天恵
水路を進んだ先から、低く唸るような動力音が響いていた。
黒月の根城を脱出して、四日目のことだった。
一定の間隔で繰り返される重い音は、水が流れる音とは明らかに違う。レインは足を止めず、音が大きくなる方へ迷わず進んだ。
近づくにつれ、床にも僅かな振動が伝わり始める。そして、見えた。
巨大な動力装置だった。
複数の大きな歯車が噛み合い、ゆっくりと回転している。装置の本体らしき箇所からは途切れることなく低い唸りが響き、周囲の空気まで僅かに震えていた。
何のための装置なのか、レインには分からない。
ただ、ここまで人工的な設備があるということは、人が生活している場所が近い可能性は高そうだった。
装置の向こう側には通路が続いている。
そこを進むと、上へ伸びる階段があった。
「上か」
「そのようですね」
二人は階段を上った。
角を二つ曲がった先に、白く塗られた金属の扉が現れる。
レインが近づくと、扉の隙間から僅かに風が流れ込んできた。
地下水路を歩き続けてきたせいか、その空気が妙に新鮮に感じられる。
迷わず手を掛け、押してみる。
蝶番が軋んだ音を上げながら、扉はゆっくりと開いた。思わず目を細める。
だが、目の前に広がっていたのは、期待していたほど大きく変わった風景ではなかった。
水路こそなくなっているものの、依然として狭い通路が続いている。先ほどまでとは色味の違う石床と石壁で、土砂のような色をした表面はざらついていた。
差し込んでいる光も、外からのものではない。
「まだ地下か……」
どうやら、完全に外へ出たわけではないらしい。
複数の人間の気配があった。
少し離れた場所から、話す声が聞こえている。
ゴブリンの甲高い鳴き声ではない。間違いなく、人の声だった。
レインは胸の奥にあったものが、少しだけ軽くなるのを感じた。
声がする方向へ近づいていく。やがて、人影が見えた。
床へ布を敷き、その上に並んで座りながら話をしていた。
近くの壁には、鍬や鎌などの農具が立て掛けられていた。
その傍には布の塊や木製の食器も置かれていた。
一時的に休んでいるというより、普段からここで生活している者たちのように見える。
そこに三人いた。
全員が老齢で、身なりを見る限り、少なくとも富裕層ではなさそうだった。
一人がこちらに気づいた様子で、他の二人へ何かを言っている。
まだ十歩ほど距離があった。大抵、老人は耳が遠い。
レインは充分に声を張った。
「ちょっと教えて欲しいんだけど——」
老人の一人が顔を上げる。
「あ~、あんだって?」
レインはさらに近づいた。
「ここがどこか教えてくれないか」
「あ~、あんだって?」
同じ返答だった。レインの時が止まった。
隣で、セレナが一歩前へ出る。
「ここがどこか、教えて貰えませんか」
彼女は普段より少しゆっくりとした口調で尋ねた。
「あ~、ここはセントレイアだよお。昔の王都さねえ」
普通に通じた。
もう一人の老人が口を挟む。
「いやいやあ。この人たち、そういうことが聞きたいわけじゃ無かろおな。ここはねえ、上の家を追い出された、はみ出し者たちのたまり場よお」
「あああ。そういうことを言うてもったら、この人たち悪く思うんなあ、やあな」
老人たちは勝手に話を進め始めた。
「セントレイア……?」
聞き覚えのない名前だった。
セレナが答える。
「聞いたことがあります。現在の王都に移る前の、古い都の名前ですね」
「ああ。そうだよお。ほんで、お二人どこから来なさったかあ?」
……黒月の根城から。とは、さすがに言えない。
「地下から」
「あ~?」
「……」
セレナが代わりに言った。
「地下からです」
「ああ。地下からあ、ねえ」
今度は普通に伝わった。どうやら、俺の声だけ届かないらしい——。
レインは老人たちを眺めながら、ふとマルタを思い出した。
今頃、何をしているだろうか。変わらず元気にしているだろうか。本人をあまり老人扱いすると怒られるが、その思い出も今では妙に懐かしい。
考えてみれば、あれほど意思疎通が楽な老人は、どちらかというと珍しいのかもしれない。
そんなことを考えていると、遠くから子供の声が響いてきた。
二人分。どちらも元気がよく、その声はどんどん近づいてくる。やがて姿を見せた。
「あれ? 見たことない大人……」
一人の少女が言った。
黒い髪を短く切り揃えた少年と、肩辺りまで赤毛を伸ばした少女。
年齢は、どちらも十歳前後だろう。二人はこちらを見上げている。
少し警戒されているようだった。
——まあ、確かに。初対面の子供へ警戒を与えるような見た目をしている。
服装はほとんど黒ずくめ。顔には眼帯。
スラムの子供たちに囲まれて暮らしていた頃は、誰も今さら気にしていなかったため、そのあたりの感覚が麻痺していた。
すると少年の視線が、隣のセレナへ向く。途端に表情が変わった。
「おねーちゃん、すっごくきれい! どこから来たの?」
セレナが口を開く前に、少女が続ける。
「もしかして、水路を通ってきたの?」
「はい。水路を通ってきました」
「すごい! とーちゃんが、悪い魔物が、うじゃうじゃいるって言ってたよ!」
