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不調

 目が覚めた。なんだか気分が悪い。

 頭が熱い。思考も、少しぼんやりとしている。


 耳へ届くのは落ち着いた流水音だった。まだ、水路の中にいる。ただし、周囲の景色は一変していた。

 壁と床は、白地に斑模様の入った石材で組まれている。以前のような苔やぬめりもなく、空気の淀みもほとんど感じられない。


 少し先を見ると、鼠が一匹這っていた。

 こちらを見ると、すぐに小さな隙間へ逃げていった。人里が近いということだろうか。

 壁も床も滑らない。きつい臭いもない。環境としては、随分ましになった。


 それなのに、身体の調子だけが悪かった。風邪を引いた時のように、全身が重い。

 近くにセレナの気配を感じる。

「あ。起きましたね」

 彼女が言った。


 レインは身体を起こそうとして、すぐにやめた。

 明らかに、調子が悪い。悟られないようにしなくては。

「……ああ」

 顔も向けず、言葉だけで答える。


 なぜ、体調不良に陥ったのか。まさか、ゴブリンの血に感染症の黴菌でもあったのだろうか。

 いや。そんな話は聞いたことがない。たしかに不潔ではあるが。


 昨日受けた毒だろうか。それは、セレナの術で完全に消え去っていたはずだ。

 ……今考えても、分かりそうにない。


 ちなみに、汚した外套と上衣は、景色が変わったあとに見つけた清潔そうな水路で軽く洗った。眠りにつく前に。

 もし、この水が生活用水だったなら、間違いなく汚染させている。悪いことをしているという自覚はあった。だが、あのまま血まみれで歩き続けるのも、もう我慢できなかった。


 たぶん、大丈夫だろう。施設に関する知識はほとんどないが、浄水する機構(からくり)くらいはどこかに仕込まれているはずだ。常識的に考えて。

 セレナの体調は、見た限り問題なさそうだった。なら、原因は単純にゴブリンの血へ触れたことではないのかもしれない。


 そして、彼女が、また細く硬い焼き物を差し出してきた。

「……」

 もう何も言うまい。心の中でさえも。

 レインは素直に受け取った。ただし、口にはしなかった。今は腹が減っていない。


 セレナは少し心配そうな顔をしながら、じっとこちらを見ている。

 レインはそれに気づくと、即座に顔を背けた。


「そろそろ行こう」

「もう少し休んでも良いのではありませんか」

「大丈夫。充分動ける」


 体力は多少落ちているかもしれない。

 だが、動くこと自体はできそうだった。なんだか少し、気分が悪いだけで。


 そうして、二人は残りの道を進み始めた。


 ◇


 歩き始めて一刻もしないうちに、それは悪化した。動くと全身に回る類の不調らしい。

 頭の奥が揺れる。足元の感覚が僅かに遅れてついてくる。

 まるで、質の悪い、きつい酒を一気に飲んだようだった。


 そろそろ、限界かもしれない。胃の辺りから、何かが込み上げてきそうになる。


「ちょっと、ここで待ってて」

「レインさん?」

 セレナの顔を見る余裕も、返事を待つ余裕もなかった。


 水路の脇道へ入り、さらに距離を取る。

 急に速度を上げたことで、視界まで回り始めた。


 ——やばい。……出る。

 レインは即座に床へ手をついた。水路へ流すか、床へぶち撒けるか。一瞬悩んだ。


「——っ!」

 何も出なかった。空嘔吐(からえずき)だった。だが、喉元まで熱いものが込み上げてきた感覚は残っている。

 胃の辺りが痛む。全身から汗が噴き出していた。気分の悪さは残ったまま。


 今度は、一気に寒気が襲ってくる。身体が震えた。

 心臓も激しく脈打っている。床へついた腕にも、力が入りにくい。


「どうして、言ってくださらなかったのですか?」

 セレナの声が響いた。

 声の方を見る。彼女が足音を立てて近づいてきていた。


 セレナはレインの傍まで来ると、同じくらいの目線になるように膝をついた。

 手が伸びる。指先が、レインの頬へ触れた。少し冷たさを感じた。


 彼女の詠唱が、静かな水音へ重なる。

「清き星々よ、我が祈りに応え、かの命を蝕む穢れを祓いたまえ——≪星の息吹≫《プレア・オブ・アストラ》」


 淡い光が、セレナの指先からレインへ流れ込んだ。

 最初に感じたのは、身体へ広がる穏やかな温かさだった。それでも、不快感は消えない。


 セレナの顔が、気づいた時には目の前にあった。

 彼女の体温と微かな息遣い。そして、甘い香木のような香りを感じた。唇の先に触れたものは、少し冷たかった。


 息が吹き込まれる。胸の奥に痞えていた異物が、ほどけるように消えていった。

 身体の中へ入り込んだ何かを、息とともに押し流されたような感覚だった。


 視界が急に鮮明になる。どうやら、自分で思っていた以上に意識が朦朧としていたらしい。

 寒気もない。吐き気も消えている。激しく鳴っていた心臓も、徐々に落ち着いていった。


 セレナの顔が離れると、目が合った。彼女は、いつものように微笑んでいた。

 ——その姿を見て、なぜか、胸が高鳴った。


 いや。勘違いをしてはならない。今のは治療だ。変に意識してしまう方が、彼女に対して失礼というものだろう。


 どの行動が今回の不調につながったのかは分からない。毒を受けたこと。ゴブリンの血を纏ったこと。少なくとも、反省すべきことはあった。

 今後は、もう少し軽率な行動を控えよう。


 ……実際にできるかどうかは、別として。意識としては、改めるべきだった。


「ごめん。……ありがとう」

 何を言えばいいのか分からず、謝罪と感謝をただ並べた。


「……いいえ。本当に、良かったです」

 セレナはいつもと変わらない様子で、そう言った。

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