第18話 最後じゃないお菓子
死灰の谷を出てから、ヴァルは本当に速かった。
途中、人間であるメルたちを休ませるために何度か足を止めたものの、それ以外はほとんど走り続け、翌日の午後にはリゼル伯爵領へ入った。
そしてリゼル伯爵邸の前へ降り立つと、巨大な天月狼の突然の来訪に門番たちが慌てるより早く、メルはヴァルの背中から風で下ろしてもらう。
「帰ってきたよ! 全部見つけた!」
知らせを受けて屋敷から飛び出してきたアーノルドは、メルたちの姿を見るなり目を見開いた。
「もう……戻られたのですか? 出発されてから、まだ数日しか……」
「ヴァルがいっぱい走ってくれたの。リリアちゃんは?」
「リリアは……」
アーノルドの表情が曇る。
「昨日から、ほとんど食事を取れなくなりました。眠っている時間も増えています」
間に合った。
そう思った直後、メルの胸がきゅっと縮む。
「リリアちゃんに会ってくる」
「お嬢様、私も参ります」
「俺たちはここで待ってるよ。さすがに大人数で押しかけるところじゃないだろ」
ルークがそう言って、ヴァルも何も言わずその場へ伏せた。
メルはエナと一緒に、アーノルドのあとを追った。
◇
リリアはベッドの上で眠っていた。
初めて会った時よりも顔色が悪く、布団から出ている腕は細い。ベッドの傍らには母親のエレノアが座り、娘の手を握っていた。
「リリア。メル様が戻ってきてくださったわ」
エレノアが優しく声をかける。
しばらくして、青い瞳がゆっくりと開いた。
「……メル、ちゃん?」
「ただいま、リリアちゃん。ちゃんと全部取ってきたよ」
ベッドのそばまで駆け寄ると、リリアがほんの少しだけ笑う。
「お菓子……作ってくれるの?」
「うん。すっごく特別なの作ってくるから、ちょっとだけ待っててね」
「……楽しみにしてる」
それだけ話すのも疲れるのか、リリアは再び目を閉じた。
メルはしばらくその顔を見てから、静かに部屋を出る。
廊下では、アーノルドとエレノアが待っていた。
「伯爵さま。見せたいものがあるの」
メルは《しあわせレシピ》を呼び出した。
淡い光とともに現れた本を開き、目的のページを2人へ向ける。
**《ユグリアの生命キャンディ》**
**材料(1個分)**
* 生命樹ユグリアの朝露……3滴
* 聖角鹿ルミナディアの角蜜……小さじ1
* 月涙草の花弁……1枚
* 蜂蜜……大さじ1
**効果:あらゆる病を癒やす。**
「……これは」
アーノルドの視線が、一番下の一文で止まった。
「病を……癒やす?」
「うん。この本にはそう書いてあるよ。だから、この材料を探しに行ってたの」
エレノアもページを見つめている。
「では……リリアが、助かるのですか?」
震える声だった。
何度も医師を呼び、薬師を頼り、できる限りの治療を試したのだろう。そのたびに期待して、そのたびに駄目だった。
だからこそ、簡単に「助かる」と信じることすら怖いのだ。
「分かんない。でも、この本が嘘をついたことはないよ」
メルは2人を見上げる。
「だから私、ちゃんと作る。リリアちゃんに食べてもらいたいの」
「……お願いします」
アーノルドが深く頭を下げた。
「どうか……娘に、そのお菓子を作ってやってください」
◇
厨房を借り、メルはすぐに準備を始めた。
エナが必要な道具を揃えてくれる横で、保存していた素材を1つずつ取り出していく。
最初は、生命樹ユグリアの朝露。
小さな器へ3滴落とすと、朝日のような淡い金色が広がった。
次は聖角鹿ルミナディアの角蜜。とろりとした蜜を小さじ1杯加えると、甘い香りがふわりと立ち上る。
最後に、昨夜採ったばかりの月涙草の花弁を1枚。
銀青色の花弁が蜜へ触れた瞬間、ゆっくりと溶けるように色が消えていった。
「これに蜂蜜を入れて……あとはゆっくり煮詰めるだけ」
焦がさないよう火加減を調整しながら、木べらを動かす。
生命樹へ登ったことも、ルミナディアの子供とクッキーを食べたことも、満月の下で月涙草を摘んだことも思い出す。
たった1粒のお菓子を作るために、ずいぶん遠くまで行ったものだ。
「メル」
「なに?」
厨房の入口から、ヴァルがこちらを覗いていた。
「まだか?」
「もうちょっと。ヴァルも味見する?」
「馬鹿を言え。それはリリアの分だろう」
即答だった。
「ふふっ」
「何がおかしい」
「なんでもないよ~」
「……妙な顔をするな」
ヴァルはそれ以上追及せず、厨房の前へ伏せる。
やがて煮詰まった液体を型へ流し、冷ましていく。
出来上がったのは、淡い金色をした小さなキャンディだった。
もっと光り輝いたり、ものすごい魔力が溢れたりするのかと思っていたけれど、見た目だけなら少し綺麗な飴玉にしか見えない。
それでも《しあわせレシピ》には、はっきりと表示されていた。
**《ユグリアの生命キャンディ》**
**――完成。**
「できた」
メルは小さなキャンディを見つめる。
「リリアちゃんのところに行こう」
◇
部屋へ戻ると、リリアは起きて待っていた。
