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灰冠街の朝

 

 王国最大のスラムにも、朝は来る。降り注ぐ陽光が、真新しい屋根板を淡く照らしていた。五年前まで、この街に朝の光が似合うとは思わなかった。


 それが今では、行儀よく石が積みなおされた水路がある。共同井戸には、金属製の丈夫な滑車が取り付けられていた。

 王都ほど立派とは、お世辞にも言えない。木造、石造も分け隔てなく建物は修繕の跡がむき出しで、相変わらず道幅は狭く、雨が降ると足元は泥にまみれる。


 それでも、ここは——ちゃんと人が暮らせる場所になっていた。


「レイン、そっち行った!」

 広場から子供の無邪気な声が飛んでくる。

 レインが振り向くと、布切れを丸めて紐で絞った球が、顔面を目掛けて——降ってきていた。


「俺に取れって?朝から人使い荒いなあ」

 赤い髪を揺らし、片足で布球を受け止める。そのまま軽く蹴り返した。

 球は子供たちの頭上を大きく越え、——広場の隅で洗濯物を干していた女性の籠へ見事に収まった。

 すぽん、と気持ちのいい音がする。一瞬、辺りが静まり返った。


「……レイン?」

 女性が低い声で名前を呼んだ。

「いやあ、見事な籠だな。まるで球を吸い込んだみたいだ」

「褒めても許さないよ!」


 投げ返された布球を、レインは身体をひねって避けた。

 背後から、子供たちの笑い声が上がる。

「逃げた!」

「ずるいぞ、レイン兄ちゃん!」


「世の中には、正面から受け止めなくていいものもあるんだよ。覚えておけ」

「怒られてるだけじゃん!」

「それは言わない約束だ」

 朝の広場に、また笑い声が広がった。

 レインは子供たちに背を向けながら、そっと口元を緩める。


 ——いい朝だ。そんなふうに思えるようになるまで、五年かかった。

 あの夜、この場所は炎に包まれた。

 家も、人も、当たり前に続くと思っていた暮らしも、多くを失った。それでも、生き残った者たちは瓦礫(がれき)を片づけた。

 焼け残った木材を集め、雨風をしのげる場所を作り、崩れた井戸を掘り直した。王国から復旧支援が入り、木材や食料、薬が届けられたことも大きい。


 もちろん、豊かになったわけではない。今日の食事に困る者はいるし、冬を越せずに死ぬ老人もいる。

 それでも、以前より腹を空かせたまま眠る子供は減った。

 レインにとっては、それだけで十分だった。——少なくとも、今のところは。


「レイン!」


 広場の向こうから、金色のポニーテールを揺らして少女が走ってきた。ミーナだ。

 両手には、焼きたてらしい黒パンを抱えている。


 ミーナが、何か大変なことがあったかのように言う。

「マルタ婆ちゃんが呼んでる! かまどの煙が逆流するって!」

「おかしいな。昨日、完璧に直したはずなんだけど」

「部屋が煙だらけになったって言ってたよ」

「それは気の毒に」


「他人事(ひとごと)みたいに言わないでよ! レインが直したんでしょ!」

「直したさ。煙が出るところまでは確認した」

「煙は外に出さなきゃ駄目なの!」

「難しい注文だなあ」

「普通だよ!」

 頬を膨らませるミーナの手から、レインは黒くて丸いパンを一つ抜き取った。


「あっ!」

「修理代」

「それ、わたしの朝ごはん!」

「仕方ないな。あとで半分やるよ」

「もともと全部わたしのだよ!」


 レインは、近くの石壁を一息で駆け上がり、屋根上を歩き出した。


 屋根上を歩くときは、コツがある。踏み抜かないように、板で隠れ見えない梁の位置を予想するのだ。屋根板が軋む音、沈み方で答えが分かる。

 まだ踏み抜いたことがないから、たぶん全部セーフだ。


