頂に見えたもの
討伐へ向かう前に、オークリーの家で腹ごしらえをさせてもらえることになった。
料理を用意してくれたのは、オークリーの妻だった。芋と橙色の根菜を香草と塩で煮込んだスープに、薄く切った肉を油で揚げたもの。そして、白く柔らかそうな丸いパンが食卓に並んでいる。
教会の状態を思うと、随分と食事内容は良かった。
オークリーによると、信者の中には富裕層もおり、彼らからの寄付が教会の主な収入源になっているらしい。
もちろん独り占めするようなことはなく、親が不在の子供たちや、働くことが難しい老人たちにも充分に食事が行き渡るよう配分しているという。
「善行に役立っていることには違いないので、何も問題はないでしょう。 主の恵みがあらんことを——」
オークリーは丸眼鏡を指先で押し上げると、くくく、と低く笑った。
聖職者が浮かべて良い表情ではないような気がした。
さきほど案内してくれた子供二人とオークリーの妻は、出来立てのスープと揚げた肉、町で買ったパンを籠へ詰め、それを振る舞うために出掛けていった。
レインとセレナ、そしてオークリーも食事を終えると、魔物の討伐へ向かった。
◇
セントレイアの裏手にある、小高い山を登る。
土の道は緩やかに傾斜しており、左右には低木や背の高い草が繁っていた。木々の葉が風に擦れ、ときおり鳥の鳴き声が山の奥から返ってくる。
セレナが履いていた踵の高い靴はさすがに登山向きではないため、オークリーの妻から踵の低い靴を借りていた。予備として保管されていた古いものだったが、体格が近いらしく、サイズもちょうど良かったようだ。
道中にも魔物はいた。
白い毛並みに赤い目を持つ兎のような魔物や、頭から小枝を思わせる角を伸ばした四足歩行の魔物が、茂みの中からこちらを窺っている。
どちらも草食で、野生の木の実や茸、草花を餌としているらしい。警戒心も強いため、人間が近づけば先に逃げていき、畑の作物へ手を出すこともほとんどないという。
しばらく登ったところで、オークリーが足を止めた。
レインも立ち止まり、耳を澄ます。少し上った先から、ふご、ふご、と荒い鼻息のような音が聞こえていた。
オークリーが振り返り、声を潜める。
「この先です」
レインは無言で頷き、セレナから借りたままになっている短剣を手にした。
ゴブリンとの連戦で刃はかなり鈍っていたが、オークリーから道具を借り、出発前に手入れを済ませてある。鞘から僅かに抜いて刃を確認してから、再び収めた。
そして、オークリーより前へ出る。
「とりあえず、やってみるか」
そう言うと、坂を駆け上がった。
オークリーから事前に聞いていた話では、相手は岩を背負った猪型の魔物らしい。
——岩甲猪。
戦い方だけを考えれば、レインにとってはあまり相性の良い相手ではなかった。
狙いたい首筋や首の付け根は、岩のように硬い甲殻に守られている。四本の脚も短いうえに太く、ゴブリンのように関節を狙って簡単に体勢を崩せそうにはない。
そして何より、巨体だった。
真正面から受け止めるという選択肢だけは、最初から、ない。
幸い、動きそのものは単純で、標的を決めれば一直線に突進してくるらしい。
一頭だけならオークリー単独でも討伐できたのだろうが、複数頭を相手にすれば、詠唱している間に別の個体から突進を受ける。だからこそ、前衛が必要だった。
木々を抜けると、姿が見えた。一頭。
さらに少し先に、もう一頭。
こちらへ気づいた岩甲猪が、前脚を揃えるように踏み直し、身体の向きを変えた。
レインは止まらない。一頭の横をそのまま通過し、二頭の間へ立つ。
「これは、……楽そうでいいな」
もちろん、その言葉の意味を猪たちが理解するはずもない。
荒い鼻息を漏らしながら地面を蹴り、二頭がほとんど同時に走り出した。
左右から迫る足音が重なる。地面を叩くたび、足裏に振動が伝わってきた。
レインは動かない。ぎりぎりまで待つ。
岩に覆われた巨大な頭部が目前まで迫り、鼻息が肌に届いた瞬間、身体を捻ってその場から抜けた。
直後。岩と岩が激しくぶつかる、鈍く重い音が響いた。
二頭の岩甲猪は揃って横転した。
腹を上にし、脚が小刻みに痙攣させている。岩甲に隠されていた柔らかそうな腹部が丸見えだった。
「レインさん! どいてください!」
オークリーの声が響く。レインはすぐさま射線から離れた。
「——燃え盛る炎よ。我が魔力に応え、灼熱となりて敵を焼き払え。≪火炎放射≫!」
分厚い本を抱えたオークリーが、空いた片手を突き出した。
掌の前で炎が膨れ上がり、次の瞬間、連なった火炎となって二頭へ浴びせられる。
熱気が離れた場所まで届いた。
