奇妙な男
岩甲猪の討伐を終え、セントレイアへ戻るため山を下りる前のことだった。
「レインさん。少しの間、動かないでくださいね」
セレナが言った。
「えっ?」
「治療する必要がありますから」
——俺、怪我なんてしてたっけ。
まず手元を見る。血などは付いていない。次に脇腹へ手を当て、服の上からさすってみる。
特に怪我らしいものはない。
セレナは何も言わず、じっとこちらを見ていた。何かおかしいものでも見ているような目つきだった。
レインは少し前のことを思い返す。
——あ。そういえば。
巨大な岩甲猪からセレナを抱えて避けた時、地面へ転がりながら受け身を取った。あの時、身体の側面を強く打ちつけていた気がする。
そう思った途端、その箇所に鈍い痛みが湧いてきた。
鋭い激痛というほどではない。おそらく少し腫れていて、押せば痛む程度だ。
全然我慢できる。こんなものは怪我のうちには入らないと思うのだが。
「いや、いいよ。治療は」
「ですが……」
セレナが不服そうな表情を浮かべた。
その横を見ると、なぜかオークリーが意味ありげな笑みを浮かべていた。丸眼鏡の奥の目まで、妙に嬉しそうだった。
「……何? その顔」
「いえいえ! 私にもそういう時期があったなと思いまして……。いいですねえ、若さとは」
何を言っているのかは、分からない。
オークリーは一人で納得したように何度か頷き、それから少しだけ真面目な顔を作った。
「それでも、レインさん。あまり女性を困らせるのは感心しませんなあ」
……そういう自覚はなかった。
レインはセレナを見る。目が合うと、彼女はいつものように柔らかな微笑を浮かべた。
特段、困っているようには見えない。ただ、確かに人の提案を無下にするのも良くなかった。
「やっぱり、頼んでもいいか」
そう言うと、セレナの表情がまた少しだけ和らいだ。
「はい」
レインの腕に手を添えられる。
淡光が服越しに滲み、先ほどまであった鈍い痛みがゆっくりと薄れていった。
治療を受けている間も、なぜかオークリーは奇妙な笑みを浮かべていた。
……今まで気づかなかっただけで、もともとこういう顔なのかもしれない。
そんなことを考えていると、オークリーが小さく呟いた。
「——恋人たちに幸あれ」
やっぱり、この人は変な人だ。
◇
オークリーから報酬金を受け取ると、その足でセントレイアの商店区域へ向かった。
時刻は、日が落ちる少し前。
セントレイアは大きく分けると、富裕層が暮らす中央区、商店が集まる商店区、そしてオークリーたちが暮らしている貧民区の三つに分かれているらしい。
同じ古都の中でも、区画を移るにつれて街の景色は少しずつ変わっていった。
貧民区では古びた石壁や継ぎ接ぎの屋根が目立ったが、商店区へ近づくにつれて道幅は広くなり、往来する人の数も増えていく。
軒先には布地や食料品、道具類が並び、呼び込みの声や荷車の音が夕刻の通りへ混ざっていた。
ここで必要なものを揃え、明日の朝には街を出る。
早くフィリアたちと合流しなければならない。
まず向かったのは装備屋だった。
セレナの靴を買う。彼女は、まだこの旅についてくるつもりらしい。
水路を歩いてきた踵の高い靴は、オークリーの妻が気に入っていたため、そのまま譲ることになった。代わりに選んだのは、長く歩くことを前提にした丈夫な靴だった。
次に道具屋。買うものは羅針盤と、この辺り一帯の地図。
ベルクレストまでのおおよその方角は分かっているが、地図はあった方がいい。
地下水路で何日も迷った直後ということもあり、方角を確認できるものは持っておきたかった。報酬金も充分にある。
通りを歩いていると、道具屋らしい看板を見つけた。
扉を押し開ける。頭上で小さな鐘が鳴った。
店内は少し狭かった。
壁際から中央まで所狭しと棚が並び、旅用品や工具、縄、油瓶などが雑多に置かれている。
店員らしき男性が一人。そして、もう一人。やたら図体の立派な男がいた。
二人は何か話をしていたようだが、レインは特に気にせず店内を回る。
目当てのものを探す。棚の一角に、地図の束があった。
細長い筒状に丸められたものが、いくつも並んでいる。
一本を手に取る。留め紐を外し、地図を開く。
そして、視線を走らせる。
——違う。これではない。すぐに巻き戻して元の筒状へ戻し、棚へ置く。
次も開いた。地名と道を確認する。
これも違うか。巻き戻す。
そして、また次。そんな作業を何度か繰り返した。
片目しか見えないことは、今さら意識するようなことでもない。必要な箇所だけを拾い、違うと分かれば次へ移る。
やがて、「あった」。これだ。
王都周辺からセントレイア、さらにベルクレスト方面まで載っている。
あとは羅針盤——。
そう思い、他の棚へ顔を向けたところで。
——大きな男が、すぐ近くに立っていた。 いや。正確には、見下ろされていた。
「おお。同じ方向か。なら話が早い」
……いま、話しかけられているのか。
レインは男の顔を見上げた。背丈が随分と大きい。
肩幅も広く、店の中にいるだけで妙な圧迫感がある。
それよりも、どうやって、あの扉から入ったのだろう。そちらの疑問に気を取られていた。
「……何か、用?」
「うむ」
男は腕を組み、当然のことでも告げるように言った。
「貴様、片目だが良い目をしているな。立ち姿も普通ではない。——よって、弟子にしてやろう」
「……」
少し沈黙が流れた。隣で見ていたセレナも、何も言わない。
「なにより、手元の正確さが際立っている。目から得た情報も認識が早い。それも。片目というハンデも、ものともせず、な。——最強の剣士になれる資格は充分に備わっている」
何やら褒めちぎられているらしい。
ただ。自分勝手に話を進めるタイプの人物だということだけは、よく分かった。
——相手にするのが面倒だった。
「そりゃどうも」
レインは手に持っていた地図を軽く持ち上げる。
「あ、店員さーん。これください」
「む?」
羅針盤も手頃なものを手に取り、そのまま店員のところへ向かった。
金額を確認し、必要な硬貨だけを取り出して渡す。
品物を外套の内側へしまい、何事もなかったかのように店を出た。
セレナも少し遅れてついてくる。
「あの……よかったのですか」
「えっ?」
レインは振り返った。
「……まあ。いいんじゃない?」
「そう、でしょうか……?」
これ以上あの男と会話を続ければ、面倒事が増える気がした。
気づけば、街は橙色に染まっていた。
建物の隙間から差し込む夕陽が石畳を長く照らし、商店も少しずつ店じまいを始めている。
オークリーの家では、晩飯が待っている。
「夕飯は何だろうな」
レインが言った。
セレナは少しだけ間を置き、それから微笑んだ。
「……楽しみですね」
先ほどの奇妙な出来事から、彼女の意識も移ったらしい。
本当に疲れた。
黒月に捕まり、地下牢へ入れられ、四日間も地下水路を歩き続け、その先では魔物の討伐までした。
ようやく、安全な場所でゆっくり休める。レインは歩きながら、腰へ手を伸ばした。
そこにあることを確かめるように、ガルドの短剣の柄へ触れた。




