動転
セレナが案内した先に広がっていたのは、地下水路だった。
中央には澄んだ水が流れる大きな溝があり、その脇には人が歩けるほどの歩廊が続いている。
地下らしく湿度はやや高いものの、空気は思っていたよりも涼しく、流れている水も驚くほど綺麗だった。
……汚水でなくてよかった。
もっと鼻をつく臭いや、足元に得体の知れないものが浮かんでいる場所を想像していたが、その心配はなさそうだった。
ただし、地図のようなものはない。水路はいくつもの方向へ枝分かれし、遠くまで迷宮のように広がっているらしい。
床も壁も、淡い緑を帯びた翡翠石で組まれていた。壁際には小さな灯りが等間隔に並び、歩くには充分な明るさが確保されている。
それどころか、長い年月を経た地下施設とは思えないほど清潔で、湿気はあっても空気の淀みがほとんど感じられなかった。セレナによれば、この翡翠石そのものに浄化する力があるらしい。
「古城の周辺だけ、このような造りになっています。この領域を抜ければ、少しずつ景色も変わっていくはずです」
「じゃあ、それが目印になるってことか」
「はい。少なくとも、同じ場所を回り続けることは避けられると思います」
方角だけは見失わないようにした方がよさそうだ。
レインはそう考えながら歩いていたが、ふと隣を進むセレナへ目を向けた。
彼女は古城へ残るのだと思っていた。一度捕らえた人物の脱出を、こうして手伝ってしまっている。どこで考えが変わったのだろうか。
「しばらく戻れないと思うけど、大丈夫なのか」
セレナは少しだけ間を置いてから頷いた。
「……はい。これは私が決めたことですから、最後まで務めを果たすつもりです」
「最後までって……それ、なんか重たくない?」
冗談半分に言ったつもりだったが、セレナは笑わなかった。
「黒月の立場も、もう私には必要ありません。ここから先は、私の自由にしていきたいと思っているのです」
その声は静かだったが、迷いは感じられなかった。いつの間にか、どこかで吹っ切れたらしい。
あの頭領に顎で使われ続けるより、黒月という束縛から抜け、自分の好きなように生きていった方が格段に幸せだろう。
——裏切り者にどのような制裁があるのかは、俺には分からないが。
「そのほうが、良さそうだな」
黒月が抱えている深い事情までは知らない。無責任な発言なのかもしれない。
それでも、意見を合わせるために言ったわけではなかった。本当に、心からそう思っただけだった。
◇
翡翠造りの水路を進んでいる間、魔物は一匹も出なかった。鼠はいたが。
歩廊の端から突然現れ、足元をちょろちょろと駆け抜けたかと思うと、そのまま壁の隙間へ姿を消した。
こんなところで生きていけるのだろうか。少なくとも、独房にいた鼠よりは食べ物に困りそうな気がする。
そんなことを考えながら歩き続けた。が、さすがに長時間となると疲れは溜まってくる。
数刻ごとに足を止め、壁際で休息を取った。
そしてセレナが、細く硬い焼き物を差し出した。また、これか。いや、文句は言っていられない。
レインは一つを口へ放り込み、しばらく噛んだあと、水路へ手を伸ばして水を掬った。
セレナが水の入った瓶を差し出してきたが、首を横に振る。
「それは後に残しておきたい」
「ですが、水路の水が大丈夫だと言う保証はありません」
「それよりも、飲めなくなってから使った方がいい」
セレナは少し考え、それから瓶をしまった。
休息を終えて再び歩き始めたが、しばらくすると、セレナの歩き方が僅かに変わっていることに気づいた。
速度そのものは変わっていない。だが、片方の足を地面へつけるたび、ごく小さく動きが鈍る。
「少し休もう」
「まだ歩けます」
「俺が休みたい」
そう言うと、セレナは困ったように笑い、それ以上は何も言わなかった。
腰を下ろした彼女の足を見ると、靴と擦れた箇所が赤くなっている。長時間歩くための靴ではない。
セレナ自身もようやく気づいたらしく、指先を足元へ向け、小さく術を使った。淡い光が赤くなった皮膚を包み、ほどなくして傷が薄れていく。
――占星術。何度見ても理解が追いつかない。
いや、起こっていること自体は分かる。傷が治っている。熱を生み、光を操り、身体さえ癒す。
ただ、どうしてそれをいとも簡単に扱えるのか、その仕組みがまるで分からない。単純に、羨ましかった。
◇
次の日。水路の景色は、はっきりと変わっていた。
壁と床を形作っていた翡翠石は水門を境に、濡れた土のような暗い色の石が姿を見せた。
空気も重く、鼻を近づけなくても分かるほど黴の臭いが漂っていた。辺りは、ほの暗い。
このままでも歩けなくはないが、足元まではよく見えない。
セレナは鞘から短剣を一本抜くと、刃へ指を添え、占星術を使った。
淡い光が刀身へ宿る。周囲がぼんやりと照らされ、床の様子が見えるようになった。
足を踏み入れると、靴底が僅かに滑った。
