第21話 はじめてのチョコレート
「わぁ……! エナ、見て! 知らないものがいっぱいあるよ!」
「お嬢様、本日の目的はショコラビーンズでございますよ。あちらの商品まで見始めましたら、日が暮れてしまいます」
翌日、メルたちはフィーネでも有数の規模を誇るローデン商会を訪れていた。
広い店内には、色鮮やかな布や見たことのない果物、鼻をくすぐる香辛料などが所狭しと並んでいる。遠方との交易を得意とする商会らしく、フィーネの市場では見かけない商品ばかりだった。
(気になるものだらけだけど、今日はチョコ! まずは魔物よけクッキーを美味しくするのが先だよね)
誘惑されそうになる自分をどうにか抑え、メルはエナとヴァルを連れて店の奥へ進んだ。
事情を伝えると、応対してくれたのは商会主のグレゴール・ローデンだった。40代後半ほどの恰幅のいい男性で、珍しい食材を探していると聞いた途端、商人らしい興味を浮かべている。
「ショコラビーンズでしたら、当商会でも扱っておりますよ。南方から仕入れている品ですが、まさかお嬢様がご存じとは思いませんでした」
「ほんと!? それでチョコレートも作ってるの?」
「ちょこれーと……でございますか?」
グレゴールが不思議そうに聞き返した。
どうやら、その名前には聞き覚えがないらしい。
「ショコラビーンズは香りが強く、非常に苦い実でしてね。こちらでは煎って細かく砕いたものを香辛料へ混ぜたり、薬の材料として使ったりしております。ですが、それを使った菓子というのは……少なくとも私は存じませんな」
「じゃあ、まだチョコレートになってないんだ……」
少し考えてから頼むと、グレゴールは奥から小さな袋を持ってきてくれた。
中に入っているのは、乾燥した焦げ茶色の豆だ。
メルは1粒を手に取って鼻へ近づける。
(この香り、やっぱりカカオっぽい!)
期待しながらほんの少し齧ってみた瞬間、強烈な苦みと渋みが口いっぱいに広がった。
「うぅ……にがい……!」
「貸せ。俺も食ってみよう」
足元にいたヴァルが1粒を口へ放り込み、そのまま何度か噛む。
「悪くないな。香りも強い」
「ヴァルは魔物よけクッキーも美味しいって言うから、こういう時はほんとに参考にならないよ」
「俺の味覚を疑う前に、人間の味覚を疑ったらどうだ?」
「エナ、ヴァルがおかしなこと言ってる」
「申し訳ございません、ヴァル様。今回ばかりは私もお嬢様に賛成でございます」
2対1になり、ヴァルが不満そうに鼻を鳴らす。
とはいえ、探していたものが見つかったのは大きい。
問題はここからだった。
(板チョコを溶かしてお菓子を作ったことなら何度もあるけど、カカオ豆からチョコレートなんて作ったことないんだよね……)
前世でもメルが買っていたのは、すでに加工されたチョコレートだ。さすがに豆から作るところまでは経験がない。
そこで《しあわせレシピ》を呼び出し、ショコラビーンズからチョコレートを作りたいと強く思いながらページを開いてみる。
淡い光とともにページがめくられ、やがて新しい文字が浮かび上がった。
**《ショコラビーンズのミルクチョコレート》**
**材料(約200g分)**
* ショコラビーンズ……100g
* 砂糖……60g
* ミルクホーンラビットの乳蜜……50ml
* バター……20g
「作れる!」
詳しい工程を確認すると、煎ったショコラビーンズの殻を取り除き、中身を細かく砕いて、さらに滑らかになるまですり潰す必要があるらしい。
そこまで読んだところで、メルは自分の小さな手を見る。
(……これ、絶対大変なやつだ)
「細かくすればいいのか?」
いつの間にか横からレシピを覗いていたヴァルが言った。
「うん。それも、すっごく細かくして、滑らかになるくらいまで」
「その程度なら俺がやる。早く作れ」
「ヴァル、チョコ食べたいからって急にやる気出したでしょ?」
「美味いのだろう? ならば早く完成させるのは当然だ」
目的は分かりやすいが、頼もしいことには変わりない。
グレゴールに場所を借り、購入したショコラビーンズを煎って殻を取り除く。そこから先はヴァルの出番だった。
細かな風が豆を包み込み、一気に砕いていく。
