第19話・閑話 天月狼は甘いものが食べたい
リゼル伯爵領からフィーネへ戻った翌朝、俺はアルフォード家の菓子工房でメルを待っていた。
昨日の移動で疲れているのだろう。いつもより少し遅れて扉が開き、寝癖を残した金髪の少女が顔を覗かせる。
「ヴァル、おはよ。もう来てたの?」
「ああ。それよりメル、約束を覚えているな?」
「約束?」
メルが首を傾げた。
(……忘れているな。間違いなく忘れている)
生命樹ユグリアへ行き、聖角鹿ルミナディアを探し、死灰の谷まで走った。あれほど働いた俺との約束を、この娘は一晩寝ただけで忘れたらしい。
「菓子だ。死灰の谷で俺を散々からかった挙げ句、3倍作ることになっただろう」
「あっ、そうだった! ちゃんと覚えてるよ。朝ごはん食べたら作ろっか」
「菓子を朝食にすれば早い」
「ダメだよ。ちゃんと朝ごはん食べなきゃ」
「俺は天月狼だぞ。人間の食生活を押しつけるな」
「じゃあ朝ごはん食べたあと、お菓子もいっぱい食べればいいじゃん」
「……それなら構わん」
どうやら俺が言い負かされたような空気になっているが、結果的に食う量が増えているので問題はない。
メルは満足そうに頷くと、工房へ入ってきたエナへ今日作りたい菓子を次々と伝え始めた。
「ヴァル、今回いっぱい頑張ってくれたでしょ? だから今日はヴァルの好きなの、いっぱい作ってあげる!」
「当然の報酬だな。遠慮なく受け取ろう」
「お嬢様、ヴァル様の尻尾を見る限り、ずいぶんお喜びのようでございますよ」
「ほんとだ。すっごい動いてる」
「……風だ」
「お部屋なのに?」
「風だと言っている」
「そっか~。じゃあ仕方ないね」
メルとエナが揃って笑っている。
(最近、この娘は俺をからかうことを覚えた。以前はもう少し素直だったはずなのだが、あまりよろしくない成長をしている)
とはいえ、菓子を大量に作ると言っている相手へ文句を言うほど、俺も狭量ではない。
俺は工房の隅へ移動し、完成を待つことにした。
◇
「できたよ、ヴァル!」
しばらくして、工房の大きなテーブルがお菓子で埋め尽くされた。
木の実と蜂蜜のクッキー、シュガースライムのカスタードプリン、ミルクホーンラビットの濃厚シュークリーム。それだけではなく、エナと相談しながら作った焼き菓子まで山のように積まれている。
(素晴らしい)
俺はその光景を前に、改めて自分の判断が正しかったことを確信した。
(人間と契約を結ぶなど、以前の俺なら考えもしなかった。しかし必要な素材を集め、危険から守るだけで、これほどの菓子が定期的に手に入る。どう考えても俺の方が得をしているのではないか?)
