第26話 お父さまとヴァルの背中で
ヴァルが大地を蹴った瞬間、景色が一気に後ろへ流れていった。
「うわっ……!」
背後から聞こえた声に、メルは振り返る。
オスカーは銀白色の毛をしっかり掴みながら、驚いた顔で周囲を見回していた。
「お父さま、大丈夫?」
「ああ、大丈夫だよ。ただ……想像していたよりずっと速くてね」
「これでも遅いぞ。人間を乗せているからな」
「ヴァル、もっと速く走れるもんね!」
「メル。それは父さんが聞きたくなかった情報かな」
ヴァルの身体を包むように風が流れ、背中に乗る3人を支えている。そのおかげで走る速度に反して身体へかかる負担は小さく、メルもエナもすっかり慣れたものだった。
オスカーだけは落ち着かない様子で、時折メルの方を確認している。
「メルは本当に、素材を探しに行った時もこうして移動していたのかい?」
「うん! ヴァルに乗って、いろんなところに行ったよ。山とか、森とか、すっごく深い谷とか!」
「……そうか。父さんが知らない間に、ずいぶん逞しくなったんだね」
オスカーがなんとも複雑そうな顔をする。
けれどメルの興味は、すぐに目の前を流れていく景色へ移った。
フィーネを離れてしばらくすると、見慣れた街並みは完全に消えている。どこまでも続く麦畑の向こうには小さな村が点々と並び、さらに遠くには陽光を反射する大きな湖が見えた。
「あの湖、なに?」
「あれはラーナ湖だよ。ルミエール王国でも大きな湖の1つで、魚がよく獲れるんだ」
「じゃあ、あっちの街は?」
「あれはベルクだね。この辺りで採れた麦が集まる街だよ」
「じゃあ、お菓子に使う小麦粉もいっぱいある?」
「……メルに土地を説明すると、全部お菓子に繋がるんだね」
オスカーが笑う。
メルも笑い返しながら、再び遠くの景色を眺めた。
素材探しの旅でもフィーネから遠く離れた場所へ行ったが、あの時はリリアを助けるための期限があった。目的の素材を手に入れることで頭がいっぱいで、のんびり景色を楽しむ余裕なんてほとんどなかった。
(こうして見ると、本当に知らない場所がいっぱいあるんだなぁ)
前世では写真や映像で世界中の景色を見ることができた。
けれど今は、自分の目で見るもののほとんどが初めてだ。
王都にはどんな街があって、どんな人がいて、どんな食べ物があるのだろう。そう考えるだけで、自然と胸が弾んだ。
◇
昼を少し過ぎた頃、ヴァルが湖の近くにある草原で足を止めた。
人間には休息が必要だと言いながら、自分はまったく疲れた様子がない。エナが持ってきた昼食を広げる間に、メルは大きく伸びをした。
「ずっと乗ってるだけなのに、お腹すいた!」
「お嬢様は朝食もしっかり召し上がっておりましたよ」
「いっぱい移動したから!」
「移動したのは俺だ」
小さくなったヴァルが呆れたように言う。
昼食を食べ終えたあと、メルがおやつ用のクッキーを取り出すと、今度はヴァルがすぐそばまで寄ってきた。
「それは俺の分か?」
「ヴァル、お昼ご飯食べたばっかりでしょ」
「菓子は別だ」
「お菓子は別のお腹なの?」
「そういうことだ」
「ヴァルのお腹、大きいもんね」
「身体の大きさの話ではない」
(甘いものは別腹って、世界が変わっても同じなんだなぁ)
メルが笑いながらクッキーを渡すと、ヴァルは当然のように受け取った。
「エナ。素材探しの旅でも、こんな感じだったのかい?」
少し離れたところで昼食を取っていたオスカーが尋ねる。
「そうでございますね。ただ、あの時はもう少々……刺激的な旅でございました」
「刺激的?」
「谷を跳び越えたり、毒に満ちた場所へ入った程度だ」
「ヴァル様、それは説明を省略しすぎでございます」
「お父さま、死灰の谷ってところに、すっごく綺麗なお花が咲いてたんだよ!」
「そうかい。メルが楽しそうで何よりだけど……父さんとしては、その前半部分を詳しく聞くべきか迷うところだね」
オスカーは困ったように笑ったが、やがてヴァルへ視線を向けた。
メルとエナが食事の片付けを始めると、その声が少しだけ真面目なものへ変わる。
「ヴァルグレイヴ様」
「なんだ」
「改めて、お礼を言わせてください。メルを無事に連れて帰ってきてくださって、ありがとうございました」
ヴァルはクッキーを食べるのをやめ、オスカーを見る。
「契約だからな。こいつに死なれれば、俺が菓子を食えなくなる」
「……そういうことにしておきます」
「人間は余計なことを察するな」
オスカーが小さく笑う。
少し離れた場所からその様子を見ていたメルは首を傾げたが、エナに片付けの続きを促され、すぐにそちらへ戻った。
◇
その日の夕方。
一行は王都まで半日ほどの場所で野営することになった。
素材探しの旅で慣れているメルとエナが準備を進める横で、オスカーは少し意外そうに娘を眺めている。
