追放令
最初に閉じられたのは、共同井戸だった。管理局の許可なく修繕された設備には、安全上の問題がある。そんな理由で、管理局の衛兵が井戸を封鎖した。
次に、共同炊事場の使用許可が取り消された。出所不明の物資——すなわち盗品を使用した疑いがあるという。診療所への薬の配給も止められた。
そしてベルナードは、住民を一人ずつ連行し始めた。
「ルカ婆さんの息子が連れていかれた」
路地裏でシオンが告げる。
「盗まれた小麦を運んだ疑いで、だそうだ」
「あいつはやってねえだろ」
バルドが拳を握りしめた。
「誰がやったかなんて、もう分かってんだろうが。なんで無関係な奴を捕まえるんだよ」
ニコが不安そうに呟く。
「レインがやったっていう証拠がないから、周りの人を捕まえてるのかな……」
シオンが静かに言う。
「証拠が必要な相手なら、ね」
レインは舌打ちを吞み込んだ。
共同井戸の前には、水を求める住民が長い列を作っている。復興管理局が用意した水を受け取るには、新たに発行された配給札が必要だった。
配給札を受け取れるのは、管理局へ労働登録をした者だけ。仕事を選ぶことはできない。賃金も、労働時間も、すべて管理局が決める。
復旧のために送られた支援物資が、今度は住民たちを従わせるための鎖へ変わっていた。
——俺を捕まえれば済む話だろ。
管理局は、最初からレインを疑っている。
それどころか、犯人だと確信しているはずだ。なのに、なぜ捕まえない。なぜ無関係な住民を苦しめる。
答えは、考えるまでもなかった。
ベルナードが欲しいのは、盗まれた物資ではない。レインを捕まえることでもない。自分の意思で膝をつかせたいのだ。
「管理官をさらうか? 一晩、逆さに吊るしときゃ、大抵のやつは素直になる」
バルドが低い声で言った。レインが言葉を返す。
「ならなかったら?」
「二晩吊るす」
「そりゃあ、頭のいい作戦だな」
「お前に褒められると腹が立つな」
レインは、いつものように笑ってみせた。
「今は動くな。相手は王国の役人だ。こっちから手を出したら、スラム全体が反乱分子扱いされる」
「じゃあ、黙って水まで取り上げられろってのか!」
バルドが勢いよく声を張り上げた。
「そうは言ってないだろ」
「だったら、俺たちにも話せ!」
バルドがレインの胸倉をつかんだ。
「お前、何か隠してるだろ」
「俺が隠し事をしたことなんてあるか?」
「山ほどあるから言ってんだよ!」
怒鳴り声が、狭い路地に響いた。
背丈が小さなニコが慌てて二人の間へ入る。
「バ、バルド、落ち着いて。レインにも考えがあるんだよ」
「こいつの考えってのは、いつも全部一人で片づけることだろうが!」
レインはバルドの手首を取り、するりと拘束を抜けた。
「安心しろって。今回は、お前たちにも仕事がある」
「……何?」
「北の集落で薬が足りないらしい。明日の朝、商人の護衛に出てくれ。バルドとニコ、二人でな」
ニコが目を瞬かせる。
「でも、今ここを離れるのは……」
「報酬がいい。薬も少し分けてもらえる。今の俺たちには必要だろ」
嘘ではない。ただし、急いで行く必要のある仕事でもなかった。レインはシオンへ視線を移す。
「お前には、西の旧水路を調べてほしい。管理局が物資の運搬に使ってるって噂がある」
「それ、誰から聞いた?」
「情報源は秘密だ」
「そんな噂は聞いていない」
「だから調べるんだよ」
シオンの目が細くなった。しばらく、無言でレインを見つめる。
レインは笑みを崩さなかった。こういうとき、先に目をそらしたほうが負けだ。もっとも、シオン相手に勝てた記憶はほとんどない。
「帰ったら、全部話してくれるんだよな」
「ああ」
「嘘、つくなよ」
「期待に沿えるよう、努力するよ」
「その台詞、今まで何回聞いたかな」
シオンは、それ以上追及しなかった。バルドは納得していない顔をしていたが、薬が必要なのは事実だ。ニコに背中を押されるようにして、路地の向こうへ歩いていく。
