妹分
葉の擦れる音、遠ざかる足音。
人の気配が完全に消えたことを確認し、ようやく長く息を吐いた。
「レイン、大丈夫!?」
ミーナが駆け寄った。
「来るな!」
思っていたより、強い声が出た。ミーナの足が止まる。
レインは片手で脇腹を押さえた。包帯から、血が滲んでいた。ミーナが心配そうな声で言う。
「怪我が……」
「これは、後でいい」
ミーナの頭から足元までを確認する。服は泥だらけ。腕や膝には擦り傷。髪も乱れ、頬には土がついている。
だが、大きな怪我はない。胸の奥に安堵が広がった。直後、腹の底から、焼けるような怒りがこみ上げてくる。激情を抑えながら、レインは問う。
「何してるんだ、お前」
ミーナはきまりの悪そうな顔を浮かべた。
「何って……」
「どうしてここにいる」
目の前の少女は視線を逸らす。
「散歩?」
「王都から三時間歩く散歩が、あると思うか?」
「……ちょっと遠出」
「その荷物を持って?」
「……旅の練習」
問いただすほど、ミーナの声が小さくなる。
「ミーナ」
名前を呼ぶと、金髪の少女の肩が小さく縮こまった。
「俺を、つけてきたのか」
返事はない。その沈黙だけで、十分わかった。
「いつからだ」
「……スラムを出たところから」
「最初から……?」
レインは額へ手を当てた。
三時間。自分のすぐ後ろを、ずっとついて来ていた。それに気づかなかった。しかも、山賊に襲われるまで。
負傷していた。寝不足だった。右側に死角があった。言い訳なら、いくつでも浮かぶ。
だが、ミーナが危険な目に遭った事実に変わりはない。
「帰れ」
レインは短く告げた。
「え?」
「今すぐ、スラムへ帰れ」
「嫌」
「嫌じゃない」
「レインを追いかけて来たのに、帰るわけないでしょ!」
「今のを見ただろ!」
静かな森林の中に、レインの声が響いた。ミーナが目を見開く。
レインが本気で怒鳴ることは、今まで滅多になかった。
「ここはスラムじゃない。俺たちを知ってるやつも、助けてくれるやつもいない。さっきは山賊だった。次は、魔物かもしれない」
「でも、レインが助けてくれたよ」
「俺が気づかなかったら、どうなってた?」
ミーナは何も答えられない。
「俺がもう少し先まで進んでたら? 声が聞こえなかったら? あいつらが三人じゃなくて、十人だったら、どうなっていたと思う?」
「それは……」
「お前が、どうなってたか分からないんだぞ!」
どうしようもなく怒りが湧いていた。だが、ミーナに対してではない。危険に気づけなかった自分に。置いていけば安全だと思い込み、何も伝えず出て行った自分自身に。
あと少し気づくのが遅れていたら。男たちがミーナを連れ去っていたら。その先を想像するだけで、身体の内側が冷たくなる。
「帰れ」
レインは、もう一度告げる。
「バルドたちがいる。マルタ婆さんもいる。スラムに戻れば安全だ」
「レインは?」
「俺は一人で平気だから」
「怪我してるのに?」
「これは、大した怪我じゃない」
「でもさっき、血が出てたよ」
「それでも、お前を守りながら歩くよりはマシだ」
口に出した直後、ミーナの顔が悲しみに歪んだ。
——違う。そういう意味で言ったつもりはなかった。
すぐに気づいたが、出た言葉はもう戻らない。
「やっぱり、わたしは邪魔なんだ」
「そうじゃない」
「戦えないから?」
「違う」
「何もできないから?」
「違うって言ってるだろ」
ミーナの碧色の瞳に涙が浮かんだ。
「でも、いまも何もできなかった」
声が震えている。
「ついていくって決めたのに、山賊に見つかって、捕まって、……またレインに助けられた」
「さっきのは、相手が悪かっただけだ」
「違う!」
ミーナは手で涙を拭った。けれど、次から次へと溢れてくる。
「ベルナードって人が来た時も、わたしは何もできなかった。レインが傷だらけで運ばれてきたときも、何があったのかさえ分からなかった」
「あれは、お前のせいじゃない」
ミーナは両手を強く握りしめ、強く言った。
「分かってる。でも、何もできなかったことが悔しかったの!」
レインは、言葉を失った。ミーナは泣きながら、それでも目をそらさずにレインを見上げていた。
「ずっとレインに助けてもらってた」
涙で籠った細い声が、静まり返った森林に響く。
「食べ物がないときも、怖い人に絡まれたときも、盗みに失敗したときも」
レインにとって、どれも特別なことではなかった。ただ、当たり前にしてきたことだった。
「お姉ちゃんがいなくなってからも、ずっとそばにいてくれた」
その名を口にしなくても、誰のことか分かる。
五年前、ミーナの姉が亡くなった日。棺へすがりつき、声が枯れるまで泣いていた幼い少女を見ながら、レインは誓った。この子を守る。もう二度と、大切な人を失わせない、と。
「だから、今度はわたしがレインの助けになりたい」
「ミーナ……」
「力が足りないのは、分かってる。さっきだって助けてもらった」
ミーナは震える声で続けた。
「でも、そばにいることはできる。怪我をしてるなら、手当もして、荷物も持てる。それに、ご飯も」