「お父さま、そっち押さえてて!」
「ああ、ここでいいのかい?」
「うん。エナ、できたよ!」
「ありがとうございます、お嬢様。では、あとは私がいたしますね」
メルは満足そうに頷いたものの、夕食を食べ終える頃には何度もあくびをするようになっていた。
「まだ眠くないもん」
「先ほどから何度も欠伸をしておられますよ」
「これは……ちょっとだけ眠いだけ」
「それを眠いと言うのだ」
「ヴァルは黙ってて」
そう言いながらも、メルはまだ寝るつもりはなかった。
焚き火の向こうにはオスカーがいる。せっかく王都へ行くのだから、聞きたいことがたくさんあった。
「お父さま、王都ってフィーネよりずっと大きいんだよね?」
「ああ。王都セレーネはルミエール王国で一番大きな街だよ。王宮を中心に貴族街や商業区が広がっていて、中央市場には国内だけじゃなく外国から運ばれてきた品も並んでいる」
「外国のお菓子もある?」
「もちろんあると思うよ。王都には大きな菓子店もいくつかあるからね」
眠気が少し飛んだ。
「お菓子だけのお店がいっぱいあるの?」
「フィーネよりは多いね。それに王宮には、王家のために菓子を作る専門の職人もいるよ」
「お菓子だけ作ってる人!?」
メルは思わず身を乗り出した。
この世界へ来てから、パン屋の店主と一緒にお菓子を作ることはあった。それでも、お菓子作りそのものを専門にしている職人とはまだ会ったことがない。
「宮廷菓子職人と呼ばれているね。王族へ出す菓子を任されるくらいだから、腕のいい職人だよ」
「どんなお菓子作るんだろう……。私が知らないのもいっぱいあるかな?」
「王様のことより興味がありそうだね」
「王様に会うのも楽しみだよ! でも、宮廷菓子職人さんのお菓子も食べてみたい!」
どんな材料を使うのか。どうやって作るのか。
《しあわせレシピ》が教えてくれるお菓子とは違う、この世界で長い時間をかけて作られてきたお菓子があるはずだ。
考えているだけで次々と聞きたいことが増えていく。
「お嬢様、続きは王都へ到着してからになさってくださいませ。明日も早いのでございますよ」
「はーい……」
今度こそ眠気には勝てなかった。
メルが毛布へ潜り込むのを確認すると、ヴァルも近くで身体を丸める。
明日には王都。
そう思いながら目を閉じると、眠りに落ちるまでほとんど時間はかからなかった。
◇
翌朝。
再びヴァルの背に乗って出発してから数時間後、森を抜けた一行は小高い丘へ出た。
「メル。見えてきたよ」
オスカーに言われ、メルは前を見る。
遠くに巨大な城壁が広がっていた。
フィーネとは比べものにならないほど長い壁が街全体を囲み、その内側には無数の建物が並んでいる。さらに中心にはひときわ大きな王宮がそびえ、遠くからでもその白い尖塔を見ることができた。
「大きい……!」
思わず身を乗り出しかけると、すぐにエナの手が伸びる。
「お嬢様、危のうございます」
「ごめんなさい。でも、あれが王都?」
「ああ。王都セレーネだよ」
初めて見る巨大な街に、メルはしばらく目を奪われた。
やがて中央にそびえる王宮を見つめながら、昨夜聞いた話を思い出す。
「ねえ、お父さま」
「なんだい?」
「あそこに、宮廷菓子職人さんがいるんだよね?」
「ああ。王宮にいるはずだけど……」
「どんなお菓子作るんだろう!」
「お前は王に会いに来たのではなかったか?」
「王様にも会うよ! でも、お菓子だけ作ってる人に会うの初めてだもん!」
ヴァルが呆れたように鼻を鳴らす。
そんな会話をしている間にも、王都の城壁はどんどん近づいてきた。
そして当然、向こうからも巨大な銀白色の狼が接近しているのが見えている。
城壁の上では兵士たちが慌ただしく動き、門の周囲にも人が集まり始めていた。
「……連絡は届いているんだよね?」
「届いているはずでございます」
「騒がしいな」
「ヴァルが大きいからじゃない?」
「俺のせいにするな」
「ヴァル以外に何があるの?」
やがて門の前まで来ると、待機していた兵士たちが一斉にヴァルを見上げた。
事情を知らされているとはいえ、災害級魔獣を目の前にして平然としていられる人間は少ないらしい。
その中から責任者らしき男性が進み出る。
「て、天月狼ヴァルグレイヴ様……ならびに、アルフォード子爵御一行でお間違いないでしょうか?」
「はい。王宮からの招待を受け、参りました」
オスカーが貴族らしい落ち着いた声で答える。
その横で、メルはヴァルの背中から王都を見上げていた。
初めて見る大きな街。外国からも品物が集まる市場。そして、あの王宮には――。
(宮廷菓子職人さん、どんなお菓子を作るんだろう)
王都で一番最初に気になったのは、やっぱりお菓子のことだった。