岩甲の隙間から炎が回り込み、露出していた腹部を焼いていく。
肉が焼ける匂いが辺りへ広がった。ミーナが喜びそうな匂いだった。
「倒せました!!」
オークリーが嬉しそうな声を上げる。
レインは二頭が動かないことを確認すると、先へ顔を向けた。
「じゃあ、次だな」
レインが引き続き先行する。
ほどなくして、また見つけた。今度は三頭。
二頭ずつ出てくれるのが一番ありがたいのだが、どうやらそう都合よくはいかないらしい。
同じことをすれば、一頭だけ取りこぼす。
手間取っている間に、今は姿の見えない別の個体まで加われば、状況は一気に悪くなる。
レインは後方のセレナへ視線を送った。セレナは何も言わず、柔らかい表情のまま頷いた。
合図はそれだけで充分だった。レインは、さらに前へ出る。
セレナの拘束術にも範囲の限界がある。無理に三頭すべてを捉えようとするより、二頭をこちらで翻弄し、先に気絶させてから残りの一頭を止めてもらった方が確実だ。
結果は、思った通りになった。
二頭を衝突させた後、残った一頭の動きをセレナが封じる。そして最後は、再びオークリーの火炎魔術。
倒れた岩甲猪を前に、オークリーの表情は嬉々としていた。どうやら、魔術を思い切り撃てる状況そのものが楽しいらしい。
そして残った二頭。今度は互いの位置が近すぎる。
相打ちを狙うなら、それなりの距離がなければ衝突するまで勢いがつかない。
レインは一頭の正面を目掛けて走った。
そうすれば、もう一頭から見た自分の姿は、手前の岩甲猪の巨体に隠れる。
前方の一頭が気づいた。頭を低くし、突進してくる。
レインは正面から迫る頭部をぎりぎりまで引きつけ、その岩甲を踏み越えるように跳んだ。
巨体と入れ違う。着地した頃には、機会を窺っていたもう一頭がこちらへ身体を向けていた。
そいつも走り出す。レインは横へ抜け、その突進も躱した。
これで、二頭の位置が離れた。準備は整った。
振り返った二頭が、レインを挟んでこちらを睨む形になる——。
そのときだった。地鳴りが響いた。
いや。地鳴りではない。何かが走って来ている。しかも、これまでの個体とは明らかに違う。
——気を取られている場合ではない。
まずは目の前の二頭。左右から迫った突進を躱す。
再び、岩が激しく衝突する音が鳴った。レインは即座に距離を取り、ほぼ同時にオークリーの詠唱が始まる。
オークリーの魔術が発動した、その直後。背後から、轟くような足音が迫ってきた。木々の隙間から姿を現す。
「……でっか」
思わず声が漏れた。ひと際大きな岩甲猪だった。
これまでの個体とは、まるで別物に見える。
肩の高さだけでも人の胸元を越え、その背中に盛り上がった岩甲は、さらにその上へ山のように積み重なっていた。頭を低くしているにもかかわらず、背の頂はレインの身長の二倍を優に超えている。
胴も分厚い。前から見れば、猪というより、岩の塊に四本の脚が生えて動いているようだった。
あれだけの巨体なら、まともに正面から受ければ、人間の身体など簡単に弾き飛ばされるだろう。
見た目の大部分は岩に覆われているため、じっとしていれば周囲の岩場へ紛れて見えたのかもしれない。皮膚が覗いているのは、鼻先と脚の付け根付近くらいだった。
巨大猪の視線の先にいるのは、オークリー。魔力に反応しているのだろうか。
オークリーの額に汗が滲んでいた。
これだけ大きければ、あの火炎魔術でも一撃では倒しきれないかもしれない。
巨大猪が走り出す。
先ほどまでとは比べものにならない振動が、地面から足裏へ突き上げてきた。
「う、うわあああっ!」
オークリーは声を上げながら横へ飛び退いた。
頭部そのものは避けた。
だが、横へ長く突き出した牙までは避けきれない。
「ぐっ!」
牙が身体を掠める。オークリーの身体が横へ弾き飛ばされ、そのまま木の幹へ激しく打ちつけられた。
鈍い音がした。オークリーの喉から、苦しげな声が漏れる。
「オークリーさん!」
セレナが叫んだ。
巨大猪が通り過ぎた場所では砂埃が舞い上がり、揺れた木々から乾いた葉や細かな砂がぱらぱらと降り落ちていた。
猪が大きな威嚇音を鳴らしながら、ゆっくりと身体の向きを変える。視線の先は、やはりオークリーだった。
オークリーは木の根元に倒れたまま、動かない。
セレナの詠唱が響いた。
「星の軌道よ、その歩みを留めたまえ――≪星軌拘束≫」
淡い光の帯が幾重にも伸び、巨大猪の身体へ巻きついた。一瞬、その巨体が止まる。
だが、猪が身体を大きく振った。
張り詰めた光が軋むように震え、瞬く間に引き千切られていく。
「っ……」
セレナの息が漏れた。
