小さな影
【再編集】9/5 加筆修正しました。
レインが灰冠街を離れ、すでに三時間経過していた。
王都から続くその道は、旅人や行商の姿も未だ捉えることはなく、ただ一人の影を映していた。
振り返ると、王都を囲む荘厳な白壁はすでに朧げに見える。朝日に照らされ、眩さだけが目に焼き付いた。
王都近辺の整然と並べられた石畳はいつの間にか途切れ、日頃行き交う人々や馬蹄などで踏み固められた土の道へと変わっていた。
道のわきには、背ばかりが高い草が青々と生い茂っている。
目の前に続く道を辿っていくと、日の光を遮るかのように木々の群集が敷き詰められていた。
遠くから小鳥のさえずりが聞こえてくる。空気は澄み、風でそよぐ葉音まではっきりと聞こえた。
レインは街道脇で一度足を止め、木の幹に片手をついた。脇腹が痛む。
昨日の夜、復興管理局の衛兵から暴行を受けたときに負傷した場所だ。
マルタがきつく包帯を巻いてくれたが、いますぐに治ることはない。
——三時間は、張り切りすぎたか。
痛みは刻々と増し、この変化は気のせいであると、自身に言い訳することは難しくなっていた。
それでも、長く休むことはできない。
バルド達が仕事を終えスラムへ戻れば、自分が追放されたことを知る。追いかけてくる可能性は、少なからずあるだろう。
彼らは仲間想いで、状況を選ばず行動に出てしまうところがある。その中でもバルドが群を抜いていた。
彼は、怒りが行動に直結しやすく、三人の中で一番危険な奴であった。それは、もう、間違いなく。
殴られるところを想像しただけで、脇腹とは別のところが痛くなってきた。
「……あいつにだけは、捕まりたくないな」
今、痛む箇所が増えるのは、最も避けたいことだった。
喉が渇いていることに気づく。水が入っている筒を取り出し、口に流し込んだ。温さが喉を通る。
飲み水の残りは少ない。
宿場町や旅人用の井戸がそろそろ見えてくるはずだ。そこで補給すればいい。さほど心配するほどの事ではない。
前に進むことを決め、再び地に足を踏みしめ始めた。
背後から迫ってくる音や気配はまだ無かった。
レインは、通常であれば前方だけでなく、四方八方漏れなく警戒している。
盗賊として生き抜くうえで、周囲への警戒は最も優先するべきことであり、習慣となっていた。
しかし、今日は違っていた。
寝不足。全身の怪我。故郷を失ったというどうしようもない損失感。それらのすべてがレインの集中力を奪っていた。
さらには、右目は眼帯で覆われており、大きな死角となっている。
その死角を縫うように、小さな影が後について来ていることに——レインは全く気付いていなかった。
◇
「よし、まだ気づいてない」
レインからかなり離れた茂みの中で、ミーナは小さく息を吐いた。
金色のポニーテールには、葉や小枝がいくつも絡みついている。
背中には、衣類や食料、鍋などを詰め込んだ大きな荷物を抱えていた。片手には、朝食代わりの黒パンを握っていた。パンはすでに半分ほど減っている。
空腹だったからではない。緊張すると、口に何かを入れていたくなるのだ。
ミーナは、スラムを出たときからずっとレインの後を追っていた。
最初は、すぐに見つかると思っていた。レインは、盗賊団の中でも、特に気配に敏感だ。
尾行の訓練では、シオンでさえ苦労する。ミーナなど、街角を二つ曲がる前に見つけられてもおかしくはなかった。
けれど、今日のレインは歩き方がおかしい。
少し身体を傾けるようにして歩き、ときどき脇腹のあたりを押さえている。
何度も立ち止まり、木や岩に手をついていた。
——やっぱり、怪我してる。
昨夜、レインが傷だらけでマルタの家へ運び込まれたことは、知っていた。
何があったのかは、誰も教えてくれなかった。
スラムから出発する前の夜更け。ミーナがマルタへ問い詰めると、老婆は薬草を刻む手を止めずに言った。
『追いかけたいなら、自分で決めな』
それだけだった。止めもしない、勧めもしない。