「倒したの?」
「どうやって?」
「冒険者なんだよね?」
「冒険者証を見せて!」
「二人は付き合ってるの?」
「……」
そんな感じで、二人の子供からの質問攻めが始まった。小一時間ほど。
ようやく質問が途切れた頃には、ゴブリンに追われていた時とは別の意味で疲れていた。
「神父様に会っておいたほうがいいよ」
少女が言った。
「そうなのか?」
「うん! だって、二人は冒険者なんでしょ? 冒険が上手くいくように神様にお願いするのがいいよ!」
レインは少しだけ考えた。
——自分に祈る神などいない。これまでの人生で、神へ何かを望んだことはない。
だからといって、子供相手にそんなことを言うのも気が引ける。
「……わかった。行ってみる」
「じゃあ、案内するよ!」
二人とも良い子たちだった。
◇
ようやく外に出ると昼間だった。
よく晴れた日で気候も温暖。風が吹くと心地よい涼しさを感じた。
道には煉瓦が敷き詰められているが、風化が進み、ところどころ割れている。
道を区切る壁は羊毛のような薄い黄色で塗られていたようだが、大部分が剥げており、少しみすぼらしかった。
植わっている木々だけが、どっしり構えた幹の先に鮮やかな葉をつけていた。
やがて、神父がいるという教会の前まで来た。
建物は全体的に少し古びている。修繕するための費用がないのか、窓の一部は割れたままで、壁にも崩れている箇所があった。
それでも、入口の周囲だけは綺麗に掃除されている。長く使われ続けている場所なのだろう。
中へ入る。すぐに目へ入ったのは、集まっている信者たちだった。その前方に、黒い礼装を纏った人物が一人、立っている。
広くない教会の中へ響き渡る声で、人々へ語り掛けるように何かを説いていた。
手には分厚い本。聖書だろうか。年齢は四十代ほどに見える。頭髪は薄く、目元にはやや分厚い丸眼鏡を掛けていた。
レインとセレナは邪魔にならないよう後方で待った。
やがて説教が終わる。信者たちは穏やかな顔を浮かべたまま、次々と教会を出ていった。
最後の一人を見送った神父が、こちらを見る。彼もまた、穏やかな表情を浮かべていた。
レインは歩み寄った。セレナも隣についてくる。神父が先に口を開いた。
「よく来てくださいました。御神は、お二人を平等に迎え入れることでしょう」
「ええっと……」
「ええ。分かっていますとも。——御神は、これ以上苦難を強いたりはしません」
「……」
どういう風に会話をすればいいのか分からない。
レインが困っていると、その様子を見た神父が小さく笑った。
「ふふふ。……すみません。普通に話をしましょうか」
どうやら、身構えすぎたらしい。
「そうだと、助かる」
レインがそう返すと、神父はまた穏やかに笑った。
◇
神父の名は、オークリーと言った。長年、この教会に勤めているらしい。
地下水路を通ってきたことを話すと、かなり驚かれた。
「……あの水路を、ですか?」
「ああ。四日くらい掛かったけど」
古都セントレイアの直下にある区域には、ほとんど魔物がいないらしい。
だが、そこから離れた地下水路は事情が違い、魔物の温床になっているという。
通ってきた場所がゴブリンの巣窟になっていたことを話すと、オークリーはさらに驚いていた。
「それを、お二人だけで……」
「まあ、なんとか、だけど」
しばらく考え込んでいたオークリーが、やがて姿勢を正した。
「——単刀直入に言わせてください。その腕を見込んで、頼みがあります」
レインとセレナは顔を見合わせた。
話を聞いた。
セントレイアを出てすぐの裏山に、オークリーたちが利用している畑があるらしい。
だが、数日前からそこへ魔物が住み着き、農作業ができなくなっているという。
依頼内容は、魔物の討伐と畑の奪還。
神父の畑と言っても、個人所有のものではない。
この区域に暮らしている住人たちと共有して使っている場所で、収穫物も皆で分けているらしい。
生活の要となっている畑を使えなくなり、困っていた。
しかも、頼れる大人たちは出稼ぎへ行っており、今この区域に残っているのは子供と老人がほとんどだという。
オークリー自身は魔術を使える。
だが、一人で魔物と相対しながら術を使えるほど、戦闘向きではないらしい。
もちろん、報酬は弾むという。
レインは周囲を見た。割れた窓と崩れかけている壁。
雨が降れば、普通に吹き込んできそうだった。
「金があるなら、教会を直した方がいいんじゃないか?」
オークリーは少しだけ目を細めた。
「いいえ。もういいのです、この教会は。 建物の修繕よりも、住人の生活の方が大事ですから」
そう言った声に、迷いはなかった。レインは、ひとまず引き受けることにした。
「分かった。やるよ」
「ありがとうございます!!」
オークリーはすぐにレインの手を取った。まるで天恵でも受けたかのように、目を輝かせている。
「……お礼は、ちゃんと終わったあとで良い」
「それでも、その気持ちがありがたいのです」
よっぽど困っていたらしい。
レインは少し困ったように頬を掻いた。その様子を見たセレナが、小さく笑っていた。