 歩きながらパンをひとかじりする。少し硬い。いや、かなり硬い。油断して噛んだら歯のほうが負けそうだ。

 それでも、幼い頃に食べていた石のような干しパンよりは、ずっとましだった。


 そして、忙しそうに土を踏む足音が、まだ追いかけてきていた。


「待てー!」

「朝から元気だな。若いっていいねえ」

「五つしか違わないでしょ!」

「五年もあれば、人は老いるんだよ」

「パン返して!」


 追いかけてくるミーナの声。広場で笑う子供たち。かまどから漂ってくる、焦げた薪の匂い。

 こんな朝が、これからも続けばいい。レインは本気で、そう思っていた。


 ◇


 新しい復興管理官がスラムへやってきたのは、その日の昼だった。

 名を、ベルナード・グロイス。年齢は四十代半ば。よく手入れされた濃紺の上着をまとい、磨き上げられた革靴で泥を踏むたびに、露骨に眉をひそめている。

 その後ろには、王都から同行した十二人の衛兵。荷馬車には、復興管理局の紋章が大きく掲げられていた。

「本日より、この地区の復旧事業および治安維持は、私、ベルナード・グロイスに一任された」


 広場に集められた住民を前に、ベルナードが書状を読み上げる。

 声だけは立派だった。王都の広い議場なら、さぞよく響いただろう。


「これまで行われていた無秩序な自治は、今後一切認めない。支援物資の配布、住居の割り当て、労働許可、露店の営業——すべて、管理局の承認を必要とする」


 住民たちの間に、ざわめきが広がった。少し離れた壁にもたれながら、レインは残った左目を細める。

「偉そうな野郎だな」

 隣で、体格のいい青年——バルドが吐き捨てた。


「実際、偉いんじゃない?」

 小柄なニコが、困ったように眉を下げる。

「王国から正式に任命されてるみたいだし……」

「だからって、あの靴はねえだろ。泥に入る気が一切感じられねえ」

「見るところ、そこなんだ」


 ニコの隣では、黒髪のシオンが黙ってベルナードを観察していた。表情はほとんど動いていない。

 こういうときのシオンは、人の顔よりも手の動きや視線、周囲の配置を見ている。


「どう思う?」

 レインが尋ねると、シオンは短く答えた。

「衛兵の動きが妙だ」

「妙って?」

「管理官を守るより、倉庫と出入り口の監視を優先してる」


 レインは、さりげなく周囲へ目をやった。確かに、十二人のうち半数近くが、支援物資の保管倉庫へ通じる道を押さえている。


「復旧の様子を見に来た人間の配置じゃない」

「へえ」

 レインは小さく笑った。

「相変わらず、嫌なところによく気づくな」

「おまえほどじゃないよ」


 そのとき、壇上に立つベルナードがこちらを見た。目が合う。

 レインは愛想よく片手を上げてみせた。ベルナードの眉間に、深いしわが刻まれる。


「絶対、今ので目ぇつけられたぞ」

 バルドが呆れた声を出す。


「別に何もしてないだろ」

「お前のその笑い方は、何かやったやつの顔なんだよ」

「生まれつきだ。親を恨んでくれ」

「親なんて、いねえだろうが」

「じゃあ、どうしようもないな」

 レインは肩をすくめた。そのときは、まだ笑っていられた。


 ◇


 異変に気付いたのは三日後だった。共同炊事場に運ばれる予定だった小麦袋が、記録より少ない。薬草も、灯油も、毛布も。

 書類上では、確かに届いていることになっている。だが現物がなかった。


「十二台のうち、八台か」

 夜。倉庫近くの屋根へ腹ばいになり、レインは小さく呟いた。復興管理局の搬入記録には、十二台の荷馬車がスラムへ入ったと記録されている。


 だが、門番に酒を飲ませ、昔話に付き合ってやったところ、実際に門を通ったのは八台だけであることがわかった。残る四台は、途中で進路を変え、王都側の別の倉庫に向かったらしい。

