草を食む
短時間で色々あったが、結果的に状況は好転した。
鉄輪がなくなった今、とれる選択肢は多い。このまま逃走するか、それとも。
——ガルドの短剣を回収しなければならない。それに、外套と靴。
いや、短剣は襲撃を受けたとき、町に落としたままなのかもしれない。
ミカゲたちが他人の落とした短剣をわざわざ拾うだろうか。
あの時は彼女たちにとっても切羽詰まった状況だったはずで、こちらを捕らえることの方が優先されていたように思う。
だが、今は真相は分からない。どうにか確かめたかった。
「あ」
さっき、アスターに聞けばよかったのかもしれない。
しまった。なぜ思いつかなかったのだろう。
とはいえ、もう姿は見えなくなっている。
追いかけたところで、あの長躯の男と再び鉢合わせるだけかもしれない。
……なんにしても、向かうべきはセレナの部屋だ。そこに行けば、少なくとも外套と靴は回収できる。
古城の中を歩かされたときの道順は覚えているので、あとは誰にも出くわさないように進むだけだ。
レインは古城へ続く道を歩き始めたが、その途中でふと足を止めた。
鉄輪が解かれた途端、意外と余裕があるもんだ。我ながら感心する。
「——こんなとこに生えているもんなんだな」
道の脇に伸びていた草へ手を伸ばし、その先の柔らかな部分を引きちぎった。
野生で生えているところを見るのは初めてだった。
王都でも行商の品に並んでいるものを何度か見た程度で、育っている姿を見ると、妙に新鮮に感じる。
指先で軽く揉み、匂いを確かめた。青臭さの奥に、鼻を抜ける爽やかな香りがある。
よく知った匂いだった。そのまま口へ運び、葉を食む。
噛むたびに青い味が舌へ広がり、そのあとから清涼感のある香りが鼻へ抜けていった。
——悪くない。
身体の匂いを現場に残しにくくするために始めた習慣だったが、今では無意識的に、こうして口へ運ぶことも多い。
ただし、他人にこの姿を見られるのは少々恥ずかしく、ミーナからはいつの間にか『葉っぱ収集家』などという不名誉な異名まで付けられていた。
寄り道は、これくらいで充分だ。
レインはもう少しだけ草をちぎり、口に運ぶと、再び古城へ向かった。
◇
古城に近づいたところで、レインは歩みを緩めた。
気味が悪いほど静かだった。
城の周囲には誰の姿も見えず、これだけ大きな組織の拠点なら、足音の一つくらい聞こえてきてもよさそうなものだが、それすらない。
さらに距離を詰め、黒玄石で築かれた外壁の陰からそっと中を覗く。本当に、誰もいない。
「……なんだか、不気味だな」
組織だった行動というものだろうか。
今は朝だ。どこかの大きな部屋へ集まって定期連絡でも聞いているのかもしれない。
あるいは、さきほどの長躯の男が根城へ向かったことで、何か騒ぎが起きている可能性もある。
どちらにしても、今は好機だった。
レインは記憶を頼りに、足音を殺しながら城内へ入り、階段を下りていく。
紺色の絨毯が見えたところで、階段を降りきる前に壁へ身を寄せ、周囲の音を確認した。
……本当に、何も聞こえない。
この階層には、いくつかの部屋があったはずだ。扉が開く音も、話し声もない。
しばらく待ってから進むと、拍子抜けするほど簡単にセレナの部屋へたどり着いた。
取っ手へ手を掛け、静かに回す。鍵は——掛かっていない。
念のため途中で使えそうな細い枝を何本か拾ってきていたのだが、どうやら杞憂に終わったらしい。
レインは扉をゆっくりと押し開けた。部屋の中には誰もいなかった。
暖炉では、小さな火が静かに燃えている。
独房へ連れていかれる前に見たときよりも、棚の周囲や机の上が少し荒れているように見えたが、何があったのかまでは分からない。
衣掛け台へ目を向ける。外套はない。
少し嫌な予感がしたが、長椅子の背もたれ側から回り込んで覗くと、そこに畳まれた外套と靴が置かれていた。そして、その上に。