「ヴァル、どれから食べたい?」
「全部だ」
「そうじゃなくて、最初に食べるやつ」
「ならクッキーからだ。最初にお前から食わせてもらった菓子だからな」
「魔物よけクッキーじゃなくて?」
「……あれも用意してあるのか?」
「ないよ。だって美味しくないもん」
「理解できんな。あれほど美味いものを」
「ヴァルだけだよ、美味しいって言ってるの!」
そうだろうか。
月避草の独特な苦みと青臭さは、焼くことで香ばしさへ変わる。口の中に残る僅かな渋みも悪くない。少なくとも俺には、普通のクッキーとは別方向の魅力があるように思える。
(人間の味覚というものは、存外不便なのかもしれんな)
そんなことを考えながら木の実と蜂蜜のクッキーを口へ運ぶ。
焼かれた木の実の香ばしさに蜂蜜の甘みが重なり、噛めばバターの香りまで広がっていく。魔物よけクッキーとはまるで違うが、こちらはこちらで何枚でも食える味だ。
「どう?」
「美味い。次だ」
「早いよ! ちゃんと味わってる?」
「味わったから次を要求している」
続いてプリン。
柔らかなそれを口へ入れれば、ほとんど噛む必要もなく舌の上で崩れた。卵と乳の濃厚さを、シュガースライム特有のまろやかな甘さが包み込んでいる。
(これは危険だな。柔らかすぎて、食べたという実感がないまま消えていく。つまり、いくらでも食える)
「ヴァル、プリン気に入った?」
「ああ。あと10個ほど作れ」
「そんなに!?」
「3倍作ると言ったのはお前だろう」
「3倍ってそういう意味だったの!?」
どういう意味だと思っていたのだろう。
シュークリームも悪くない。むしろ非常に美味いのだが、この身体では一口で消えてしまうのが難点だった。
俺はしばらく考えた末、立ち上がる。
「メル。庭へ行くぞ」
「なんで?」
「この姿では効率が悪い」
「……ヴァル、まさか」
屋敷の庭へ出たところで、本来の大きさへ戻る。
見上げるメルの前で身体を伸ばし、運んできてもらった大量の菓子を改めて眺めた。
「これなら一度に多く食える」
「ヴァル様。まさか、こちらをすべて召し上がるおつもりでございますか?」
「当然だ。そのために作ったのだろう」
「お腹痛くならない?」
「俺を何だと思っている」
「食いしん坊」
「天月狼だ」
メルは楽しそうに笑いながら、次の皿をこちらへ差し出してきた。
(まあ、否定はせん。人間がこれほど美味いものを作ると知っていれば、もう少し早く関わってみてもよかったかもしれんな)
結局、並んでいた菓子はすべて食べた。
満足して庭へ伏せると、メルがこちらを見上げながら妙に嬉しそうな顔をしている。
「じゃあ今度は、私のご褒美ね!」
「何を要求するつもりだ?」
「もふもふ! 契約の時に約束したでしょ?」
そう言うなり、メルは俺の毛へ飛び込んできた。
「ふわふわ~! やっぱり大きいヴァルの方がいっぱいもふもふできる!」
「好きにしろ。今日の菓子の礼くらいはしてやる」
「では私は、せっかくですのでブラッシングをいたしましょうか」
「待て、エナ。それは聞いていない」
「ヴァル、ブラッシングだって!」
「メル。楽しそうにするな」
エナがどこからか大きなブラシまで持ってきた。
(……何故こうなった? 俺は菓子を食べに来ただけだったはずだ)
だが、毛の間をブラシが通る感覚は思ったほど悪くない。
メルは俺の前脚にもたれながら、手の届く範囲の毛を好き放題撫でている。
小さな身体だ。
初めて会った時から、それは変わらない。
(妙な人間だ)
こいつの魂を見た時、俺はすぐに普通の人間ではないと気づいた。
5歳の身体の中に、この世界ではない場所で生きた記憶がある。本人に聞けば、かつては大人の女で、働きながら菓子を作っていたという。
だというのに、今のメルを大人だと言い切るのも違う。
笑えば年相応に騒がしく、珍しいものを見つければすぐに近寄ろうとする。危険だと止めなければ何をするか分からず、先ほどの死灰の谷ですら結界の外へ手を出そうとしていた。
(前の人生の記憶を持ちながら、今は間違いなくメル・アルフォードとして生きている。俺も長く生きてきたが、こんな人間を見るのは初めてだ)