 支援物資を運んだ荷車には、王国の封蝋がある。勝手に売れば重罪だ。——普通の人間がやれば、な。


 売った金の一部を、その普通を決める権限がある人間に渡せば、犯罪は帳簿の記入ミスに変わる。盗賊が盗めば、窃盗。役人が盗めば、管理上の不備。

 世の中というのは、実に便利にできていた。


 金ってやつには、たぶん魔力がある。

 魔導師が扱うような派手なものじゃない。もっと静かで、気づいたときには頭の中まで入り込んでいるような魔力だ。

 金に囚われて、仲間も家族も売った奴を何人か知っている。末路も、だいたい似たようなものだった。


「まったく、勉強になるな」

 レインは、屋根から身を滑らせた。物音を立てず、地面へ降りる。

 倉庫の裏口には、いかにも新しい錠が三つ取り付けられていた。どれも王国製の、少し値が張る品なのだろう。


「いい趣味してるじゃないか」

 腰の道具袋から針金を取り出し、鍵穴へ差し込む。指先に伝わってくる、内部のわずかな感触。

 一つ目、二つ目、三つ目。すべて開けるまで、一分もかからなかった。


「悪くないな。今度、自分の部屋にもつけようか」

 壊れかけの部屋の扉に錠をつける意味があるのかは、考えないことにした。


 扉の奥には、小麦袋や乾燥肉、薬箱が積まれていた。箱や袋の表面には、王国からスラムへ送られたことを示す焼き印がある。

 間違いない。横流しされるはずだった支援物資だ。


「さて、と」

 一度に全部を持ち出すのは難しい。荷車も、人手も必要になる。


 シオンへ話せば、止めはしないだろう。その代わり、見張りの交代時間から搬出経路まで、完璧な計画を立てる。

 ニコへ話せば、青い顔をしながらも、鍵開け道具を持ってついてくる。

 バルドへ話せば——。


 ——正面から扉を壊すな。

 考えるまでもなかった。そして大抵、問題が大きくなる。


「だから、誰にも言わないのが一番早い」

 口に出してから、少しだけ胸の奥が締まる。


 仲間を信用していないというわけではない。むしろ逆だ。信用しているからこそ、巻き込みたくなかった。何かあったときに捕まるのは、自分一人でいい。それが一番簡単で、被害も少ない。——いつもそうしてきた。


 レインは近隣の運送屋から、あらかじめ拝借しておいた荷車の鍵を取り出した。

「悪いな。朝には返す」

 誰にともなく謝り、作業を始めた。


 ◇


 翌朝。消えたはずの小麦袋が、共同炊事場の前に積まれていた。

 薬箱は診療所へ。毛布は、身寄りのない老人や子供たちが暮らす家へ。誰が運んだのか、住民たちは口にしなかった。誰の仕業かは彼らにとっては明らかであり、あえて尋ねる必要もないことだった。


「レイン兄ちゃん、ありがとう!」

 焼きたてのパンを抱えた少年が、大声で叫ぶ。


「何のことだ?」

「この小麦!」

「知らないな。足が生えて、自分で歩いてきたんじゃないか?」

「そんなわけないよ!」

「どうかな。夜になると歩き出す小麦袋くらい、世界のどこかにはいるかもしれないぞ」

「そんなのいないって!」


「見たことがないだけだろ」

 少年の頭をくしゃりと撫で、レインは歩き出す。


 背後から、マルタのしわがれた声が飛んできた。

「どうせ盗むなら、もう少し上手に盗みな!」


「証拠もないのに人を疑うなよ、婆さん」

「証拠を残さないのが、あんたの証拠だよ!」

「そりゃ名推理だ」

 振り返らず、片手だけを上げる。


 住民たちの表情は明るかった。子供たちはパンを抱え、老人は新しい毛布に触れて笑っている。

 それでいい。それだけで、十分だった。


 ——だが、ベルナード・グロイスだけは笑わなかった。


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