第14話 生命樹ユグリアの朝露
「本当に、ここで寝るのか……?」
焚き火の向こうで、ルークが何度目か分からない確認をした。
「何か問題があるのか?」
「S級の魔物が何種類もいる森だぞ。問題しかないだろ」
ヴァルは柴犬ほどの大きさになり、メルからもらったクッキーを食べている。危険地帯にいるとは思えないほどのくつろぎようだった。
「俺がいる場所へ近づくほど馬鹿ではない。気にせず寝ろ」
「冒険者にとって、その理屈を信じて寝るのが一番難しいんだよ」
その時、遠くから低い咆哮が響いた。
木々が震え、森にいた鳥たちが一斉に飛び立つ。
ルークは即座に剣へ手を伸ばしたが、ヴァルは顔すら上げない。
「ヴァル様、本当に大丈夫なのでございますか?」
「問題ない。あれもこちらには来ん」
エナの問いに答えている間にも、咆哮は少しずつ遠ざかっていった。
どうやら本当に逃げているらしい。
「ヴァルって、魔除けクッキーよりすごいね」
「俺を菓子と比べるな」
「でもヴァル、あれ好きだよね」
「味の話をしているのではない」
ルークが呆れたように笑い、ようやく剣から手を離した。
普通なら一晩を過ごすことさえ命懸けの森なのだろう。
それでもヴァルがいるだけで、メルたちの周囲だけは驚くほど静かだった。
◇
夜が更けても、メルはなかなか眠れなかった。
「お嬢様、まだ起きていらしたのですか?」
毛布に包まったまま焚き火を見ていると、エナに見つかってしまった。
「だって、朝露が採れるのって夜明けだけなんでしょ? 寝てる間に朝になったら困るもん」
「そのために私がおります。夜明け前には必ずお起こしいたしますので、今のうちにお休みくださいませ」
「でも……」
「俺も起きているぞ」
少し離れた場所からヴァルが口を挟む。
「ルーク様も見張りをしてくださっています。お嬢様が眠っている間に、全員揃って朝まで寝過ごすことはございませんよ」
「……それなら、ちょっとだけ寝る」
身体を横にして目を閉じる。
まだ全然眠くないと思っていたのに、長旅の疲れは自分が考えていた以上に溜まっていたらしい。
それから数分もしないうちに、メルは静かな寝息を立て始めた。
「……寝たな」
「お嬢様は、ご自分のことになりますと少々無頓着でございますので。元気でいらっしゃるのは何よりなのですが」
エナは毛布を掛け直すと、少し困ったように微笑んだ。
◇
「お嬢様、そろそろお時間でございますよ」
肩を優しく揺らされ、メルは目を覚ました。
「……朝?」
「まだ夜でございます。ですが、そろそろ出発した方がよろしいかと」
「行く!」
眠気は一瞬で消えた。
焚き火を消して荷物をまとめると、4人は夜明け前の森を進んだ。
昼間とはまるで景色が違う。
木々の根元には青や緑の淡い光を放つ植物が生え、葉についた夜露が星のように瞬いている。薄い霧にも魔力が混じっているのか、ときどき細かな光が流れていた。
「すごい……」
思わず見上げてしまう。
前世では、仕事を終えて家へ帰る頃には日付が変わっていることも珍しくなかった。
夜の景色なんて嫌というほど見たはずなのに、こんな夜は一度も知らない。
「俺もここまで奥に来たのは初めてだ」
ルークも周囲を見回している。
「こんな景色、冒険者を続けててもそう簡単には見られないぞ」
やがて木々の向こうに、とてつもなく大きな影が見え始めた。
近づけば近づくほど、その大きさがおかしいことに気づく。
「……これ、木?」
「生命樹ユグリアだ」
ヴァルの言葉に、メルは思い切り首を反らした。
幹だけでアルフォード家の屋敷より大きい。そこから伸びる枝は空を覆い、先端がどこにあるのかすら分からなかった。
深い緑色の葉には淡い光が走り、巨大な樹そのものがゆっくり呼吸しているように見える。
そして夜明けが近づくにつれ、その葉先に透明な雫が生まれ始めた。
「……あれが朝露?」
「ああ。間もなく力が満ちる。それから採れ」
メルは小さな保存瓶を両手で握った。
「でも、どうやって?」
朝露がついている葉は遥か頭上だ。
「普通なら、ここからが大変なんだろうな」
「何が大変なのだ?」
ルークの呟きにヴァルが首を傾げた。
次の瞬間、メルの身体がふわりと浮き上がる。
「わっ!」
柔らかな風に包まれ、そのまま巨大な枝へ向かって上昇していく。
「……もう驚かないぞ、俺は」
「先ほど驚いておられましたよ」
「エナ、それは言わないでくれ」
下から2人の声が聞こえてくる。
ヴァルの風に支えられながら、メルは葉のそばまで運ばれた。
目の前の葉先に、小さな雫が膨らんでいる。
東の空が白み始めた。
「まだだ」
下からヴァルの声が飛んでくる。
「もう少し待て。日が昇る瞬間だ」