「お前の料理は……」
「今は料理の話じゃない!」
「悪い」
反射的に口を挟んでしまった。さっきまで泣いていたミーナの目に怒りの色が混ざる。少しだけ、いつもの調子が戻ってきたことに安堵した。
ミーナは、はっきりとした声で言った。
「迷惑でも、邪魔だったとしても、少しでもレインを支えたい」
その言葉が、レインの胸に深く突き刺さった。迷惑だとも、邪魔だとも思ったことはない。ミーナを助けることは、自分にとって当たり前だった。食べ物を分けることも、失敗をかばうことも。眠れない夜に話し相手になることも、自分にとっては当然のことだった。見返りなんて求めたことはない。
けれど、ミーナはその優しさを受け取っていた。大切に、心の奥へしまい込んでいた。今度は、自分が返したいと、そう言っている。
「レインは、わたしがいないほうが、いい?」
恐る恐る、尋ねられる。その顔を見た瞬間、レインは胸の奥を強く掴まれたような気がした。
「……そんな顔、するなよ」
「だって」
「もう、充分、貰ってるから。そんなこと気にするな」
ミーナが涙に濡れた目を瞬かせる。
「貰ってるって、何を?」
「……色々だよ」
「色々って、何?」
「説明すると長い」
「時間なら、たくさんあるよ」
「俺にはない」
「それ、ずるい」
レインは、困ったように笑った。帰れと言い続けることはできる。無理に街道を引き返させることもできる。だが、ミーナはまたついてくるだろう。
さっきのような危険な目に遭ったとしても。今度こそ見つからないように、もっと危険な道を選んでくるかもしれない。それなら、目の届く場所に置いといたほうがいい。
——本当に、それだけか?
心の奥から自身へ問いかけが浮かぶ。
一人で歩き始めたはずの道で、ミーナの姿を見た瞬間、どこかで安心してしまっていた。置いてきたはずの家族が追いかけてくれたことを、嬉しいと思ってしまっていた。
今は、その気持ちに蓋をし、閉じ込める。
レインは、小さく息を吐いた。
「それでも、まだ一緒に行きたいっていうなら、飽きるまでそうすればいい」
ミーナが固まった。
「……いいの?」
「勝手にしろって言っただけだ」
「それ、レインの『いいよ』って意味でしょ!」
「誰に教わったんだ、そんな翻訳」
「ずっと一緒にいるから、分かるもん!」
涙を流したまま、ミーナは笑った。
「じゃあ、『そう』する!」
レインは手を伸ばし、ミーナの頭を乱暴に撫でた。金色の髪に絡んでいた葉が、一枚地面に落ちる。
「……悪い。また泣かせたな」
「レインが悪い」
「ああ」
「すごく悪い」
「分かったから」
「あとで何か奢って」
「元気になるのが早い」
レインは、ミーナの頭から手を離した。地面に転がっていた投げナイフを拾い、土を払って彼女へ差し出す。
「さっきのは、悪くなかった」
「え?」
「棍棒を持ってたやつに投げただろ」
「でも、柄しか当たらなかった」
「結果的には、あれでいい」
レインは、ミーナの手のひらにナイフを置いた。
「大きな隙を作れた。俺一人だったら、あのままもう一発貰ってたかもしれない」
「役に立った?」
今度は迷わず答える。
「ああ、助かったよ」
ミーナの顔が、少しだけ誇らしげに綻んだ。
涙を拭い、地面に落ちていた大きな荷物へ向かう。両手で持ち上げようとするが、荷物はほとんど動かなかった。
「……これ、重い」
「何を入れてきた?」
ミーナが荷物の口を開きながら、答える。
「服と食べ物と、毛布と鍋と、お皿と水と……」
「家ごと持ってくる気だったのか?」
「レインが何も持ってないかもしれないと思って」
レインは、荷物の中を覗き込む。
「だからって、鍋を二つも持ってくるやつがあるか」
「料理によって使い分けるの!」
「……お前が?」
「それ、そういう意味?」
ミーナが睨んだ。レインは答えず、荷物の中身を取り出し始めた。
「整理するぞ」
「捨てないでよ?」
「鍋は一つでいい。皿も二枚」
「二人いるよ?」
「同じ鍋から食えばいい」
「行儀悪くない?」
「スラムの盗賊が、今さら行儀を気にするな」
「着替えは?」
「三着もいらない」
「女の子には必要なの!」
「じゃあ、スラムに帰れば」
「一緒に行くって言ったばっかりなのに!」
「荷物持ちになるとは言ってない」
言い合いながら、二人は荷物を整理した。
結局、鍋一つと予備の皿などを、少し先にあった旅人用の休憩小屋へ置いていくことにした。必要な旅人が使うだろう。
荷物を背負い直したミーナは、今度は軽々と立ち上がり、レインへ尋ねた。
「それで、どこに向かってるの?」
「決めてない」
「えっ?」
「とりあえず、次の町だな。そこで仕事を探す」
「目的地も決めずにいままで歩いてたの?」
「俺にも、そういう自由なところがあるんだよ」
「何も考えてないだけじゃない?」
「人聞きが悪いな」
二人は並んで街道を歩き始めた。
ほんの少し前まで、一人だった道。隣に足音が一つ増えただけで、景色まで違って見えた。空の色も、風の音も。道端の何でもない花さえも。
レインは、その感情を口には出さなかった。