最初は菓子が美味かったから付き合った。
それは嘘ではない。
人間と契約を結ぶつもりなどなかった俺が、この娘のそばにいる理由としては十分だった。
だが、いつからだろう。
菓子だけでは説明できないことが増えてきた。
(リリアという娘にしたところで、メルと出会ってから僅かな時間しか経っていなかった。それでも死にそうだと知った途端、こいつは生命樹へ行き、聖角鹿を探し、死灰の谷へ向かうことを当然のように決めた)
人間は弱い。
俺からすれば驚くほど簡単に傷つき、病に倒れ、寿命が来れば死んでいく。
だから長く生きる俺が深く関わる理由などないと思っていた。
ところがメルは、そんな弱い人間を見つけるたびに勝手に近づいていく。
泣いている者がいれば菓子を作り、困っている者がいれば自分に何ができるか考える。今回のように危険な場所へ行く必要があっても、怖がるより先に「行こう」と言う。
(そして当然のように俺まで巻き込む。まったく、面倒な契約相手を選んだものだ)
「ヴァル」
前脚の辺りから声がして、視線を下げる。
「なんだ?」
「リリアちゃん、元気になってよかったね」
またその話か。
「だから俺は別に――」
言いかけて、やめた。
(……まあ、よかったとは思っている)
死灰の谷から急いで帰ったのも、菓子が食いたかったからというだけではない。
メルがあれほど必死になって素材を集めたのだ。
間に合わず、あの娘が死ねば、こいつはきっと泣いただろう。
それにリリア自身も、ようやく友人ができたというのに死ぬのはあまりに早い。
(だから急いだ。それだけだ。別に俺がリリアを特別気に入っているわけではない)
「ヴァル?」
「……何だ」
「今、やっぱり心配してたって思ったでしょ?」
「お前は俺の心が読めるのか?」
「読めないけど、ヴァル分かりやすいもん」
「なら外れだ。俺には関係ない」
「ふーん。そっかそっか~」
メルがまた例の顔で笑う。
(この娘、本当に腹が立つ顔を覚えたな)
少しくらい毛の中から追い出してやろうかとも思ったが、今日は大量の菓子を食わせてもらった。俺は寛大なので許してやることにする。
そうしているうちに、さっきまで毛を撫でていた手が止まった。
視線を落とすと、メルが俺の前脚へ身体を預けたまま目を閉じている。
「……寝たのか?」
返事はない。
旅から戻った翌日だというのに、朝から大量の菓子を作っていたのだ。当然といえば当然だった。
「お嬢様、ずっと頑張っておられましたから」
エナが小さな声で言う。
「素材探しの間も、リリア様のことをずっと気にされていました。昨日ようやく安心できたので、お疲れが出たのでしょうね」
(他人の心配ばかりして、自分の疲れには気づかんのか)
エナがメルを抱き上げようと近づいてきたので、俺は尻尾を動かしてその足を止めた。
「そのままでいい」
「よろしいのでございますか?」
「ああ。起こす必要もないだろう。俺もしばらくここにいる」
「では、お言葉に甘えさせていただきます」
エナは穏やかに笑うと、メルへ薄い毛布だけ掛けて工房へ戻っていった。
俺は動かないよう前脚を地面につけたまま、目を閉じる。
(契約内容は単純だったはずだ。俺が必要な素材を集め、危険な場所ではこいつを守る。その代わり、メルが俺に菓子を作る。それだけだった)
それなのに最近は、こいつが誰かを助けたいと言えば、その相手まで気にするようになった。
メルが無茶をすれば止める必要があるし、疲れているのに気づかなければ休ませなければならない。
(ずいぶん仕事が増えたものだ)
だが、不思議と嫌ではなかった。
俺の毛に埋もれて眠る小さな契約相手から、規則正しい寝息が聞こえてくる。
「……ヴァル……」
寝言で名前を呼ばれ、片耳だけ動かす。
「……明日は……何作ろっか……」
(明日も作るのか)
思わず尻尾が地面を叩きそうになり、眠っているメルを起こさないよう途中で止めた。
(やはり、この契約は悪くない)
今日食べた菓子も美味かった。
明日の菓子は、きっともっと美味いだろう。
それならもうしばらく、この騒がしくて妙に優しい小さな人間に付き合ってやるのも悪くない。




