第1話 5歳でスキルを授かりました
メル・アルフォードが前世の記憶を取り戻したのは、5歳の誕生日を迎えた朝だった。
目を覚ました瞬間、20年以上を生きた記憶が一気に蘇った。
日本で会社員をしていたこと。勤め先がとんでもないブラック企業で、毎日のように残業していたこと。
そんな生活の中で、数少ない楽しみがお菓子作りだった。休日にケーキやクッキーを作り、会社へ持っていっては同僚に配る。美味しいと喜んでもらえる時間が好きだった。
けれど仕事が忙しくなるにつれ、それすらできなくなった。
そして最後は、深夜まで残業して帰宅したあと、ベッドへ倒れ込んで――二度と目を覚まさなかった。
(……そっか。私、あのまま死んだんだ)
まだ20代だった。
自分が一度死んだと理解すれば、さすがに何も感じないわけではない。それでも今は、突然戻ってきた記憶と目の前の状況を理解するだけで精一杯だった。
自分は今、メル・アルフォードという5歳の少女だ。
優しい父と母に育てられた5年間の記憶もちゃんとある。そこへ前世の記憶が加わったらしい。
(これが異世界転生ってやつなのかな。実際に体験してる私が言うのも変だけど……)
小さな手を開いたり閉じたりしながら、窓の外へ目を向ける。
石造りの街並みの向こうを、大きな翼を持つ鳥が飛んでいた。
魔法があって、魔物がいて、剣を持った騎士がいる世界。昨日まで当たり前だった景色なのに、前世を思い出しただけでずいぶん違って見える。
(それにしても……もう会社に行かなくていいんだよね)
そう考えた途端、少しだけ気持ちが軽くなった。
もう大量の仕事に追われることも、深夜まで残業することもない。
何より、自分は5歳なのだ。
(せっかくもう一度生きられるんだし、今度はちゃんと楽しまないともったいないよね)
そんなことを考えていると、寝室の扉が開いた。
「おはようございます、メルお嬢様。5歳のお誕生日、おめでとうございます」
「エナ、おはよう! 今日で5歳だよね」
入ってきたのは、メル付きの侍女を務めるエナだった。
栗色の髪を後ろでひとつにまとめた20代半ばの女性で、少し垂れた目と穏やかな顔立ちをしている。今日はメルの誕生日だからか、いつもの黒い使用人服の胸元には、小さな黄色い花飾りがついていた。
「ふふっ。ずいぶん嬉しそうですね」
「うん。今日はなんだか、すっごくいい日になりそうな気がするの」
「それは何よりです。旦那様と奥様も、食堂でお待ちですよ」
エナに着替えを手伝ってもらいながら、鏡に映った自分を見る。
蜂蜜色の髪は肩まで伸び、若葉色の瞳は前世の自分よりずっと大きい。どう見ても5歳の女の子だ。
(不思議だなぁ。頭の中では大人だった頃のことを普通に考えられるのに、エナと喋ってると昨日までと全然変わらない)
別人になったわけではない。
メルとして生きてきた5年間も、前世で生きた時間も、どちらも自分の記憶として存在している。
なら、無理にどちらかになろうとする必要もないのだろう。
「エナ、早く行こう。お腹空いちゃった」
「廊下は走らないでくださいね」
「分かってるよ。今日は走らない」
「今日は、ですか?」
「……明日のことは明日考える!」
エナが呆れたように笑う。
その顔を見て、メルも自然と笑っていた。
メルが暮らしているのは、ルミエール王国西部に位置するリゼル伯爵領。その中心都市フィーネに屋敷を構えるアルフォード子爵家だ。
大貴族というほどではないが、使用人を何人も雇い、専属の料理人もいる。メルはその家の一人娘として、何不自由なく育てられてきた。
そんな屋敷の食堂へ入ると、父と母がすでに席についていた。
「おはよう、メル。誕生日おめでとう」
「おめでとう、メル。もう5歳なのね」