「……あった」
鞘に収まった、ガルドの短剣。
レインは手を伸ばし、その柄を握った。使い込まれた感触が掌へ馴染む。
なぜか、少し懐かしい感じがした。
独房へ入れられて、まだ一日しか経っていないはずなのに。
腰へ短剣を収め、靴を履き、外套に腕を通す。
ようやく自分の姿へ戻ったような気がした、その時だった。
床が揺れた。
「……?」
いや、床だけではない。城そのものが揺れている。
壁の奥から鈍い軋みが響き、棚の上に置かれた小物がかすかに震えた。
暖炉の火まで不規則に揺れ、数秒ほど続いた振動は、やがて唐突に収まった。
「……何事」
思わず口から出た。
早く外へ出た方がいいかもしれない。
大きな魔物でも暴れているのだろうか。どのみち、ここから脱出するには外へ出なくてはならない。
レインは部屋を出た。
直後、階段の方から悲鳴のような音が反響して聞こえてきた。
続いて、複数の足音。ひとつやふたつではない。かなりの人数が、こちらへ向かっている。
……今は外に出ない方がいいかもしれない。
だが、どうする? このまま騒ぎが収まるまで、ただ部屋に隠れて待つのか。
そういえば、昔聞いたことがある。城には大体、抜け道がある、と。
敵襲を受けたとき、城主や重要人物を逃がすために造られるものらしい。それを探すか。
……今から? この広い空間を、自分だけで? あまりにも無謀すぎないか。
だが、どちらかを選ばなければならない。
レインが思案していると、この階層よりさらに下へ続く階段から、一定の間隔で足音が聞こえてきた。
上へ続く階段とは逆方向からだった。
さきほどの地揺れと、地上から響いてくる騒ぎとは対照的に、その足音だけは妙に落ち着いている。
踵の高い靴が床を打つ音だった。
レインは壁の奥まった空間へ身を潜め、身体を低くして、相手の視界に入らないよう様子を窺った。
やがて、こちらへ背を向けた人影が現れる。長い髪と見覚えのある服装だった。
「セレナ?」
思わず声を掛けた。
彼女は足を止めて振り向き、少し驚いた顔をした。
「……ここに、いたのですね」
落ち着いた声だった。
まるで、いずれ再び会うことが分かっていたような言い方にも聞こえる。
「なんか、上では大変なことになってるみたいだけど」
「ええ。わかっています。ご察しの通り、上には行かない方がいいでしょう」
「……理由を聞いてもいいか」
セレナは上の階へ目を向けた。
「さきほどの衝撃で、周辺の魔物が興奮し、こちらに集まってくるはずです。この一帯には大型の亜竜が住み着いていますから、今、外に出るべきではありません」
「亜竜……」
聞いた直後、上から大勢が階段を下りてくる音が響いた。
悲鳴に近い声も混じっている。どうやら地上にいる者たちも、その判断をしたらしい。
「付いてきてください。この城の抜け道を知っています」
セレナは向きを変え、一歩踏み出した。
「わかった。こっちなんだな」
レインはそう言うと、後ろからセレナの身体へ腕を回し、そのまま抱き上げた。
「えっ」
驚いた声が近くで響く。
レインは気にせず、下へ続く階段へ身体を向けた。
「間違ってたら、言って」
今の身体なら、一人で走るより多少重さが増えても、彼女の歩調へ合わせるよりこちらの方が速い。
セレナは少しの間、言葉を失っていたが、やがて何故か小さく笑った。
「……間違える前に、ちゃんと、教えますから」
「頼んだ」
レインはセレナを抱えたまま階段を駆け下りた。
鉄輪がなくなった身体は驚くほど軽く、足を踏み出すたび、先刻まで自分を押さえつけていた重さが消えていることを実感する。
二人が下の階層へ姿を消してほどなくして、大勢の者たちが上から逃げ込んできた。
元いた階層には、ようやく地上の危険から逃れた者たちの安堵の声だけが残った。