「メル、これでいいか?」
「もっと細かく! ざらざらしなくなるくらい!」
「まだやるのか? 菓子というものは、食うまでが随分と面倒だな」
「美味しいものは手間がかかるの!」
ヴァルがさらに風を細く操ると、砕かれたショコラビーンズは見る間に細かくなっていった。
「ヴァル様、すっかりお菓子作りがお上手になられましたね」
「なっていない。俺は砕いているだけだ」
「でも、もう立派なお手伝いだよ」
「余計なことを言うな。さっさと続きを作れ」
メルは笑いながら、滑らかになったショコラビーンズへ砂糖や乳蜜、バターを加えていく。
ゆっくり温めながら混ぜ続けると、ざらついていたものが少しずつ艶を帯び、やがて見覚えのある濃い茶色へ変わっていった。
甘く、それでいて少しほろ苦い香りが広がる。
(これ……絶対チョコだ)
少量を冷ましてから、メルは指先ほどの欠片を口へ入れた。
最初に広がったのは乳蜜のまろやかな甘さだった。その奥からショコラビーンズの濃厚な香りと心地よい苦みが追いかけてきて、舌の上でゆっくり溶けていく。
「……チョコだぁ」
懐かしい。
前世で仕事から帰り、疲れ切った身体でチョコレートを一欠片だけ食べた夜を思い出す。あの頃は、自分を少しだけ元気にするための甘いものだった。
(でも今は、エナにもヴァルにも食べてもらえる。それに、お父さまとお母さま、リリアちゃんにも……作ってあげたい人がいっぱいだ)
同じ味なのに、なんだか前より美味しく感じた。
「エナも食べてみて! すっごく美味しくできたよ!」
「では、少しだけいただきますね」
エナはいつもの穏やかな笑顔で、小さなチョコレートを受け取った。
口へ運び、ゆっくり味わう。
その瞬間だった。
エナの動きが止まった。
「……エナ?」
返事がない。
普段ならメルが作ったお菓子を食べれば、すぐに味や香りについて感想を伝えてくれる。それなのに今日は、口元へ手を添えたまま、じっと残ったチョコレートを見つめている。
「美味しくなかった?」
「……お嬢様。こちらは、本当になんという食べ物なのでございますか?」
「チョコレートだよ。さっきからずっと言ってたでしょ?」
「チョコレート……」
確かめるように名前を繰り返し、エナは残っていた一欠片をもう一度口へ運んだ。
今度はゆっくり目を閉じる。
いつも柔らかな表情を崩さないエナの頬が、見る間に緩んでいった。
「……美味しいですぅ……」
「エナ、今すっごく可愛い顔してる!」
「……っ!」
ぱっと目を開いたエナの頬が赤くなる。
「お、お嬢様。今のはどうかお忘れくださいませ。少々、その……あまりに好みの味でしたので、気が緩んでしまいました」
「なんで? もう一回やって!」
「できません!」
珍しく慌てている。
(エナがこんな反応するの初めて見た。もしかして、今まで作ったお菓子の中で一番好きなのかな?)
試しにもう一欠片取ってみる。
「エナ、もう一個食べる?」
「いえ。お嬢様とヴァル様の分もございますし、私は十分いただきましたので――」
そう答えているのに、視線だけはメルの指先にあるチョコレートを追っている。
右へ動かす。
エナの目も右へ。
左へ動かす。
やっぱり左へ。
「……食べたい?」
「…………少しだけ、いただいてもよろしいでしょうか」
「もちろん!」
差し出すと、今度は少しだけ恥ずかしそうに受け取った。
そして一口。
我慢しようとしているのだろうが、やっぱり頬が緩んでいる。
「えへへ。エナ、チョコ好きなんだね」
「……はい。どうやら私は、こちらに大変弱いようでございます。甘いだけではなく、このほろ苦さと香りが……本当に美味しゅうございますね」
普段のお菓子より明らかに感想が熱い。
メルは嬉しくなった。
「じゃあ今度、エナのためにチョコのお菓子作ってあげる!」
「私のために、でございますか?」
「うん! チョコのお菓子、いっぱいあるんだよ。ケーキとか、クッキーとか、他にもたくさん!」
エナの顔が一瞬だけ輝いた。
けれどすぐに侍女らしい表情へ戻り、丁寧に頭を下げる。
「……楽しみにしております、お嬢様」
(戻った。でも絶対楽しみにしてる)
