第16話 聖角鹿ルミナディアの角蜜
「……速すぎないか?」
ヴァルの背中に乗って走り始めてからしばらくして、レオナが呆れたように呟いた。Sランク冒険者ともなれば普通の人間とは比較にならない身体能力を持っているはずだが、それでも高速で流れていく景色には驚くらしい。
「人間を乗せているから抑えているぞ」
「これで抑えてるのか? さっきから森も岩場も関係なく突っ切ってるだろ」
「レオナさん、たぶん気にしたら負けですよ。俺も最初は同じ反応してましたから」
「ルークまで慣れてるのが一番怖いな……」
メルとエナはすでに何度も経験しているので、風に支えられながら普通に景色を眺めている。そんな3人を見回したレオナは何とも言えない顔をしていたが、やがて諦めたように前を向いた。
しばらく進んだところで、レオナがヴァルへ方向を指示する。
「数日前に見たのは、この先にある谷だ。森と岩山に囲まれていて、朝になると白い霧が溜まる。そこで3頭のルミナディアを見た」
「3頭って、家族なのかな?」
「たぶんな。大きいのが2頭と小さいのが1頭だった。ただ、見つけても追いかけるなよ。あいつらはとにかく警戒心が強い。人間に気づけば、あたしでも追いつけないくらいの速さで逃げる」
戦って倒せばいい魔物とは、まるで勝手が違うらしい。
そもそも欲しいのは角そのものではない。今の時期だけ角の根元から自然に溢れるという角蜜を、ほんの少し分けてもらえばいいのだ。
(だったら、できれば怖がらせたくないな)
そんなことを考えているうちに、ヴァルの速度が落ちた。
「この辺りだ。獣の匂いはいくつもあるが、どれがルミナディアかまでは分からん」
「なら、ここからは俺の仕事だな」
地面へ降りたルークは周囲を見回し、柔らかな土の上に残された痕跡を探し始めた。
メルには草と石しか見えない場所でも、ルークには違うものが見えているらしい。地面に残された薄い蹄の跡を見つけ、食べられた草の断面を確かめたあと、低い枝に引っかかっていた銀白色の毛を摘み上げる。
「いたぞ。痕跡はかなり新しい。少なくとも昨日より前ってことはないと思う」
「よくそんなの見つけられるな。あたしなら普通に通り過ぎてたぞ」
「戦うことならレオナさんには敵いませんけど、こういうのは冒険者としてずっとやってきましたからね」
ルークは少し得意そうに答えると、蹄跡の続く方向へ視線を向けた。
「それと、ヴァルグレイヴ。その姿のまま近づくのはやめてくれ」
「なぜだ?」
「災害級魔獣が全速力で近づいてきたら、ルミナディアじゃなくても逃げるだろ。できれば小さくなって、気配も抑えてくれると助かる」
「……注文の多い男だな」
文句を言いながらも、ヴァルの身体は柴犬ほどの大きさまで縮んだ。
さらに気配まで抑えたらしく、メルには違いがよく分からなかったものの、レオナは感心したように眉を上げている。
「災害級魔獣に『鹿が怖がるから小さくなれ』なんて頼める奴、世界中探してもそういないだろうな」
「俺だって好きで頼んでるわけじゃないですよ……」
ルークを先頭に、5人は静かに谷へ入った。
白い霧が薄く残る森をしばらく進んだところで、ルークが片手を上げる。全員が足を止め、その視線の先を追った。
木々の隙間に、銀白色の身体が見えた。
普通の鹿より一回り大きく、細長い脚と透き通るような白銀の角を持っている。朝の光を浴びるたび、その毛並みには淡い光が流れ、角の根元には黄金色の液体が蜜のように滲んでいた。
少し離れたところにはもう1頭の成獣と、小さな子鹿もいる。
「あれが……ルミナディア?」
メルが声を潜めると、レオナが頷いた。
「間違いない。しかも運がいいな。角蜜もしっかり出てる」
見つけるところまでは成功した。
問題は、ここからだった。
ルークの指示で風下からゆっくり距離を詰めていく。足音を立てないように柔らかな地面を選び、枝にも触れないよう進んでいたが、残り数十歩ほどになったところで、成獣の1頭が顔を上げた。
長い耳がこちらへ向く。
「まずいな。気づかれた」
レオナが小声で告げた直後、3頭の身体に緊張が走った。
「ヴァル、待って。捕まえたりしないでね」
「このままなら逃げるぞ。風で動きを止めれば済む話だ」
「でも、私たちが欲しいのってちょっとだけでしょ? 何も悪いことしてないのに、怖い思いさせたくないよ」
ヴァルは金色の瞳でメルを見上げたあと、それ以上は何も言わなかった。
どうすれば近づけるだろう。
相手は草食の魔獣だ。無理に近づけば逃げるなら、向こうから興味を持ってもらう方がいい。
そこでメルは、旅のおやつとして持ってきた《木の実と蜂蜜のクッキー》を思い出した。
「これ、食べてくれないかな?」
「魔獣に菓子を食わせる気か?」
「だって蜂蜜と木の実だよ。美味しいよ?」
「いや、美味しいのは知ってるけど……食べるかどうかの基準がメルなのは不安だな」
