第2話 思い出のお菓子
開かれたページには、丸く焼き上げられた小さなクッキーが描かれていた。
表面には砕いた木の実が散らされ、少し焦げた蜂蜜が艶を作っている。見た目は前世でも馴染みのあるクッキーだが、メル自身が作ったことのあるものとは少し違う。
(木の実と蜂蜜かぁ。美味しそうだけど、私は作ったことないやつだ)
ページの上部には、お菓子の名前と材料が並んでいた。
**《木の実と蜂蜜のクッキー》**
**材料(約12個分)**
* 小麦粉……120g
* バター……60g
* 卵……1個
* 蜂蜜……大さじ2
* 木の実……30g
(材料は普通だ。これなら今すぐ作れそう)
しかし、不思議なのはそこではない。
先ほどまでレシピブックには、たくさんのお菓子が載っていた。それなのに両親へ作ろうと思った途端、勝手にページがめくられて、このクッキーが選ばれたのだ。
「メル、どうしたんだ?」
「このクッキーがいいって、本が教えてくれたの」
「本が?」
「うん。お父さまとお母さまのことを考えて開いたら、勝手にここになったの。だから今日はこれを作るね」
オスカーとセシリアは顔を見合わせたが、もちろん2人にも理由は分からないらしい。
「材料はすべてございます。ですが、本当にお嬢様がお作りになるので?」
「作りたい! 分からないところだけ、バルドが教えてくれる?」
「承知しました。ですが火だけは絶対に触らないとお約束ください」
「うん。そこはバルドにお願いするね」
さっそく材料を用意してもらい、メルは腕まくりをする。
まずは柔らかくしたバターに蜂蜜を加え、木べらで混ぜていく。前世では何度もやった作業なので手順そのものに迷いはない。
(ああ、これこれ。久しぶりだなぁ)
バターと蜂蜜が混ざっていく甘い香りに、自然と頬が緩む。
仕事に追われるようになってからは、こうしてゆっくりお菓子を作る時間すら取れなくなっていた。
今は急かす上司もいなければ、鳴り続ける仕事用の電話もない。目の前のお菓子だけを考えていればいい。
それだけのことが、思っていた以上に楽しかった。
「次は卵だね。エナ、取ってくれる?」
「目の前にございますよ?」
「見えてるけど、ちょっと遠いの」
「あら」
エナが笑いながら卵を手渡してくれる。
調理台は大人に合わせた高さなので、踏み台に乗っても奥まで手が届かない。
(5歳ってこういうところが不便だなぁ。頭では普通にできるつもりなのに、身体が全然ついてこない)
卵を加えて混ぜ、ふるった小麦粉を入れる。
そこへバルドに細かく砕いてもらった木の実を加えれば、生地はすぐにまとまった。
「お嬢様、本当に初めてなのですか?」
「初めてだよ?」
「そうは見えませんが……」
「本にちゃんと書いてあるから!」
嘘ではない。
書いてあることに加えて前世の経験まであるだけだ。
メルは生地を小さく丸めようとして、少し考えてから手のひらで潰す。
(大きさはこれくらいかな。焼いたら少し広がるだろうし……って、これを5歳の私が知ってるのは変か)
「バルド、これくらい?」
「ええ。ちょうどよろしいかと」
危ないところはバルドに任せながら、形を整えた生地を窯へ入れてもらう。
しばらくすると、厨房いっぱいにバターと蜂蜜の甘い香りが漂い始めた。
「いい匂い……」
「本当ね。私も食べたくなってきました」
「エナの分もあるよ。一緒に食べようね」
「まあ。ありがとうございます、お嬢様」
やがて焼き上がったクッキーは、レシピブックの絵とほとんど同じ姿になっていた。
縁はこんがりと色づき、表面では蜂蜜が薄く照り、木の実の香ばしい匂いが混ざっている。
(初めてにしては上出来じゃない? いや、レシピが完璧だから当然なのかな)
1つだけ味見したい衝動に駆られたが、最初に食べてもらう相手はもう決めている。
メルは皿にクッキーを並べると、待っていた両親のところへ運んでもらった。
「できたよ! お父さま、お母さま、食べてみて」
オスカーとセシリアの前に、クッキーが1つずつ置かれる。
「これをメルが?」
「バルドとエナにも手伝ってもらったよ。でも、いっぱい混ぜたのは私!」
「それなら、よく味わっていただかないとな」
「ふふっ。そうね」
2人がクッキーを手に取る。
ほとんど同時に一口かじった。
さくり、と軽い音が重なった。
最初に広がるのは、焼けたバターの濃厚な香り。そこへ蜂蜜の優しい甘さが重なり、噛むたびに木の実の香ばしさが追いかけてくる。
メルは感想を待っていたのだが、なぜか2人とも何も言わない。
「……お父さま?」
オスカーは手にしたクッキーを見つめていた。
