夜明け前の追放者
目を覚ますと、見慣れた天井があった。雨漏りの跡、吊るされた薬草。そして鼻をつく煎じ薬の匂い。
「起きたかい」
椅子に座っていたマルタが、こちらを見た。白髪を後ろで雑にまとめた、小柄な老婆だ。
「……ここは天国か?」
「もう一度寝かせてやろうか。今度は永遠に」
「婆さんがいるなら、やっぱり地獄だな」
額を小突かれた。軽い一撃だったはずなのに、痛みが頭全体に響く。
「いっ……けが人には優しくしろよ」
「自分から殴られに行く馬鹿は、けが人とは呼ばないよ」
レインは、身体を起こそうとした。脇腹に鋭い痛みが走り、すぐに諦める。
「住民は?」
「解放されたよ。井戸も明日には使えるとさ」
「そっか」
安堵がそのまま声に出てしまった。マルタはそれを聞き逃さなかった。
「満足かい?」
「……何が?」
「自分一人を差し出して、みんなを救った気分になるのは」
レインは何も答えない。
「バルド達を外へ出したのも、あんただろ」
「少し仕事を頼んだだけだ」
「シオンが帰ってきたら、あんたの嘘を一枚ずつ剝いでくれるだろうさ」
「その頃には、俺はいないけどな」
部屋に沈黙が落ちた。マルタの顔から、怒りが消えた。代わりに、何もかも分かってしまった者の目が、レインへ向けられる。
「いつ出るんだい」
「夜が明ける前」
「ミーナには?」
「言わない」
「……そうかい」
罵られると思っていた。杖で殴られるくらいは覚悟していた。だが、マルタは長く息を吐いただけだった。
やがて立ち上がり、部屋の奥にある古い棚を開ける。取り出したのは、両手に収まるほどの小箱だった。
銀色とも青色ともつかない、不思議な金属でできている。表面には、星の軌跡を思わせる複雑な文様が刻まれていた。鍵穴はない。蓋らしい継ぎ目さえ見当たらない。
「なんだ、それ」
「ガルドが昔、遺跡で拾ってきたものさ」
その名前を聞いた瞬間、レインの表情が止まった。マルタは小箱に着いた埃を、袖で拭う。
「あの馬鹿、ある日いきなり持ってきてね。日頃の礼だとさ」
「ガルドが?」
「洒落たものじゃ、あたしは喜ばない。実用品じゃ味気ない。散々悩んだ挙句、開きもしない箱を寄越したんだよ」
「……あいつらしいな」
「本当にね。役に立たないところまで、あいつらしい」
マルタは小箱を、レインの胸元に置いた。
「持っていきな」
「それは婆さんが貰った物だろ」
「今のあたしには必要ない」
「俺にも必要ないよ。荷物になるだけだし」
「なら、道中で売ればいい」
「開きもしない箱が売れると思うか?」
「盗賊だろう。口先でどうにかしな」
レインは小箱を見つめた。薄暗い部屋の中でも、刻まれた文様だけが微かに光を宿しているように見える。
ガルドが触れたもの。幼いレインを拾い、育て、最後には命を投げ出して人々の未来を守った男が、どこかの遺跡から持ち帰った物。
「どうして、今まで俺に渡さなかったんだ?」
「渡す理由がなかったからさ」
マルタは椅子に座りなおした。
「あんたには、この街があった。仲間がいた。帰ってくる場所があった」
「今もあるだろ」
「だったら、どうしてそんなに辛そうなんだい?」
言葉に詰まった。身体中が痛む。だが、マルタが言っているのは、そんな傷のことではなかった。
ずっと胸の奥に押し込めていたものが、遠ざかっていく。この街も、仲間も、ミーナも。自分の手で手放そうとしている。
あとに続ける言葉を探したが、何も見つからなかった。
マルタは、まっすぐレインを見た。
「あんたは、昔からそうだ。いつも一番に人を助けるくせに、人には自分を助けさせない」
「俺は助けが必要なほど、困ったことがないからね」
「その有様で言う台詞かい」
「これは、少し転んだだけだって」
「ずいぶん大勢の靴跡がつく転び方だね」
レインは視線をそらした。
「……ただ、巻き込みたくなかった」
「それを決めるのは、あんたじゃないよ」
マルタのその言葉は胸に重く響いた。唾を呑み込み、短く返す。
「俺の問題だから、いいんだって」
「みんなにとっても、あんたは大事な仲間なんだよ」
聞きたくない言葉だった。
仲間を見捨てるな。弱いやつから奪うな。生き残れ。ガルドの教えは、今でも覚えている。
守るべきものも、助けるべき人間も、分かっているつもりだった。ただ、その中に自分を入れる方法だけが、分からなかった。
自分のために誰かが傷つくくらいなら、自分一人が消えればいい。そのほうが、ずっと簡単だった。
「ガルドが今のあんたを見たら、大馬鹿野郎って殴るだろうね」
マルタが言った。
「その名前を出すのは、ずるいだろ」
「だったら、代わりにあたしが殴ってやろうか」
「それはもう勘弁してくれ。今日は十分殴られた」