「ありがとう、お父さま、お母さま!」
父のオスカー・アルフォードは30代半ばで、焦げ茶色の髪を短く整えた穏やかな男性だ。
母のセシリア・アルフォードは父より少し若く、メルと同じ蜂蜜色の長い髪を持つ美しい女性だった。
2人とも大好きな両親だ。
ただ、最近は少し様子がおかしい。
「オスカー。今日は早く戻れるのよね?」
「ああ、そのつもりだ。ただ、領主館から呼ばれれば分からない」
「昨日もそう言って、結局お帰りになったのは私たちが寝たあとでしたけれど」
「仕事なんだから仕方ないだろう。俺だって好きで遅くなっているわけじゃない」
「分かっています。ですから何も言っていないでしょう?」
「いや、その言い方は明らかに怒っているだろう」
(あー……昨日までも仲が悪いなとは思ってたけど、こうして見ると分かりやすいなぁ)
父は仕事が忙しくて余裕がない。
母は帰ってこない父に寂しさや不満を感じている。でも、それを素直に言えないから言葉に棘が混じる。
そして父も責められているように感じて、さらに意地になる。
前世で似たような愚痴を同僚から聞いた覚えがある。
(これ、お互いに嫌いなわけじゃないんだろうけど……このままだと余計に拗れそう)
さすがに5歳の娘が夫婦関係について説教するわけにもいかない。
というより、そんなことをしたら別の意味で大騒ぎになる。
「お父さま、お母さま。今日は喧嘩しないで?」
「……すまない、メル」
「ごめんなさいね。せっかくのお誕生日なのに」
「今日は3人で楽しくしたいな。だって、私のお誕生日だもん」
そう言うと、2人とも気まずそうに顔を見合わせた。
「そうだな。メルの言う通りだ」
「ええ。今日は楽しく過ごしましょう」
ひとまず喧嘩は止まったらしい。
メルも朝食へ戻り、焼きたてのパンを一口かじる。
その香ばしい匂いを感じた瞬間、ふと前世の記憶が蘇った。
小麦粉とバターを混ぜたときの感触。オーブンから漂ってくる甘い香り。そして、出来上がったお菓子を誰かが美味しそうに食べてくれたときの嬉しさ。
(……お菓子、作りたいな)
前世では、最後のほうは仕事に追われてほとんど作れなくなっていた。
でも今なら時間がある。それどころか、この屋敷には専用の厨房まである。
「お母さま、今日、厨房を借りてもいい?」
「厨房を?」
「うん。私、お菓子を作ってみたいの」
両親が揃って目を丸くした。
「メルは料理などしたことがないだろう?」
「だから作ってみたいの。バルドにも一緒にいてもらうから、危ないことはしないよ」
「まあ。急にどうしたの?」
「お菓子が食べたくなったの。でも、せっかくだから自分で作ってみたい!」
前世のことを説明するわけにはいかない。
それでも、久しぶりにお菓子を作れると思うだけで胸が弾んだ。
セシリアはそんな娘をしばらく見つめてから、柔らかく微笑む。
「バルドの言うことをちゃんと聞くなら、私は構いませんよ」
「本当? ありがとう、お母さま!」
「父さんとしては少し心配なんだが……」
「お父さまにも作ってあげるよ?」
「……バルドから離れないと約束できるか?」
「できる!」
父からも許可をもらい、朝食を終えるとすぐに厨房へ向かった。
料理長のバルドは40代の大柄な男性で、短く刈った黒髪と太い腕、少し怖そうな顔が特徴だ。だが、メルが生まれる前からアルフォード家に仕えており、一人娘であるメルにはかなり甘い。
「お菓子を作りたい、ですか?」
「うん。バルド、厨房貸して?」
「火と刃物には私が触れる。それでよろしければ」
「ありがとう!」
許可をもらったメルは、さっそく調理台の前へ立った。
小麦粉、卵、バター、蜂蜜。
