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第17話 月涙草の花弁

 聖角鹿ルミナディアの角蜜を手に入れてから、メルたちはほとんど休むことなく死灰の谷を目指した。


 昼のうちはレオナの案内で山岳地帯を抜け、日が沈んでから短い野営を挟む。人間たちが眠っている間だけヴァルも足を止めたものの、翌朝にはすぐ出発し、そこから再び走り続けた。


 そして翌日の夕方。


「見えたぞ。あそこが死灰の谷だ」


 レオナに言われて前を見ると、それまで点々と生えていた植物が完全に消えていた。


 大地は灰色に変わり、枯れた木々すら途中から見当たらなくなる。鳥の声も虫の羽音も聞こえず、岩山に挟まれた谷の底には紫黒色の霧が溜まっていた。


「……ここまで本当に1日で来るとはな」


 ヴァルの背中から降りたレオナが、来た道を振り返る。


「普通なら何日もかかる距離だぞ。しかも途中で野営までしてるのに」

「遅すぎるくらいだ。人間を乗せているからな」

「これ以上速くされたら俺たちが困るんですよ」


 ルークはもう慣れた様子で返しているが、メルにはヴァルがいなければ間に合わなかったことだけは分かった。


 空にはまだ夕日の赤が残っている。


「間に合ったな。月が谷の真上へ来るまで、あと数時間はある」


 レオナが谷底を見ながら説明してくれる。


「月涙草が花を開くのは、満月の光が谷底まで届く短い間だけだ。咲く前に採っても薬効が足りないから、最深部まで行って待つ必要がある」

「じゃあ、あとは中に入るだけだね」

「その『中に入る』のが一番難しいんだけどな」


 レオナが苦笑する。


 谷底を覆っている紫黒色の霧こそ、この場所が死灰の谷と呼ばれる原因だった。


「あれは全部、猛毒の瘴気だ。防毒装備を整えた冒険者でも長時間は活動できない。月涙草の群生地まで行くなら、あたしとルークはここで待っていた方がいいだろうな」

「必要ない。全員来い」

「いや、ヴァルグレイヴ。話聞いてたか? 瘴気だぞ」

「知っている。だから何だ?」


 ヴァルが面倒そうに答えた直後、周囲の空気が動いた。


 風がメルたちの身体を包み込み、髪や服を優しく揺らしていく。それは次第に大きな膜のように5人の周囲を覆い、外側の空気と完全に切り離された。


「外の瘴気を入れず、中の空気を循環させる。これなら問題ないだろう」

「……これ、ずっと維持できるのか?」

「この程度で俺の魔力が尽きると思うか?」

「本当に災害級って何なんだよ……」


 レオナが額を押さえている。


 メルは自分たちの周囲を流れている風を不思議に思い、そっと手を伸ばしかけた。


「お嬢様?」


 すぐ隣からエナの声がした。


「……出しません」

「はい。そうしていただけますと安心でございます」


 まだ何もしていないのに見抜かれてしまった。


「絶対に結界の外へ身体を出すな。特にメル、お前なら少し吸っただけでも倒れるぞ」

「分かってるよ。ちょっと触ったらどうなるのかなって思っただけ」

「それを分かっていないと言うんだ」


 ヴァルにも怒られたので、メルは大人しく両手を引っ込めた。


 巨大化したヴァルの背中へ全員が乗り、死灰の谷へ降りていく。


 中へ入ってみると、外から見ていた以上に不気味な場所だった。


 生きた植物は1本もなく、灰色の地面には朽ちた獣の骨が転がっている。巨大な木の残骸さえ途中から腐食したように崩れ、風が吹いているはずなのに、ヴァルの結界の外では紫黒色の瘴気が重たく淀んでいた。