レインの口から、力のない笑いがこぼれた。
小箱を持ち上げる。見た目より、ずっと重い。
「……少しの間、借りるだけだからな」
「いつか、返しに来な」
マルタの声が、ほんの少し震えていた。レインは、気づかないふりをした。
「ああ」
守れるかどうかも分からない約束を、口にした。
◇
夜明け前。スラムは、深い眠りの中にあった。
レインは、ガルドの小箱を布で包み、鞄の底へ入れた。使い込んだ二本の短剣。飲み水の入った筒。
少量の携帯食料。硬くて、ぼそぼそしていて、腐りにくいこと以外に褒めるところのない代物だ。
ニコが煎じた、一番よく効く傷薬。それから、数枚の硬貨。
これが今のレインの全財産だった。
結果論だが、やり方を間違えたのだろう。
盗まれた物を盗み返す。それなら分かる。鍵を開ける方法も、見張りを抜く方法も、逃げ道の作り方も知っている。
けれど、権力を持った人間を相手にするとき、どう戦えばいいのか。それだけは、最後まで分からなかった。
「……まあ、なんとかなるか」
シオンがいる。あいつは自分より頭が回るし、文字にも強い。ニコもいる。バルドもいる。
三人揃えば、たぶん自分一人よりよほど上手くやる。あとは任せればいい。
「身軽でいいねえ」
誰に聞かせるでもなく呟く。長く歩くと脇腹が痛んだが、止まるほどではない。
路地を抜ける途中、レインは一軒の家の前で足を止めた。
ミーナが眠っている家だ。窓の向こうから、かすかな寝息が聞こえる。扉を開ければ、顔を見ることができる。一言だけ、別れを告げることもできる。
けれど、起きたミーナは必ず言うだろう。自分も行く、と。そう言われたら、置いていけなくなる。
レインは扉へ伸ばしかけた手を、ゆっくり下ろした。
——ごめんな。
声にはしなかった。謝ってしまえば、自分が悪いことをしていると認めるような気がした。
これは必要なことだ。自分がいなくなれば、ベルナードはスラムへ手を出さない。バルドたちなら、この街を守れる。ミーナも、いつか自分のいない暮らしに慣れるだろう。
——大丈夫だ。
心の中で、何度も繰り返した。誰へ言い聞かせているのかは、分からなかった。
広場を通る。新しく直した共同井戸。子供たちが遊んでいた空き地。修理したばかりのかまどからは、まだ昨日の薪の匂いが残っている。
ここにあるものは全部、自分が守りたかったものだ。そして今、そのすべてを置いていこうとしている。
——まるで、あいつみたいだ。
五年前。誰にも何も告げず、姿を消した男がいた。あのときのレインには、理解できなかった。
どうして、何も言わなかったのか。どうして、一人で消えたのか。どうして、残された者の気持ちを考えなかったのか。
今なら、少しだけ分かる。言葉にすれば、引き止められるからだ。手を差し伸べられたら、その手を取りたくなってしまう。
だから、何も言わずに去る。残される側が、どれほど傷つくか知りながら。
——結局、俺も同じか。
自分だけは違うと思っていた。ネロの選択を、ずっと許せずにいた。けれど今、自分は同じことをしようとしている。
ガルドが生きていれば、すべて違っていただろうか。何度も考えたことだった。だが、もういない人間のことを考えても、何も変わらない。
その事実だけは、五年経っても変わらなかった。
レインは自嘲するように笑う。
「あのときから、やっぱり、弱いままなんだな。俺は」
答える者はいなかった。
東の空が、わずかに白み始めている。街の外へ続く坂道を登った。頂上で足を止め、振り返る。
修繕のあとが残る屋根。狭い生活通路。不格好に建て直された家々。
美しい場所ではない。王都側の人間が見れば、汚れた街だと顔をしかめるだろう。
それでも、レインにとっては唯一の故郷だった。
「……じゃあな」
誰にも届かない声が、夜明け前の街に溶けていく。
レインはその朝、長年暮らした灰冠街を去った。鞄の底には、ガルドが遺跡から持ち帰った、開かない小箱。
背後には、信じるしかなかった復旧管理官との約束。
あの追放令に、何が書かれていたのか。血印を押した紙切れに、どれほどの価値があるのか。
レインには確かめる術がない。
ただ、信じるしかなかった。自分が去れば、街は守られる。ミーナたちは、平穏に暮らせる。そう信じなければ、一歩も前へ進めなかった。
——無責任だな。
自分が守るつもりだった人々の幸せを、これからは遠くから祈ることしかできない。
それでもレインは、振り返らなかった。
このときの彼は、まだ知らない。
鞄の底で眠る小箱が、彼を故郷から追放した紙切れなどよりも、はるかに重い運命を背負っていることを。
そしてこの旅の先で、青白く輝く一つの鍵と、滅びた国の王女に出会うことを。