ただ、自分で決めろと言われた。だから、ミーナは決めた。追いかける、と。
見つけたら、何も言わずに消えたことを怒る。それから、『一緒に行く』と言う。レインが嫌だと言っても、聞くつもりは無かった。
「今度は、置いて行かれないんだから」
ミーナは黒パンを口にくわえ、茂みの隙間から距離を確かめた。
街道は大きく曲がり、森の中へ続いている。少し先で、レインの赤い髪が木々の向こうへ消えた。
「やばっ、足速い」
見失わないように、ミーナは茂みを掻き分け進んだ。街道に出れば、さすがに見つかってしまう。
少し遠回りになるが、森の縁を進み、レインの右後方へ回り込むことにした。
眼帯で覆われた右目側。そこなら、彼の死角に入りやすい。その判断自体は、間違ってはいなかった。
ただし、ミーナはレインばかりを見ていた。自分が誰かに見られている可能性までは、考えていなかった。
「おい」
突然、背後から男の声がした。ミーナの足が止まる。背中に冷たい汗が流れた。
ゆっくりと振り返る。木の陰に、汚れた革鎧を身に着けた男が立っていた。
伸び放題の髭。日に焼け、頬には青黒い痣が残る。手には刃こぼれした短剣が握られていた。
両脇側からも、二人の男が姿を現した。全部で三人。全員が、王国の衛兵や旅の冒険者には見えなかった。
「こんなところで、何してるんだ?」
一人がにやにやと笑いながら、近づいてくる。
「街道から外れると危ないぞ、お嬢ちゃん」
「そういうおじさんたちの方が、一番危なそうだけど」
ミーナは反射的に、腰の投げナイフへ手を伸ばした。
男の視線が、その動きを追う。
「おっと、同業か?」
「だったら何?」
できる限り、強気に答える。
足が震えていることを悟られないように、靴の底で地面を強く踏みしめた。
相手は三人。自分は一人。戦って、勝てるとは思えない。けれど、逃げるだけなら。
「金目のものは持っていないよ。別の旅人を探せば?」
「立派な荷物を背負ってるじゃねえか」
「これ全部、着替えだから」
「なら、その荷物を置いていけ」
「嫌」
男の笑みが消えた。
「状況がわかってねえみたいだな」
左右にいた二人がゆっくりと回り込んでくる。逃げ道を塞ぐつもりだ。
ミーナは周囲を見回した。正面に一人、左右に一人ずつ。
後ろは木々が密集し、通り抜けられない。
自分一人なら、隙を作って街道へ抜けられるかもしれない。けれど、背中の荷物が邪魔だった。
——せっかく、持ってきたのに。
衣類、毛布、鍋、食糧。
レインが何も持たずに飛び出してるかもしれないと思い、必要そうなものを詰め込めるだけ詰め込んできた。
置いていきたくない。だが、荷物よりも命だ。
「わかった」
ミーナは大きな鞄の肩紐を外した。
「物分かりがいいじゃねえか」
「今、渡すね」
大きな荷物を両手で持ち上げ——正面の男へ思い切り投げつけた。
「うおっ!?」
男の視界が塞がれた。同時に、ミーナは投げナイフを引き抜き、左側の男へ投擲した。
狙ったのは顔ではなく、棍棒を握っている腕。刃は男の腕をかすめ、背後の木の幹に突き刺さった。
「このガキ!」
男の怒声が響いた。
ミーナは振り返らず、街道へ向かって走った。茂みを掻き分ける。
あと少し。あの木々を抜ければ、レインの姿が見えるはずだ。
「レイ——」
名前を呼ぼうとした瞬間、後ろから髪を掴まれた。
「痛っ!」
強く引かれ、身体が地面に倒れた。受け身をとったが、腕と膝を土に打ちつけた。
口の中に土と草の味が広がった。
起き上がろうとする前に、男の靴が背中を踏みつける。
「手間かけさせやがって」
「離して!」
ミーナは腰のナイフに手を伸ばすが、その手も蹴られる。ナイフが地面を滑り、手の届かない場所へ転がった。
ミーナは逃げ足には自信があった。しかし、この山賊達は、いとも簡単に追いついてきた。
地の利は向こうにある。見た目の通り只者ではない。でも、諦めるわけにはいかなかった。
「盗賊なら、売れる物をどこに隠してるかくらい知ってるだろ」