「戦える相手がいる方が、まだ楽だな」


 レオナの言葉にルークも頷く。


「剣で毒は斬れませんからね。ヴァルグレイヴがいなかったら、そもそもここまで来ようとも思いませんよ」


 さらに奥へ進むにつれ、瘴気は濃くなっていった。


 やがて霧というより黒い濁流のようになり、ヴァルの作った空気の膜へ何度も押し寄せてくる。そのたびに結界の表面が波打ち、ヴァルの速度もわずかに落ちた。


「ヴァル、大丈夫?」

「問題ない。少し濃くなっただけだ」

「それを問題ないって言えるの、お前くらいだと思うぞ」


 レオナが呆れている間にも、ヴァルは一度も足を止めなかった。


 そうして谷の最深部へ辿り着いた頃には、空から夕日の色が完全に消えていた。


「あった!」


 灰色の地面に、そこだけ違う色が見えた。


 銀青色の細い茎が何本も伸び、その先には固く閉じた蕾がついている。周囲には草一本生えていないのに、月涙草だけが瘴気の中で静かに月を待っていた。


「まだ採るなよ。花が完全に開いてからだ」


 レオナに言われ、メルは伸ばしかけた手を引っ込める。


 月が谷の真上へ来るまでは、もう少し時間があるらしい。


 せっかくなので、ヴァルの結界の中で遅めの夕食を取ることになった。


「まさか死灰の谷の最深部で菓子を食う日が来るとは思わなかったな」


 レオナはメルから受け取ったクッキーをかじり、周囲の瘴気を眺める。


「美味しい?」

「ああ、美味い。だから余計に状況がおかしいんだよ。外に出たら死ぬ場所で、5歳の女の子が作ったクッキーを食べてるんだからな」

「ヴァルも食べる?」

「当然だ。2枚よこせ」

「先ほど夕食も召し上がっておられましたよね?」

「菓子は別だ」

「ヴァル様は、本当に甘いものがお好きでございますね」


 エナが微笑みながらクッキーを渡す。


 死の谷の真ん中にいるというのに、こうしているといつもの旅とあまり変わらない。


 やがてルークが空を見上げた。


「そろそろだぞ」


 メルも顔を上げる。


 谷を覆っていた雲がゆっくりと流れ、その向こうから丸い月が姿を現した。


 満月だった。


 白銀の光が岩壁の間から差し込み、紫黒色の瘴気を透かしながら谷底へ降りてくる。


 そして月光が地面へ届いた瞬間――閉じていた蕾が、一斉に開き始めた。


「……きれい」


 銀青色の花弁が月明かりを受け、淡く輝いている。


 毒に満たされ、他の生き物が何も暮らせない場所なのに、そこだけ小さな星空が広がったようだった。


「メル、今だ」

「うん!」


 ヴァルがメルに合わせて結界を動かしてくれる。


 メルは月涙草の前へしゃがみ、傷つけないよう慎重に指を伸ばした。


 必要なのは、たった1枚。


 開いたばかりの銀青色の花弁を摘み取り、用意していた保存容器へ収める。


「取れた!」


 すぐに《しあわせレシピ》を呼び出した。


**《ユグリアの生命キャンディ》**


**材料(1個分)**


* 生命樹ユグリアの朝露……3滴

* 聖角鹿ルミナディアの角蜜……小さじ1

* 月涙草の花弁……1枚

* 蜂蜜……大さじ1


 3つの希少素材すべての文字が、淡い光を放っている。


「揃った……全部揃ったよ!」


「おめでとうございます、お嬢様。これでリリア様とのお約束を守れますね」

「ああ。長かったけど、間に合ったな」

「やったじゃないか、メル。あとは帰って、そのキャンディを作るだけだ」


 エナ、ルーク、レオナも笑っている。


 メルは胸の前で《しあわせレシピ》を抱えた。


 リリアと約束した。

 一緒に街へ行く。

 パン屋さんへ行って、今度は2人でお菓子を作る。


 その約束を守れるかもしれない。


「なら、帰るぞ」


 真っ先にそう言ったのはヴァルだった。


「もう? 少しくらい休んでからじゃダメ?」

「必要ない。早く帰った方が、それだけ早くお前も菓子を作れるだろう。俺はそれを食いたい」

「生命キャンディはリリアちゃんのだよ?」

「それではない。帰ったら別の菓子を作れ」


 ずいぶん強引な理由だった。


 メルはヴァルの金色の目をじっと見る。


「……ヴァルも、リリアちゃんが心配なんだ~」

「違う」

「早く元気になってほしいんでしょ?」

「違うと言っている。俺は早く帰って菓子が食いたいだけだ」

「そっかそっか~」

「その顔をやめろ」


 ヴァルが露骨に顔を逸らした。


 その様子を見ていたレオナが、楽しそうに笑う。


「災害級魔獣ってのは、ずいぶん優しいんだな」

「……お前から先に置いていくぞ」

「怖い怖い。図星だからって怒るなよ」

「図星ではない」


 ヴァルが不機嫌そうに尻尾を振る横で、エナだけはいつもの穏やかな笑顔を崩さなかった。


「では、ヴァル様のお菓子のためにも急いで戻りましょう。私もお手伝いいたしますので、お屋敷へ着きましたらたくさん作れますよ」

「エナは話が分かるな」

「はい。もちろんでございます」

「エナまで笑ってるじゃん。やっぱりヴァル、心配なんだ」

「メル。帰ったら菓子を倍作れ」

「なんで!?」

「俺をからかった罰だ」

「それ、ヴァルへのご褒美じゃない?」

「そう言っている」


 どうやら最後まで認めるつもりはないらしい。


 けれど、それでいい。


 ヴァルはそういう狼なのだと、メルはもう知っている。


◇


 死灰の谷を抜けたところで、レオナとは別れることになった。


「あたしはもう少し、この辺りの魔物が移動してる原因を調べてから戻る。ここから先はヴァルグレイヴがいれば問題ないだろ」

「レオナお姉ちゃん、一緒に来ないの?」

「友達との約束を守るところは、メルたちで行ってこい。その子が元気になったら、今度あたしにも紹介してくれよ」


 レオナはそう言うと、メルの頭へ手を伸ばしかけ――隣にいるエナをちらりと見てから、その手を自分の腰へ戻した。


「それと、フィーネに行った時はシュークリームってやつを食わせてくれ。話を聞いてから気になって仕方ないんだ」

「うん! レオナお姉ちゃんの分もいっぱい作る!」

「楽しみにしてるよ。ルークもまたな。次に会う時まで死ぬなよ」

「最後に縁起でもないこと言わないでくださいよ……」


 笑いながら手を振るレオナに見送られ、ヴァルが巨大な姿へ変わる。


 風がメルとエナ、ルークを持ち上げ、いつものように大きな背中へ運んでくれた。


「掴まれ。帰りは速いぞ」

「……行きも十分速かったんだけどな」

「俺は早く菓子が食いたい」

「はいはい。そういうことにしておきますよ」

「何だ、その言い方は」


 ルークまで笑っている。


 メルは保存魔道具の中に収めた3つの素材を、もう一度確かめた。


 全部ある。


 あとは帰って、作るだけだ。


(待っててね、リリアちゃん。今度は一緒にお菓子を食べよう)


「ヴァル、お願い!」

「ああ。振り落とされるなよ」


 ヴァルが大地を蹴った。


 リリアの待つリゼル伯爵邸へ向かって、銀白色の巨体が夜の大地を駆け出した。


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