におい
また一日が経った頃だった。ゴブリンの襲撃は続いていた。
まとまって眠る暇もなく、短い休息を挟んでは歩き、また戦う。
身体の芯に疲労が溜まっているのを感じながら、レインは足を止めずに進んでいた。
——おかしい。
まるで、こちらの居場所を仲間に知らされているかのように、ゴブリン共が襲ってくる。
最初は前方や側方からの襲撃だったが、しばらくすると後方から追いかけてくるようになっていた。
水路の流れは、進むにつれて少しずつ大きくなっている。途中で何度か分岐したとはいえ、進む方角そのものは間違っていないはずだった。
倒したゴブリンを改めて確認する。
これまで遭遇した個体と比べ、全体的に少し小柄だった。弓矢を持つ個体と、短剣のように研がれた黒い石器を持つ個体が混じっている。
そして、矢尻にも石器の刃にも、一見すると泥のような濁った液体が塗られていた。
「……毒か」
お手製のものだろう。ゴブリンスカウト。——追撃兵といったところか。
そこまでして人を殺したいらしい。
そして、こいつらも例に漏れず、単独ではなく集団で攻撃を仕掛けてくる。
ここまで来る途中、人骨らしきものもいくつか転がっていた。白く乾いたものもあれば、まだ完全には朽ちていないものもある。
自分たちと同じように、この水路へ迷い込んだ人族がいたのだろうか。
考えると、少し気分が悪くなった。
セレナは何も言わなかった。レインも、何も声を掛けない。
状況はかなり悪い——。
だが、索敵することに手を抜くわけにはいかなかった。
いつまで続くかも分からない耐久戦で、相変わらず床も壁も湿り、場所によっては薄い苔が張って滑りやすい。
セレナが能力強化の占星術を使うと言ってくれたが、レインは断った。
「今は、必要ない」
「ですが……」
「まともに休めるのが、いつになるか分からないからさ」
魔力も無尽蔵に湧いてくるわけではないだろう。いざという時のために、温存しておいた方がいい。
すると、また微かな足音が聞こえた。
後方。通ってきた水路からだ。水音の反響に紛れているが、一つではない。
——迎え撃つしかない。
レインは駆けた。曲がり角から、一体が飛び出してくる。
弓を構えていた。矢尻は、レインではなくセレナへ向いている。
弦が引き絞られる。放たれる前に間合いへ入り、レインは短い胴を足で払った。
「ギィッ!」
もう嫌というほど聞き飽きた声を上げ、ゴブリンが石床へ転がる。
間髪入れず、別の個体が飛び掛かってきた。
黒く短い刃が突き出される。レインは短剣の刃で受け止めた。甲高い金属音が水路へ響く。ゴブリンの首に狙いをつける。
だが、もう一体。奥から小さな影が走った。——捌ききれない。
レインが身体の向きを変えた瞬間、首の脇を何かが掠めた。鋭い痛みが走る。
それでも、動きを止めるわけにはいかなかった。
セレナの詠唱が聞こえる。
「星の軌道よ、その歩みを留めたまえ——≪星軌拘束≫」
淡い光が走り、ゴブリンたちの身体へ絡みついた。動きが止まる。
レインは踏み込み、短剣を走らせた。刃が首筋を走り、ゴブリンの身体から力が抜ける。
もう一体も、腕を振りほどこうとしたところで肘の付近へ短剣を滑らせ、体勢が崩れた瞬間に首元を断った。
近くで動く気配は、すべて失せた。静かになった水路には、流水音だけが残る。
そこでようやく、首元の異常に気づいた。
「……熱い」
何かが掠めた箇所が、尋常ではないほど熱を持っている。手を当てて確認した。
出血そのものは、ほとんどない。だが、皮膚の下へ熱が広がっているような感覚があった。
セレナがすぐに近づいてきた。
「……少しの間、動かないでくださいね」
詠唱が響く。
「清き星々よ、その光をもって身を蝕む邪の者を退けたまえ——≪星祓≫」
柔らかな光が首元を包んだ。
熱が少しずつ引いていく。皮膚の内側を這っていた不快な感覚も、それにつれて消えていった。
セレナの目で確認しても、傷口に異常は残っていないらしい。レインは首を軽く動かした。
「本当に、何でもできるんだな」
「……何でもは、できませんよ」
セレナは、いつもの微笑を浮かべていた。
レインはそれ以上何も言わず、手元へ視線を落とした。
さっきは、少し前へ出すぎたかもしれない。もう少し引き付けてから迎え撃つべきだった。
借りた短剣の状態を確認する。刃に、脂が載っていた。
最初に見られた光沢は鈍くなり、靄が掛かったように、ぼやけている。
ゴブリンの血肉を裂くたび、外套の切れ端を使って刃を拭き上げていたが、それでも少しずつ、斬った時の感触が変わっていた。
刃に欠けはない。まだ使える。だが、肉を裂くときに必要な力が、最初より少し増えていた。
「レインさん。その切れ端を貸してください。……私が代わりに拭きます」
セレナはレインの背中側をじっと見ていた。
「そんなに付いてる?」
そう言って自分の身体を見る。ゴブリンの返り血のことだった。
いや、分かってはいた。身体の前面だけでも、黒ずんだ血がいくつも付着しているのが見て取れる。
そこで、レインはふと気づいた。——待てよ。そういうことか。
さきほど飛び出してきたゴブリンが、真っ先に狙ったのはセレナだった。彼女の衣服には、ゴブリンの返り血がほとんど付着していない。
そして、ゴブリン共のきつい臭い。獣臭さに酸味を混ぜたような、鼻に残る臭気。
ゴブリンにとって人間の臭いがどう感じられるのかまでは分からない。だが、あの大きな鼻だ。嗅覚が発達していても、おかしくはない。
こちらへ追いついてくる原因が匂いなら。レイン自身は、すでにゴブリンの返り血を全身に浴びている。だから、標的として認識しにくくなっているのではないか。
正解かどうかは分からない。ただ、自信はあった。そうと決まれば、善は急げであった。
レインは外套を脱いだ。
そして、倒れているゴブリンから溢れた血へ表の革地を押しつけ、たっぷりと擦りつけた。
「レインさん!?」
その奇行を見たセレナが、驚いた声を上げる。
レインは気にせず、外套を裏返し、一度身に着けた。
背中側にも漏れなく血が染みるように身体へ馴染ませ、それから脱ぐ。
裏表を戻した外套を、セレナへ差し出した。
「こんなので悪いけど、羽織って」
セレナの表情が止まった。それはそうか。まるで説明が足りていない。
「あ。っと——」
「——わかりました」
説明を始める前に、すべて理解したらしい。セレナは血に汚れた外套を受け取った。
思い返せば、いつの間にか自分自身の嗅覚も麻痺していた。
今までは音ばかりに集中し、そこから気配を探っていた。
それから、景色が変わるまでゴブリンと遭遇することは一度もなかった。