アーノルドとエレノアもベッドのそばにいる。少し離れた場所にはエナとルークが立ち、ヴァルは入口の近くで伏せていた。
「リリアちゃん、できたよ」
メルはベッドのそばへ行き、小さなキャンディを見せる。
リリアの青い瞳が、淡い金色を映した。
「……きれい」
「食べられそう?」
「うん」
リリアは小さく頷いてから、キャンディへ手を伸ばす。
けれど、受け取る直前にその指が止まった。
「これが……最後のお菓子なんだね」
「違うよ」
メルはすぐに首を振った。
リリアが不思議そうにこちらを見る。
「これはね、次のお菓子を一緒に食べるためのお菓子だよ」
青い瞳が少しだけ大きくなる。
「だから食べて。元気になったら、一緒に街に行こ。パン屋さんにも行って、今度は2人でお菓子作ろうよ」
「……うん」
リリアはキャンディを受け取り、ゆっくりと口へ入れた。
ころりと舌の上で転がす。
「……甘い」
小さな声が漏れた。
「蜂蜜みたいに優しくて……でも、もっと甘い。お花みたいな匂いもする」
「美味しい?」
「うん。すごく……おいしい」
リリアが笑った。
その顔を見られただけでも、遠くまで行った甲斐があった。
やがてキャンディが完全に溶ける。
しばらく、何も起こらなかった。
誰も声を出さない。
メルもリリアを見つめていると、やがて彼女が自分の胸へ手を当てた。
「……あれ?」
「リリア?」
エレノアが身を乗り出す。
「苦しく……ない」
リリア自身が信じられないようだった。
「息を吸っても、胸が痛くないの。身体も……いつもみたいに重くない」
頬に、少しずつ血色が戻っていく。
冷たかった指先にも温かさが戻り、浅かった呼吸がゆっくりと深くなっていった。
「お母さま。私……起きられるかも」
リリアが自分の力で上半身を起こす。
「リリア、無理をしてはいけないわ」
エレノアが支えようとしたが、リリアはその手を借りずに身体を起こしきった。
さらにベッドの端まで移動し、床へ足を下ろす。
「待って、リリア!」
今度はアーノルドまで駆け寄った。
それでもリリアは首を振る。
「やってみたいの」
ベッドへ手をつき、ゆっくり立ち上がった。
細い足が震える。
長い間ベッドで過ごしていた身体まで、一瞬で元通りになるわけではない。
それでもリリアは立っていた。
「……立てた」
1歩。
さらに、もう1歩。
ふらつきながら、それでも自分の足でメルのところまで歩いてくる。
「メルちゃん……私、立てる」
リリアの目から、ぽろぽろと涙がこぼれ始めた。
「私、街に行けるの? メルちゃんが言ってたパン屋さんにも行って、一緒にお菓子を作れる?」
「行けるよ。パン屋さんも行こう。お菓子もいっぱい作ろう。それ以外にも、一緒にいっぱい遊ぼうよ!」
リリアが泣きながら何度も頷く。
その身体を、エレノアが後ろから優しく抱きしめた。
「リリア……っ」
ずっと娘の前では笑顔を崩さなかった母親が、とうとう声を上げて泣いた。
アーノルドも顔を覆い、しばらく何も言えずにいる。
「私は……ただ、この子が最後に笑ってくれれば、それでいいと思っていたのです」
やがて絞り出した声は震えていた。
「最後に美味しいものを食べて、幸せだったと思ってくれれば……それ以上を望んではいけないと。それなのに……」
アーノルドがメルへ深く頭を下げる。
「ありがとうございます。メル様。本当に……ありがとうございます」
「私、リリアちゃんと約束したから。だから、よかった」
それ以上の言葉は思いつかなかった。
でも、リリアが笑っている。
それなら十分だった。
「ヴァル」
メルは部屋の入口へ顔を向けた。
ずっと黙っていた銀白色の狼が、片目だけを開く。
「リリアちゃん、元気になったよ?」
「見れば分かる」
「よかったね?」
「ああ。これで帰ったら、心置きなくお前に菓子を作らせられるな」
「やっぱり心配してたんじゃん」
「していない」
「してた~」
「メル」
「なに?」
「菓子は3倍だ」
「増えた!?」
思わず声を上げると、リリアがくすくすと笑った。
その笑い声を聞いて、ヴァルは何も言わずに目を閉じる。
たぶん、またお菓子が食べたいだけだと言うのだろう。
だからメルも、それ以上は追及しないことにした。
◇
翌朝。
リリアはベッドではなく、窓辺の椅子に座っていた。
まだ1人で長く歩くことはできない。それでも顔色は昨日までとは比べものにならないほど良く、朝食のパンを食べ終えると、空になった皿をじっと見つめた。
「……お腹すいた」
その一言に、隣にいたエレノアが泣きそうな顔になる。
「もう少し食べる?」
「うん。食べたい」
追加のパンを頼むリリアを見ながら、メルも嬉しくなった。
「いっぱい食べたら、もっと元気になるよ。そしたらフィーネにも遊びに来てね」
「うん。約束する」
リリアはそう答えてから、何かを思いついたように笑った。
「ねえ、メルちゃん。次は何のお菓子を作る?」
「いっぱいあるよ。どれから作ろっか?」
最後のお菓子は、もう必要ない。
これから2人で食べるお菓子なら、いくらでも作れるのだから。