「そろそろ俺にも食わせろ」
横からヴァルが割り込んできた。
「ヴァルは待って。今、エナがすっごく可愛かったから」
「意味が分からん。菓子が完成したなら食わせろ」
「お嬢様。そちらの分は、私がもう一ついただいても……」
「エナまで!?」
どうやらチョコレートは、想像以上に危険なお菓子だったらしい。
結局ヴァルにも渡すと、一口食べた途端に金色の目が細くなった。
「美味い。メル、もっと作れ」
「ヴァルまで気に入った!」
「当然だ。今までの菓子とは違う味だな。苦みがあるのに、それが邪魔ではない」
「でしょ? だから月避草にも合うと思うんだ!」
そこでメルは、ようやく本来の目的を思い出した。
「あっ! そうだった! 魔物よけクッキー!」
「お嬢様……私もすっかり忘れておりました」
「俺は覚えていた」
「絶対チョコのことしか考えてなかったでしょ!」
グレゴールが楽しそうに笑いながら、完成したチョコレートを眺めている。
「しかし驚きました。あの苦いショコラビーンズが、これほど美味しいものになるとは……。これは商品としても大変面白そうです」
「ショコラビーンズ、また買える?」
「もちろんでございます。南方との取引は定期的にございますので、今後も仕入れておきましょう。これほどの使い道があると分かれば、私としても扱う価値がありますからな」
これでチョコレートをいつでも作れる。
メルは余ったショコラビーンズを受け取ると、エナとヴァルを連れて工房へ戻った。
◇
その日の午後。
焼き上がったクッキーを前に、メルは少し緊張していた。
月避草そのものを減らせば、魔物よけの効果まで弱くなってしまう。だから量はほとんど変えず、細かくした月避草をチョコレートの生地へ混ぜ込んである。
見た目は普通のチョコクッキーだ。
「いただきます」
一口齧る。
サクッとした食感のあと、チョコレートの濃厚な香りが口いっぱいに広がった。月避草の苦みは確かに残っているものの、チョコレートのほろ苦さと重なることで嫌な味ではなくなっている。
最後に僅かな青い香りが抜けるが、それすら木の実の香ばしさに紛れて気にならない。
「……美味しい!」
「本当でございますか? では私も――」
エナがいつもより少しだけ早く手を伸ばした。
「エナ、これ月避草入りだよ?」
「……チョコレートが入っておりますので」
(もう完全に好きになってる!)
エナも一口食べ、満足そうに頷いた。
「これでしたら、普通のお菓子としていただけますね。先ほどのチョコレートだけのものには敵いませんが、とても美味しゅうございます」
「やったぁ! これなら『薬だと思えば』なんて言われないよ!」
翌日、改良された魔物よけクッキーはパン屋の店頭へ並んだ。
ギルドにも販売開始を知らせてもらったため、朝から何人もの冒険者が訪れている。
昨日試供品を食べた冒険者もやって来て、新しくなったクッキーを受け取るなりその場で一口齧った。
「……なんだこれ。普通に美味いぞ」
「ほんと!?」
「昨日のやつとは全然違う。これなら依頼中じゃなくても食いたいくらいだ」
その言葉を聞いた瞬間、メルの顔いっぱいに笑みが広がった。
「よかったぁ!」
効果があるだけじゃない。
ちゃんと美味しいお菓子になった。
それが何より嬉しかった。
「嬢ちゃん、この黒いやつが新しく入ったんだろ? これだけ使った普通の菓子も作れるのか?」
「作れるよ! クッキーもケーキもできるし、飲み物にもできるし、まだまだいっぱいあるよ!」
答えながら、メルの頭には前世で知っていたチョコレート菓子が次々と浮かんでくる。
(ガトーショコラも作りたいし、生チョコもいいな。エナには何を作ってあげよう。リリアちゃんにも食べてもらいたいし、お父さまとお母さまにも――)
「全部作れ」
足元からヴァルの声がした。
「……ヴァル、まだ何も言ってないよ?」
「顔を見れば分かる。どうせ菓子のことを考えていたのだろう」
「そうだけど……全部は大変だよ?」
「手伝ってやる」
「食べたいだけでしょ!」
否定しないヴァルを見て、メルは笑った。
作ってみたいものが、また一つどころか、数え切れないほど増えてしまった。