隣ではセシリアも目を丸くしている。
「あなた……これ」
「ああ。俺も同じことを考えていた」
「どうしたの?」
メルが尋ねると、セシリアがもう一口、小さくかじった。
「懐かしい味がしたの。昔、王都にあったお店のクッキーに、とてもよく似ているわ」
「王都のお店?」
「父さんと母さんが結婚したばかりの頃によく行っていた店だよ。もう随分前に店主が引退して、なくなってしまったんだ」
オスカーの声から、朝食のときにあった刺々しさが消えている。
セシリアもクッキーを眺めながら、どこか懐かしそうに笑っていた。
「覚えてる? 初めて行った日のこと」
「もちろんだ。君が木の実のクッキーを食べたいと言うから、わざわざ馬車を出したんだろう」
「そうでしたね。なのに、お会計のときになって財布を持っていないことに気づいて」
「……その話まで覚えているのか」
「忘れるわけがないでしょう? あれだけ格好をつけて『今日は俺がご馳走する』なんて言っていたのに」
セシリアがくすくすと笑い始める。
「仕方ないだろう。あの日は急いでいたんだ」
「結局、私が払いましたね」
「翌日に返したじゃないか」
「ええ。お菓子をたくさんつけて」
オスカーも堪えきれなくなったように笑った。
朝食では顔を合わせるだけで言い合いになっていた2人が、今は同じ思い出を話しながら笑っている。
(そっか。このクッキー、2人の思い出の味だったんだ)
レシピブックが、どうしてこのお菓子を選んだのか。
少しだけ分かった気がした。
とはいえ、食べただけで何もかも元通りになるほど、夫婦の問題は簡単ではないだろう。
「……セシリア」
先に笑うのをやめたのは、オスカーだった。
「最近、すまなかった。仕事だから仕方ないと思っていたが、それに甘えていたところもあった。今日はもう領主館には戻らない。メルの誕生日くらい、家族で過ごそう」
「ですが、お仕事は?」
「明日でもできるものは明日にする。それと……今夜、少し話さないか。最近はまともに2人で話す時間も取っていなかったからな」
「……ええ。私も、あなたなら言わなくても分かってくれると思って、意地になっていたところがあります。ごめんなさい」
セシリアがそう答えると、オスカーは少し照れくさそうに頷いた。
まだ何かが完全に解決したわけではない。
それでも朝よりずっと柔らかい2人の顔を見れば、メルにはそれで十分だった。
「お父さま、お母さま。お菓子、美味しかった?」
「ああ。とても美味しかったよ」
「ありがとう、メル。私、大好きな味よ」
「よかった! じゃあ、また作ってあげるね」
2人が喜んでくれた。
そのことが、何より嬉しい。
(やっぱりいいなぁ。自分が作ったものを美味しいって言ってもらえるの)
前世でも好きだった、この瞬間。
今度の人生では、もっとたくさん味わえるかもしれない。
そう思うと、次は何を作ろうかと考えずにはいられなかった。
メルは再び《しあわせレシピ》を呼び出すと、わくわくしながらページをめくっていく。
「次は何にしようかな。ケーキも作りたいし、クッキーも――あれ?」
あるページで手が止まった。
そこに描かれているのは、前世でもよく知っている黄色いお菓子だった。
小さな器の中でつるんと固まり、上には艶のあるカラメルがかかっている。
(プリンだ! こっちの世界でも作れるんだ)
思わず嬉しくなったが、その下に並ぶ材料を見て、メルの目が止まった。
**《シュガースライムのカスタードプリン》**
**材料(4個分)**
* 卵……2個
* 牛乳……300ml
* 乾燥シュガースライム……50g
* バニラビーンズ……少量
(……スライム?)
見間違いかと思って、もう一度読む。
お菓子の名前にも、材料にも、しっかりシュガースライムと書かれている。
(プリンにスライム入れるの!? いや、乾燥してるけど!)
レシピをよく見ると、乾燥シュガースライムは細かく砕いて使うらしい。
どうやら砂糖の代わりになる素材のようだ。
(魔物がお菓子の材料になるんだ。じゃあ、他にもこういう材料があるのかな?)
そう考えると、一気に興味が湧いてきた。
前世では絶対に作れなかった、この世界にしかないお菓子。それが《しあわせレシピ》には、まだいくつも載っているのかもしれない。
まずは、このシュガースライムだ。
「ねえ、バルド。乾燥シュガースライムって、どこで買えるの?」
メルは期待を込めて尋ねる。
このときはまだ、新しいお菓子の材料を買いに行くことが、自分にとって初めての冒険につながるなんて思ってもいなかった。




