に、そのような……」
「だってヴァルグレイヴって長いんだもん」
エナが何か言おうとして、結局言葉にならないまま口を閉じた。
「……メル」
今度はオスカーが振り返る。
その顔には、父親としての困惑と、子爵としての緊張が半分ずつ浮かんでいた。
「なあに、お父さま?」
「父さんは今、非常に大切なことを聞きたい。なぜ天月狼ヴァルグレイヴ様がお前の名前を知っている?」
「えっと……ちょっと知り合いなの」
「ちょっと知り合いになるようなお方ではないのだが……いつ知り合ったんだ?」
「それは――」
「昨日、森で――」
「ヴァル!」
メルは慌ててヴァルのもとへ駆け寄った。
「お嬢様!?」
エナが悲鳴に近い声を上げる。
メルが災害級魔獣へ一直線に走っていくのだから無理もないが、ヴァルは気にする様子もなく大きな頭を下げた。
「なんだ」
「ちょっと、こっち!」
メルは大きな耳へ顔を近づけ、周囲に聞こえないよう声を潜める。
「昨日のことは内緒にしてほしいの……。1人で出かけたって知られたら、絶対に怒られるから」
「ほう」
ヴァルの黄金色の目が細くなる。
「ならば菓子をよこせ」
「口止め料取るの!?」
「嫌なら続きを話すだけだ」
「作る! 作るから内緒にして!」
「いいだろう」
交渉成立だった。
メルがほっとして振り返ると、オスカーがなんとも言えない顔をしている。
「……メル。何を話したんだ?」
「なんでもないよ?」
「父さんの目を見て言いなさい」
「なんでもないよ?」
「なぜ2回言った」
危ない。
これ以上追及される前に話題を変えよう。
「それでヴァル、どうして来たの?」
「昨日話していた菓子が気になった。シュガースライムで作ると言っていただろう」
「プリンのこと?」
「それだ。食わせろ」
「そのために来たの?」
「悪いか?」
「ううん。じゃあ作ろっか」
メルが当然のように厨房へ向かおうとすると、今度はオスカーが額を押さえた。
「待ってくれ、メル。父さんはまだ何1つ状況を理解できていない」
「ヴァルがプリンを食べたいんだって」
「そこだけは理解した。なぜ天月狼ヴァルグレイヴ様がお前のプリンを食べに我が家へいらしたのかが分からないんだ」
「私も昨日会ったばっかりだから、よく分かんない」
「昨日……?」
オスカーの眉が動いたので、メルは聞こえなかったふりをして厨房へ向かった。
ヴァルも当然のようについてくる。
巨大な身体では屋敷に入れないと思った直後、その全身が淡い光に包まれた。
光が消れると、そこには柴犬ほどの大きさになったヴァルが立っていた。
「何度見てもかわいい……」
「その感想は必要ない。早く作れ」
その姿を見たエナは、再び言葉を失っていた。
国を滅ぼしかねないと教えたばかりの災害級魔獣が、メルの足元を歩いて厨房へ向かっているのだから仕方がない。
厨房ではバルドが緊張しきった顔で待っていた。
メルは昨夜持ち帰ったシュガースライムを取り出し、《しあわせレシピ》を呼び出す。
**《シュガースライムのカスタードプリン》**
**材料(4個分)**
* 卵……2個
* 牛乳……300ml
* 乾燥シュガースライム……50g
* バニラビーンズ……少量
「やっぱり乾燥させないとダメなんだ。これ、時間かかるかなぁ」
「貸せ」
「ヴァル?」
ヴァルがシュガースライムの前に立つ。
柴犬ほどの身体の周囲を風が渦巻いたかと思うと、温かな空気がシュガースライムを包み込んだ。
ほんのわずかな時間で水分が抜け、柔らかかった身体が淡い黄金色の塊へと変わっていく。
「できたぞ」
「早っ!」
「この程度で驚くな」
砕いてみると、さらさらとした粒になる。
メルは指先に少しだけつけて舐めてみた。
(甘い。でも、砂糖とはちょっと違う)
舌に触れた瞬間の甘さは砂糖によく似ている。それなのに奥には蜂蜜を思わせるまろやかなコクがあり、後味は驚くほど軽かった。
(これ、砂糖の代わりっていうより、普通にこっちを使いたくなる味かも)
「メル」
「なに?」
「先に食うな」
「味見だよ!」
ヴァルに急かされながら、卵を溶き、牛乳と砕いたシュガースライムを混ぜていく。
あとはバルドにも手伝ってもらいながら加熱し、器に流してじっくり火を通した。
完成したプリンは表面がつるりとしていて、見た目は前世で作っていたものとほとんど変わらない。
「できたよ、ヴァル!」
十分に冷ましたプリンを皿に出し、まずは自分でも一口食べてみる。
舌の上で柔らかく崩れた瞬間、卵と牛乳の優しい風味が広がった。そこへシュガースライム特有のまろやかな甘さが加わり、普通の砂糖で作るよりもコクがあるのに、後味はすっきりしている。
(美味しい! 前世で作ってたプリンとはちょっと違うけど、こっちも好き!)