三人の背中が見えなくなったあと、レインは長く息を吐いた。
——これでいい。今回も、きっとうまく片づけられる。もし、うまくいかなかったとしても、背負う危険は自分一人分でいい。
ずっと、そうやってきた。それが悪い癖だという自覚もある。気づけば三人との間に、少しだけ嫌な空気が流れていることもあった。
けれど、何日か経てば元に戻る。バルドたちは怒りながら、それでも最後には自分を信じてくれる。
それが、ありがたかった。だからこそ、今回ばかりは、巻き込めなかった。
「レイン?」
振り返ると、ミーナが立っていた。碧色の瞳が、不安そうにこちらを見ている。
「どうした?」
「みんな、どこかに行くの?」
「仕事だよ。二、三日で帰る」
「レインは?」
「俺は留守番」
「ほんと?」
「ほんとだって。疑り深いな」
レインはミーナに近づき、丸い額を指で軽く弾いた。
「いったぁ!」
「暇ならマルタ婆さんを手伝ってやれ。井戸が使えないから、水汲みが大変だろ」
「レインも手伝えばいいじゃん」
「俺には、もっと重要な仕事がある」
「何?」
「昼寝」
「もう!」
ミーナが頬を膨らませた。
その表情を目に焼きつける。胸の奥に生じた痛みは、笑顔の下へ押し込んだ。
◇
その日の夕刻。レインは単身で、復興管理局の建物を訪れた。元は、裕福な商人の屋敷だったらしい。
スラムの中では珍しく、石造りの壁と頑丈な鉄扉がついている。
執務室の奥では、ベルナードが上等な酒を飲んでいた。机の上には、二枚の書類が並べられている。
「仲間を地区外へ出したそうだな」
ベルナードが杯を揺らしながら言った。
「耳が早いな」
「この地区で、私に隠し事ができると思わないことだ」
「盗んだ物資の行き先は、見つけられなかったみたいだけど?」
偉そうな管理官——ベルナードの頬がわずかに引きつった。二人の衛兵が、レインの背後に回る。
そして、ベルナードが口を開いた。
「座れ」
「立ったままでいい。あんたと長話するつもりはない」
「自分の立場がわかっていないようだな」
「分かってるよ」
だから、ここへ来た。レインは机へ近づき、並べられた書類を見下ろした。
細かな文字が、紙面をびっしりと埋め尽くしている。
字は、まったく読めないというわけではない。酒場の看板、荷札に書かれた品名。金額や簡単な依頼書。
盗賊として生きているうちに、必要な文字は覚えた。だが、役所が使う回りくどい文章となれば、話は別だった。
ところどころ、知っている単語が目に入る。窃盗、反抗、追放。それ以外は、何が書かれているのか分からなかった。
「なんて書いてあるんだ?」
レインが尋ねると、ベルナードはわずかに口元を緩めた。
「自分で読めないのか?」
その顔を見て、ようやく分かった。この男はこれがやりたかったのだ。
「生憎、立派な学校に通わせてくれる親がいなかったんでね」
レインは椅子へ腰を下ろし、背もたれへ身体を預けた。
「声に出して読んでくれよ。偉い役人なら、それくらいできるだろ」
ベルナードは鼻を鳴らし、書類を手に取った。
「管理物資の窃盗。管理局への反抗。住民を扇動し、地区の治安を著しく乱した罪。——以上の罪により、貴様をこの地区から永久に追放する。許可なく戻った場合は身柄を拘束し、王国法に基づいて処罰する」
淡々と罪状を読み上げるベルナードの顔を眺めながら、レインはふと考えた。
——俺は、こいつが嫌いなのだろうか。
不思議と、そこまでの嫌悪はなかった。
権力を手にすれば、振るいたくなる。それが人間というものなのかもしれない。
自分だって、同じ立場に置かれれば、一度くらいはそんな考えが頭をよぎるだろう。
ベルナードもまた、それなりの身分の家に生まれ、親の金で学校に通い、親の名と権力によって今の地位を与えられたのだろう。
一見すれば、何不自由ない人生だ。
けれど、生まれたときから進む道を決められ、自分の意思で選べるものなど、どれほどあったのだろうか。
敷かれた道を歩いた先で、ようやく手に入れた自分だけの権力。