ルークに心配されたが、他に良い方法もない。
メルはクッキーを何枚か取り出して草の上へ置くと、みんなと一緒に十分な距離まで下がった。
しばらく待っても、3頭は動かなかった。
こちらを警戒したまま、逃げるべきか迷っているように見える。
「私がいるからかな」
自分たちの中で一番小さいとはいえ、相手からすれば人間には違いない。
「もうちょっと離れて待ってみるね」
「お嬢様、お1人では――」
「危険はない。俺が見ている」
心配するエナにヴァルが答えたことで、メルだけが少し離れた場所に残ることになった。
こちらから近づくことはせず、地面に座って待つ。
最初こそルミナディアを見ていたものの、ずっと睨んでいるのも怖がらせそうなので、途中から足元に咲いていた小さな花を眺めていた。
(これ、なんて花だろ。帰ったら庭にも植えられるかな)
そんなことを考えていると、草を踏む小さな音が聞こえた。
顔を上げる。
子鹿が、クッキーの前まで来ていた。
匂いを嗅いでから、恐る恐る一口かじる。
長い耳がぴんと立った。
「食べた……!」
思わず声が漏れたが、子鹿は逃げなかった。
残りのクッキーも食べ終えると、今度はメルの方へ歩いてくる。後ろでは母親らしいルミナディアが警戒していたものの、子鹿を止めようとはしなかった。
メルは触りたい気持ちを我慢して、膝の上に手を置いたまま待つ。
やがて子鹿が目の前まで来て、メルの手の匂いを嗅いだ。
「こんにちは。クッキー、美味しかった?」
言葉が通じるとは思っていない。
それでも話しかけると、子鹿はもう一度鼻先を近づけてきた。
少し遅れて、母親もこちらへ歩いてくる。
間近で見る白銀の角は本当に綺麗だった。その根元からは黄金色の蜜がゆっくりと溢れ、毛先へ落ちる寸前まで膨らんでいる。
「ちょっとだけ、蜜を分けてもらってもいい?」
母親は逃げなかった。
「メル、採るなら今だ」
離れた場所からヴァルに言われ、メルはゆっくり小さな容器と匙を取り出した。
驚かせないように手を伸ばし、自然に溢れている角蜜だけを匙ですくう。
とろりとした金色の液体が容器へ落ちた。
「取れた……ありがとう!」
お礼にもう1枚クッキーを差し出すと、今度は母親が食べた。その横から子鹿まで欲しそうに顔を寄せてきたので、もう1枚取り出して半分に割ってやる。
少し離れた場所では、レオナが呆気に取られていた。
「あんな採り方、初めて見たぞ。普通なら見つけるだけでも一苦労なのに」
「俺もですよ。まあ……メルですからね」
「どういう意味?」
「最近、俺も説明するのを諦めてきた」
聞こえていたので振り返ると、ルークが笑っていた。
ヴァルだけは当然のことのように尻尾を揺らしている。
メルはルミナディアたちに手を振ってから、《しあわせレシピ》を呼び出した。
**《ユグリアの生命キャンディ》**
**材料(1個分)**
* 生命樹ユグリアの朝露……3滴
* 聖角鹿ルミナディアの角蜜……小さじ1
* 月涙草の花弁……1枚
* 蜂蜜……大さじ1
生命樹ユグリアの朝露に続いて、《聖角鹿ルミナディアの角蜜》の文字にも淡い光が灯っている。
「あと1つ!」
残っているのは、月涙草の花弁だけ。
ようやく2つ目まで来た。
リリアと一緒に街へ行く未来が、少しずつ現実に近づいている。
しかし、喜んでいるメルとは反対に、レオナの表情は険しかった。
「月涙草か……場所なら知ってる。でも、本気で採りに行くなら、今までとは話が違うぞ」
「そんなに危ないところなの?」
「死灰の谷って呼ばれてる場所だ。あそこに魔物がほとんどいないのは、弱いからじゃない。生き物がまともに暮らせないからだよ」
レオナによれば、谷には一年中、猛毒の瘴気が溜まっているらしい。
防毒用の装備を整えた熟練冒険者でも、活動できる時間には限界がある。装備なしで踏み込めば、強い弱い以前の問題だった。
「あたしでも長時間は入れない。月涙草が咲く場所まで行くとなれば、帰ってこられる保証はないぞ。それに花が開くのは満月の夜だけだ」
ルークが空を見上げる。
「次の満月は……明日の夜だな」
逃せば、次に咲く頃にはリリアに間に合わない。
メルは迷わずヴァルを見た。
「ヴァル、行ける?」
「当然だ」
ヴァルは何を心配しているのか分からないという顔で答える。
「毒が混じった空気なら、吸わなければいい。それだけの話だ」
「……息を止めて行くってこと?」
「違う。お前たちが吸う空気くらい、俺が用意してやる」
レオナが目を瞬かせた。
Sランク冒険者でさえ長時間は踏み込めない、息をするだけで命を奪われる谷。
けれどヴァルにとっては、それすら行けない理由にはならないらしい。
「よし。じゃあ最後の1つも取りに行こう!」
満月までは、あと1日。
最後の材料を求めて、メルたちの次の目的地は死灰の谷に決まった。