メルは小瓶を握ったまま待つ。
やがて山の向こうから、朝日が顔を出した。
光が生命樹へ差し込む。
その瞬間だった。
「わぁ……」
無数の葉についた朝露が、一斉に金色の光を放った。
巨大な生命樹全体が輝いている。
夜の暗闇が消えていく中、数え切れない光の粒が枝いっぱいに散らばる光景は、まるで空の星が樹へ降りてきたようだった。
メルは慌てて目の前の葉へ小瓶を近づける。
葉を少し傾けると、光る雫が落ちた。
1滴。
続けて別の葉から、もう1滴。
そして最後の葉へ瓶を寄せる。
3滴目が、小さな音を立てて中へ落ちた。
「取れた!」
「落とすなよ。それを取り直すなら、明日の朝まで待つことになる」
「言われたら急に怖くなってきた!」
両手で小瓶を握りしめる。
さっきまで小さく見えていた瓶が、急にとんでもなく大切なものに思えてきた。
ヴァルの風で地上へ戻ると、メルはすぐに《しあわせレシピ》を呼び出した。
**《ユグリアの生命キャンディ》**
**材料(1個分)**
* 生命樹ユグリアの朝露……3滴
* 聖角鹿ルミナディアの角蜜……小さじ1
* 月涙草の花弁……1枚
* 蜂蜜……大さじ1
その中で、《生命樹ユグリアの朝露》の文字だけが淡く輝いていた。
「ちゃんとこれで合ってる!」
「まず1つだな。残りは2つだ」
「あと2つ!」
メルが小瓶を保存用の魔道具へ大切にしまうと、ルークが笑う。
「まだ最初の1つだからな。気を抜くなよ」
「分かってるよ。でも、ちょっとくらい喜んでもいいでしょ?」
「まあ、それはそうだな」
最初の材料が手に入った。
それだけで、昨日よりリリアとの約束へ少し近づけた気がした。
朝食は生命樹の大きな根元で食べることになった。
エナが用意してくれた食事と一緒に、メルは普通の木の実入りクッキーも配る。
一口食べたルークが、しみじみと頷いた。
「……クッキーって、本来こういう食い物だよな」
「昨日のもクッキーだよ?」
「俺は認めたくない」
「俺は昨日のものも好きだぞ」
「お前の味覚は参考にならん」
昨日より少しだけ、4人で旅をすることにも慣れてきた。
食事を終えると、ルークが地図を広げる。
「次は聖角鹿ルミナディアか。こっちはユグリアより厄介かもしれないな」
「遠いの?」
「距離もあるけど、それ以上に相手が動く。生命樹なら場所さえ分かればそこにある。でも魔獣はそうはいかない」
「ヴァルも分からない?」
「存在は知っている。だが、今どこにいるかまでは知らん」
何でもできそうなヴァルでも、世界中の魔獣の居場所まで知っているわけではないらしい。
「なら、途中で冒険者が使う中継拠点に寄ろう。最近の目撃情報が残ってるかもしれない。こういう時は人間の情報網も役に立つぞ」
「じゃあ、ルークにお願いする!」
「そのために来たんだから任せろ」
次の目的地が決まった。
再びヴァルの背に乗り、生命樹の森を離れて数時間。
緑豊かだった景色は少しずつ荒れ始め、岩肌の露出した土地が増えていく。
「……ヴァルグレイヴ、止まってくれ」
突然、ルークが声を上げた。
ヴァルが足を止めると、ルークは地面へ降りて膝をついた。
「どうしたの?」
「これだ」
地面には大量の足跡が残されていた。
大きさも形も違う。それなのに、どれも同じ方向へ伸びている。
「何匹くらいいるの?」
「かなり多い。それも、ただ移動してるんじゃないな。走ってる」
ルークが顔を上げる。
「こいつら、何かから逃げてるぞ」
「ヴァルから?」
「いや。この跡は俺たちが来るよりずっと前についたものだ」
その時だった。
遠くから、轟音が響いた。
直後、空へ大量の鳥型魔物が飛び立つ。
もう一度、轟音。
今度は金属同士が激しくぶつかったような音まで聞こえた。
「誰か戦ってる」
ルークが立ち上がり、音のした方角を見る。
「人間が1人いるな」
ヴァルが鼻先を上げた。
「1人? こんなところで?」
メルが尋ねると、ヴァルはすでに歩き始めていた。
「周囲には魔物が複数いる」
「じゃあ助けに行こう!」
進路を変え、音のする方へ急ぐ。
やがて木々が途切れた。
その先には巨大な魔物の死骸が何体も転がっていた。
そして、その中心。
長い赤髪を高い位置で結んだ女性が、剣を握って立っている。
使い込まれた軽装鎧は傷だらけで、身体にもいくつもの傷を負っている。それでも背筋は伸びたまま、目の前の巨大な魔物から一歩も退いていなかった。
「……嘘だろ」
ルークが目を見開く。
「知ってる人?」
「知り合いじゃない。でも、冒険者なら知らない奴はいない」
女性が長剣を構えた。
ルークが、その名を口にする。
「Sランク冒険者――レオナ・ヴァレンティアだ」