自由に使える金、命令に従う部下。そして、目の前を通り過ぎる支援物資。
ベルナードにとって、それらは数少ない、自分の意思で好きにできるものだったのかもしれない。
そう考えれば、理解できなくもなかった。だからといって、他人を踏みつけていい理由にはならない。
どんな事情があろうと、ベルナードが奪ったものは、灰冠街の住民たちが生きるために必要としていたものだ。その行いを許すつもりはない。
レインはベルナードから視線を外し、その手にある書類へ目を向けた。
——そして、そこに最大の盗人の罪だけが、どこにも記されていない。
「ずいぶん大げさだな」
「事実を記したまでだ」
「支援物資を横流しした役人については、何も書いてないみたいだけど?」
「無駄口は慎め」
ベルナードの頬が、また引きつった。
図星を突かれるたびに顔へ出る。役人には向いていても、賭け事には向いていない男らしい。
「俺が出ていけば、井戸も、炊事場も元に戻す。捕まえた住民も解放するんだな?」
「ああ。今夜中に解放する」
「口約束じゃ信用できないな」
「お前に条件をつける権利はない」
ベルナードは書類を机へ戻した。
「この追放令を受け入れるなら、血印を押せ」
衛兵が机の上に、小さな刃物と赤黒い印肉を置いた。レインは、それを見下ろす。
「俺が拒否したら?」
「明日から、配給札をさらに制限する」
ベルナードは淡々と答えた。
「まず、お前をかくまっている老婆の分からだ。それから、金髪の小娘——ミーナといったか」
レインの笑みが消えた。
「その名を口にするな」
部屋の空気が変わった。背後の衛兵が剣の柄に手を置く。
レインがその気になれば、二人倒すのに三秒もかからない。
ベルナードの喉元へ短剣を突きつけるまで、さらに二秒。そのまま人質に取り、管理局を脱出する。難しくはない。
——それで、どうなる?
王国の役人を襲った盗賊。スラムの住民は、その共犯者。やがて騎士団が押し寄せ、せっかく建て直した街は、再び踏みにじられる。
子供たちの遊んでいた広場に、武装した兵士が並ぶ。マルタの家が壊される。ミーナが捕まる。
その結末だけは、避けなければならない。
レインは目を伏せた。
「……どこに押せばいい」
ベルナードが満足そうに笑い、書類の下端を指した。
「ここだ」
レインは机の上の刃物を手に取った。親指の腹に刃を立て、一息に引く。
薄く開いた傷から、赤い血が滲んだ。印肉など必要ない。
血に濡れた親指を、書類へ強く押し付ける。白い紙の上に、歪んだ赤い指の跡が残った。
名前を書くことすら求められない。ただ、この人間が条件を受け入れたという印があればいい。
「これでいいか?」
「ああ。実に賢明な判断だ」
ベルナードは書類を持ち上げ、血印を確かめた。
その文章が、本当に読み上げられた通りのものなのか。別の条件が書かれていないのか。
レインには確かめる術がない。それでも、押すしかなかった。
椅子から立ち上がろうとした瞬間、背後の衛兵が肩を掴んだ。
「なんだよ」
「盗人には、罰が必要だ」
ベルナードが杯を傾ける。
「住民たちが、お前を英雄と勘違いしないようにな」
拳が脇腹へめり込んだ。息が詰まり、レインの身体が床へ崩れる。次に、背、胸、腰。何度も蹴られた。だが反撃はしなかった。できないわけでは、ない。
反撃すれば、書類に並べられた罪が事実になる。契約を破る口実を与える。だから、両腕で頭を守り、ただ耐えた。
——痛いな。ひどく当たり前の感想が浮かぶ。靴先が脇腹へ入り、視界が白く弾ける。
——バルドなら、最初の一発を食らったあと、十倍にして返すだろうな。もう一発。
——ニコなら、逃げ回って部屋中の物を倒す。頬に硬い靴底が当たった。
——シオンは……殴られる前に、全員の武器を奪うか。
頭に浮かんだ仲間たちを、すぐに追い払う。彼らがここにいなくてよかった。ただ、そう思った。
「連れていけ」
ベルナードの声を最後に、レインの意識は暗闇へ沈んだ。