そして、巨大猪の身体が、彼女へ向いた。
「くそ!」
レインが声を上げる。
セレナの動きが硬直していた。巨大猪が地面を蹴り、駆ける。
——このままだとまずい。間に合え。
レインは走った。突進の軌道へ飛び込み、セレナの身体を掴む。
そのまま彼女を抱え込むようにして、地面を滑った。
「っ……!」
土と砂利が外套を擦る。身体の側面へ痛みが走ったが、強い衝撃は感じていない。
躱しきれた。レインはすぐに腕の中を確認する。セレナも無事だった。
二人で急いで立ち上がる。視線を上げると五歩先。大きな頭部と向かい合った。
見えるのは湿った鼻先。その左右から伸びた、太く湾曲した牙。そして、その奥で山のように盛り上がる岩甲。荒い息が、鼻から白く漏れている。
巨大猪が前脚で地面を掻いた。土が後ろへ飛ぶ。助走に入るつもりだ。
……本当にまずい。——こうなったら、なりふり構っていられない。
レインは巨大岩甲猪の正面へ向かって走った。
猪も頭を振り上げる。レインの動きに合わせ、牙が横薙ぎに迫った。
その頭部へ足を掛け、踏み越えた。そのまま勢いを殺さず、岩甲に覆われた背中へ跳び乗る。
巨大猪がすぐに反応した。背中に乗った異物を振り落とそうと、巨体が左右へ激しく揺れる。
「うわっ、と……!」
視界が大きく振られる。レインは岩甲の凹凸へ手を掛け、落とされないよう身体を低くした。
そして見つけた。岩山の頂。黒く濁った石が、一つだけ埋め込まれるように存在している。
周囲の岩甲とは明らかに色が違う。こんなものは、これまでの岩甲猪にはなかった。
弱点なのかどうかは分からない。——ただ。他と違うというのなら、試してみる価値はある。
巨大猪がさらに身体を振る。
手と腕。そして足へ力を込め、レインは必死に耐えた。
揺れる木々の隙間から、二人の姿が見える。セレナが、倒れていたオークリーへ治療術を施していた。
やがて、オークリーが身体を起こした。
「レインさん!」
オークリーの声が届く。
レインは岩甲へしがみついたまま、大きく息を吸った。
「オークリー! てっぺんだ!」
巨体が揺れる。視界も激しく変わる。
「てっぺんを、狙え!」
オークリーが動く岩山の頂を捉えた。詠唱が始まる。
「天を奔る雷の力よ——」
僅かに遅れて、セレナの声も響いた。
「星の軌道よ、その歩みを——」
巨大猪がさらに暴れる。
今度はレインを木へ擦りつけようとしているらしく、横向きのまま木々へ突進し始めた。
——まずい。
レインは足元へ込めていた力を抜いた。抗わず、猪の振る力へ身体を預け、背中から弾き飛ぶ。
「我が魔力に応え、閃光となりて——」
空中でオークリーの詠唱が聞こえる。レインは地面へ落ち、肩から転がった。
ほぼ同時に声が響いた。
「——留めたまえ。≪星軌拘束≫!」
セレナの詠唱が先に完成した。
光の帯が伸びる。だが今度は、巨大な胴そのものを無理に止めようとはしなかった。
四本の脚へ。そして、頭部の先と鼻先へ。光が強く絡みつく。
地面を蹴ろうとした脚同士が縛られ、頭を振ろうとする動きまで押さえ込まれた。
「フゴオオオオッ!」
巨大猪の威嚇音だけが、山の中へ響き渡る。巨体が止まった。
そして、オークリーの声。
「——敵を撃ち貫け。≪落雷≫!」
雷鳴が轟いた。一瞬、視界が白く染まる。
空から落ちた閃光が、巨大猪の背中へ突き刺さった。
何かが砕ける、甲高い音が響く。頂にあった黒い石から鳴った。
雷光が岩甲の表面を走り、細かな破片が周囲へ弾け飛ぶ。
それまで荒々しく響いていた鼻息が、途切れた。巨大猪の目からも力が失われていく。
付近は、静かになった。誰も動かなかった。
やがて、絡みついていた光の帯が粒となって溶けていく。
支えを失った巨大猪の身体が、ゆっくりと横へ傾いた。地面へ倒れる。
ずしん、と腹へまで響くような音がした。
「やっ……」
オークリーの声が漏れた。
「やりました……?」
レインは起き上がり、巨大猪へ近づいた。念のため少し距離を取ったまま様子を見る。
——動かない。
耳を澄ませても、荒い呼吸はもう聞こえなかった。完全に息絶えている。
「……みたいだな」
レインが答える。
すると、オークリーの口元から声が漏れた。
「……す」
レインはそちらを見る。
「す?」
「すごいです!! こここ、こんな怪物を倒すだなんて!」
オークリーの顔は歓喜に満ちていた。分厚い丸眼鏡の奥で目を輝かせ、子供のようにはしゃいでいる。
レインは言った。
「でも、トドメを刺したのは、あんただろ」
「あれ。……そう、でした?」
「……」
少し沈黙が流れた。
その静けさの中で、セレナが小さく笑う声が聞こえた。