レインは足元を見た。薄く苔のようなものが張りつき、水気も多い。
これは——。セレナへ目を向ける。
彼女も床を見つめていた。不安げな顔だった。その踵の高い靴で、この先を歩けるわけがない。
「また、俺が抱えようか?」
「……大丈夫です」
「いや、でも――」
「大丈夫、です」
次は、強めに言われた。
「……分かった」
女心というものは、よく分からない。
身体に触れられること自体が、そもそも嫌なのかもしれない。
それなら、すでに一度ならず二度もやらかしてしまっているのだが。どちらにしても、今後こちらから強要するつもりはない。
セレナは慎重に一歩、二歩と進んだ。足元が僅かに震えている。どうするつもりなのだろうか。
すると、彼女は小さく息を整え、術を使った。足元を淡い光が包む。
移動を補助する占星術らしい。先ほどまで滑りそうだった足取りが安定した。
ただし、長時間持続するものではないようで、歩き続けるには一定間隔で術を掛け直さなければならない。
しばらくまた二人で進んだ。
レインは、セレナの様子を確認するため横へ顔を向けた。ちょうど術を掛け直したところらしい。
目が合うと、セレナは小さく微笑んだ。
そこまでして、人の手を借りるのが嫌なのだろうか。それとも、自分の力だけで困難を越えたいのか。
彼女は昨日、自由にやっていきたいと言っていた。この行動も、その延長なのかもしれない。なら、あまり邪魔をせず、見守った方がいいのだろう。
レインが小さく息を吐いた、その時だった。
流水音に混じり、別の音が聞こえた。
硬く乾いた皮膚が擦れるような足音と、金属の触れ合う音だった。
一つではない。こちらへ近づいている。レインは腰の短剣へ手を触れた。
「セレナ」
声を掛ける。彼女もすぐに気づいたらしい。
明かりを灯している短剣とは別に、もう一本の短剣を取り出し、こちらへ差し出した。
「使ってください」
「……準備いいな」
遠慮なく借りる。
鞘から抜き、刃を確認した。造りはガルドの短剣とよく似ている。
細部までじっくり見ている暇はないが、こちらの方が状態はよく、刃にも欠けがない。色合いが少し違う程度だろう。
水路の先。セレナの短剣に灯った光が、壁にその影を伸ばした。
人型だが、人間より背が低く、手足が不自然に長い。足音から三体ほどいる。
そして、風に混じって、鼻を刺す臭いが届いた。獣に近いが、どこか酸味を含んだ、湿った体臭だった。
――間違いない。ゴブリンだ。
魔物の中では比較的知能が高く、ただ突っ込んでくるだけの獣と考えないほうがいい。挟み撃ちや囮、待ち伏せもする。
暗がりの向こうから、一体が姿を見せた。ぎょろりと目がこちらを向いていた。
「ギャッ、ギャッ、ギャッ!」と甲高い声で鳴いた。
レインは駆けた。連携を取らせる暇は与えない。
ゴブリンが武器を振り上げる前に懐へ入り、短剣を走らせた。
首と胴の境が分かれた。割れた隙間から黒ずんだ液体が飛び散り、石床へ落ちた。
——借りた短剣は思った通り、切れ味がいい。
暗がりの奥に、もう一体いた。矢尻がこちらを向いていた。
弦が鳴り、矢が飛ぶ。レインは身体を傾け軌道から外れ、そのまま距離を詰めた。
硬い靴底で短い胴を蹴り飛ばす。
小柄な身体が横へ転がり、壁際へぶつかった。起き上がる前に近づき、顎下へ刃を深く突き立てる。
——あと一体。どこにいる? 周囲を見た。
この水路には、いくつもの分岐がある。間隔も不規則だ。暗がりへ逃げ込まれたのかもしれない。
レインは短剣を構えたまま耳を澄ませた。流水音が邪魔をする。追いかけるべきか。
いや。セレナから、あまり離れない方がいい。踵を返した。
元の道へ戻ったが、そこにセレナの姿がなかった。
「セレナ?」
声を出すが、流水音に掻き消される。
レインは少し声を張った。
「セレナ!!」
声が水路の奥へ反響した。
すぐに、前方の狭い分岐道から返事が来る。
「——こちらです!」
レインはそちらへ急いだ。ほどなくして、セレナが姿を見せる。
「ごめんなさい。短剣を落としてしまって……でも、すぐに拾えましたので、もう大丈夫です」
明かり代わりにしていた短剣を、手元が滑り水路へ落としたらしい。手元と衣服の裾から、水が滴っている。
「言ってくれたら、俺が拾ったけど?」
口から出た言葉は、自分でも分かるくらい、いつもより語気が強かった。セレナが少し黙る。
——それよりも、敵が迫っている状況で、一人で動くのは控えてほしかった。
人は気が動転すると、普段なら選ばない行動を取ることがある。彼女も、そんな状態だったのかもしれない。
「……次からは、そうしますね」
「ああ」
返事をしたあと、レインは小さく息を吐いた。
さっきの発言には、苛立ちが少し出ていたかもしれない。焦りも、不安もあった。
冷静さを失っていたのは、むしろこちらの方だったのかもしれない。自分こそ、気を付けるべきだ。