男がミーナの腕を掴み、無理やり立たせる。
「仲間の居場所を教えてもらおうか」
「そんなのいないってば!」
「さっき、誰かを追ってただろ」
ミーナの顔から血の気が引いた。レインの存在に気づかれている。
自分が声を上げれば、彼は戻ってくるだろう。でも、今は怪我を負っている。
この粗暴な三人を相手にすれば、怪我が悪化するかもしれない。
そもそも、これは勝手についてきた自分が招いたことだ。迷惑をかけるわけにはいかない。
——呼んじゃダメ。自分でどうにかしなければ。
「一人だって言ってるでしょ!」
ミーナは腕を掴んでいる男の太い腕へ、思い切り嚙みついた。
「痛ぇ!」
男の手が緩む。その隙に逃げようとしたが、次は痩せぎすの男に肩を掴まれた。
「いい加減にしろ!」
男が棍棒を振り上げる。ミーナは反射的に目を閉じた。肩に力を入れ、来るはずの衝撃に耐えようとする。
だが、いつまで経っても、棍棒は降ってこなかった。代わりに、鈍い音が一つ響く。
「ごはっ……!」
肩を掴んでいた手が離れた。ミーナが恐る恐る目を開く。
目の前の痩せた男が、膝から地面へ崩れ落ちていくところだった。その背後には、赤髪の青年が立っている。
左手には、鞘に収めたままの短剣。柄の先端で、男の首筋を正確に打ち抜いたらしい。
「三人がかりで子供を囲むなんて、ずいぶん立派な仕事をしているな」
「レイン!」
ミーナが名前を呼んだが、彼はミーナを見なかった。残る二人へ視線を向け、いつもの軽い笑みを浮かべている。だが、左の青い目は全く笑っていなかった。
「誰だてめえ!」
「ただの通りすがりだよ」
「こいつの仲間か!」
「……今のところは、知り合いだな」
「レ、レイン!」
「静かにしてろ」
低い声で制され、ミーナは口を閉じた。いつものレインとは、まるで違っている。
声を荒らげているわけではない。それなのに、触れれば切れそうなほど鋭い気配を纏っていた。
青黒い痣の山賊が、鈍った短剣を構え、赤髪の青年へ飛び掛かった。
レインは半歩分、身体を逸らす。
突き出された手首を掴み上げ、余った勢いを利用し、近くの木へ投げ飛ばした。
「ぐあっ!」
青黒痣の山賊の身体は回転し、背中から打ちつけた。すかさず手首を蹴りつけ、鈍った短剣を落とさせる。
背後から、大柄な山賊が棍棒を振り下ろしていた。レインは横へ回避しようと身体の向きを変える。
その瞬間、脇腹へ鋭い痛みが走った。
「——っ」
ほんの一瞬、レインの動きが止まる。棍棒が肩を掠め、衝撃で身体がよろめいた。
ミーナは叫んだ。
「レイン!」
大柄な山賊が再び棍棒を振り上げる。その額に何かが飛んできた。硬いが小振りなものが当たったかのような音が響く。
「いってぇ!」
大柄な山賊が額を押さえた。地面に落ちたのは、ミーナの投げナイフだった。
刃ではない。柄の部分が、大柄な山賊の額にぶつかったのだ。
ミーナはまた叫んだ。
「今!」
「言われなくても」
レインは大柄な山賊の懐に踏み込み、空いた腹部を膝で突き上げた。
「ぐばっ……」
大柄な山賊は息を詰まらせ、身体を半分に曲げた。その顎を、鞘に収めた短剣の柄で打ち上げる。
大柄な山賊は白目を剥き、その場に崩れ落ちた。
先刻、木へ投げ飛ばされた青黒痣の山賊が、地面を這うようにして、鈍った短剣へ手を伸ばしている。
レインはその手を、底が硬い靴で踏みつける。鞘から抜いた短剣の刃を山賊の首元へ突きつけた。
刃渡りは短いが、しっかりと磨き上げられ、威迫するには十分だった。
「まだ、やるか?」
青黒痣の山賊の顔から血の気が引く。首を激しく横に振った。
「なら、仲間を連れて消えろ」
「お、覚えてろよ!」
「覚えておく価値がないから、無理だな」
レインは短剣の刃先を向けたまま、山賊を見下ろした。
青黒痣の山賊は、倒れた仲間を引きずりながら、木々の奥へ消えていった。
その姿が見えなくなっても、レインは短剣を手に握っていた。