ヴァルにも器を置いてやる。
柴犬ほどの姿になった災害級魔獣は、しばらく匂いを嗅いでからプリンを口にした。
「……美味い」
「でしょ! これは私も美味しいよ」
「昨日の菓子も美味かったが、こちらも悪くない」
「私は昨日のはもう食べたくないけどね」
「なら次から俺の分だけ作ればいい」
「また作るの?」
「当然だ」
どうやら、かなり気に入ったらしい。
ヴァルは残ったプリンまで綺麗に食べ終えると、《しあわせレシピ》へ目を向けた。
「その本には、他にも菓子が載っているのか?」
「いっぱいあるよ。私が知らないお菓子もあるし、まだ作れないのもあるけど」
「……そうか」
ヴァルは少し考えるように目を閉じ、それからメルを見上げた。
「メル。俺と契約しろ」
「契約?」
その一言に、厨房の空気が凍りついた。
「……契約?」
入口まで様子を見に来ていたオスカーが、同じ言葉を繰り返した。
エナは両手で口元を押さえ、バルドは持っていた布巾を取り落としている。
「お前が必要とする魔物や素材は、俺が取ってきてやる。危険な場所へ行くなら守ってやろう。その代わり、俺にも菓子を作れ」
「それ、すっごく助かる!」
「メル、待ちなさい!」
思わずオスカーが声を上げる。
「どうしたの?」
「どうしたのではない! ヴァルグレイヴ様が契約を申し出てくださっているんだぞ!?」
「うん。だから、お願いがあるの」
「お願い?」
オスカーの顔が引きつった。
災害級魔獣から契約を持ちかけられた娘が、さらに条件を出そうとしている。
メルはそんな父の様子には気づかず、ヴァルの銀白の毛並みを見つめた。
「ヴァル、私からも1つお願いしていい?」
「なんだ」
「もふもふさせて」
「…………」
「いっぱい」
「……それは契約に必要なのか?」
「すっごく大事だよ」
後ろでエナが小さく「お嬢様……」と呟いた。
オスカーに至っては、もう止める言葉すら見つからないようだった。
「好きにしろ。ただし、尻尾を引っ張るな」
「やった! じゃあ契約する!」
メルが答えた瞬間、ヴァルの身体から銀色の光が溢れた。
光はメルの周囲を柔らかく巡り、やがて胸の奥へ溶けるように消えていく。
静寂が訪れた。
「これで契約は成立だ」
「じゃあ、もう触っていい?」
「……好きにしろ」
許可が出た瞬間、メルは銀白の毛へ両手を入れた。
「ふわぁ……!」
見た目通り、いや、想像していた以上だった。
指が埋もれるほど柔らかく、ふわふわなのに毛の一本一本は滑らかで、ずっと触っていたくなる。
「ヴァル、すっごくもふもふ!」
「分かったから騒ぐな」
「これ、毎日していい?」
「……契約条件に回数までは入れていないぞ」
「じゃあ毎日ね」
「待て。なぜそうなる」
「……旦那様」
エナが呆然としたままオスカーを見る。
「私が見ているものは、夢ではございませんよね?」
「安心しなさい、エナ。私にも同じものが見えている」
「お嬢様が、天月狼ヴァルグレイヴ様を……撫でていらっしゃいます」
「ああ」
「契約も……」
「ああ。したな」
オスカーは両手で顔を覆い、それから深く息を吐いた。
「昨日は、5歳の娘が国でも数えるほどしかいないスキルを授かったと聞かされた」
「はい」
「今日は目を覚ましたら、災害級魔獣が庭にいらした」
「はい……」
「そして今、その災害級魔獣が娘と契約して、娘に撫でられている」
「……はい」
2人は揃って、楽しそうにヴァルをもふもふしているメルを見た。
「お父さま、エナも触ってみる? すっごく気持ちいいよ!」
「いや……父さんは遠慮しておこう」
「わ、私も結構でございます!」
なぜ2人ともそんなに慌てているのだろう。
こんなに気持ちいいのに、もったいない。
5歳の誕生日に、国でも数えるほどしかいないスキルを授かった。
そして、その翌日には、国を滅ぼしかねない災害級魔獣と契約した。
「ヴァル、もうちょっともふもふしていい?」
「……好きにしろ」
どうやら私の2度目の人生は、前世よりずっと賑やかになりそうだった。