厨房にある材料を眺めているだけで、前世のお菓子作りの記憶が次々と蘇ってくる。
(クッキーなら簡単かな。いや、せっかくだからケーキも作ってみたい。でも、この世界の窯でちゃんと焼けるのかな)
あれこれ考えているうちに、重大な問題に気づいた。
(……私、レシピの分量まで覚えてないじゃん)
作り方ならある程度覚えている。
けれど小麦粉が何グラムで、バターが何グラムだったかとなると自信がない。
趣味で作っていただけなのだから、当然といえば当然だった。
「お菓子の本があったらいいのになぁ」
そう呟いた瞬間、目の前に淡い光が集まった。
エナとバルドが息を呑む。
光は調理台の上で渦を巻き、やがて1冊の分厚い本へと姿を変えた。
「……本?」
メルが恐る恐る手を伸ばす。
その瞬間、表紙に金色の文字が浮かび上がった。
――《しあわせレシピ》。
「メルお嬢様、それ……スキルではありませんか!?」
普段は落ち着いているエナが、珍しく声を上げた。
「スキル?」
「バルドさん、旦那様と奥様を! 早く!」
「分かった!」
大柄な料理長が厨房から飛び出していく。
(え、そんなに大変なことなの?)
メルが戸惑っている間にも、手の中の本から不思議と使い方が伝わってくる。
これはお菓子のレシピを調べられる本らしい。この世界に存在しない材料については、似た性質を持つ素材まで教えてくれる。
さらに、必要がなければ自由に収納できるようだった。
「しまうって思えばいいのかな……?」
試しに念じると、レシピブックが淡い光になって消えた。
「消えちゃった!」
「収納までできるのですか!?」
今度は出てくるところを想像する。
すると光が集まり、再び両手の上へ本が現れた。
「できた! エナ、見て! 何回でも出せるみたい!」
「見ていますとも! お嬢様、これは本当にすごいことなのですよ!」
そこへ、オスカーとセシリアが慌ただしく厨房へ入ってきた。
「メル! スキルを授かったというのは本当か!?」
「うん! この本が出てきたの!」
メルがレシピブックを掲げると、両親が揃って目を見開いた。
「5歳で……いえ、それ以前に、スキルを授かるなんて」
「そんなにすごいことなの?」
「ああ。この国全体でも、スキルを持つ者は数えるほどしかいない。父さんだって、実際に見るのは初めてだよ」
(そんなに珍しいの!? お菓子のレシピ本が出てきただけだと思ってたんだけど……)
セシリアは娘の前に膝をつくと、嬉しそうに微笑んだ。
「おめでとう、メル。本当にすごいことなのよ」
「えへへ、ありがとう!」
「それで、どんなスキルなんだ?」
父に聞かれ、メルは表紙を見せる。
「《しあわせレシピ》だって。お菓子の作り方がいっぱい分かるみたいなの!」
一瞬だけ、オスカーが目を瞬いた。
けれど、すぐに優しく笑う。
「そうか。お菓子を作りたいと言った日に、お菓子のスキルか。メルにぴったりじゃないか」
「ふふっ。本当に。きっと神様からのお誕生日プレゼントね」
両親が自分のことのように喜んでくれている。
その姿を見ていると、メルまで嬉しくなってきた。
(最初は自分が食べたいだけだったけど……せっかくだし)
朝食のときの2人を思い出す。
最近は話せば喧嘩になるくせに、本気で嫌い合っているわけではない。
できれば今日は、2人にも笑っていてほしい。
「ねえ、お父さま、お母さま。最初のお菓子、2人に作ってあげる!」
そう言って、両親の顔を思い浮かべながら《しあわせレシピ》を開いた。
するとメルがページをめくっていないのに、紙がひとりでに動き始める。
何枚も、何枚も。
やがて、ひとつのレシピでぴたりと止まった。
「……これ、なに?」
そこには、メルの知らない焼き菓子が描かれていた。




