見送った背中
アスターは、ミカゲとリュカと一緒に夜間の見回りをしていたらしい。
夜が明けた頃、持ち場を離れてこそこそと歩く派手目な女二人の姿が目に入り、不審に思って後を追いかけたという。それも、誰かの指示ではなく独断で。
レインは重い身体を引きずるようにして階段を上りながら、その話を聞いていた。
「俺を、独房から出して良かったのか?」
アスターは足を止めた。
少しも考える様子すらなく、あっさりと答える。
「はい。大丈夫だと思います。貴方の処遇については今、黒月内でも意見が分かれてまして。——さっきの雌犬共に告発されても、特に大きな問題にはならないと思います」
「……そうなのか」
随分と軽く言う。
だが、彼女がしたことは黒月の人間を攻撃し、捕らえていた人間を勝手に独房から連れ出すという行為だった。裏切りと言われても仕方がない。どうして、そこまで果敢に立ち向かえるのだろうか。
レインはアスターの顔をじっと見た。
しばらくすると、彼女の頬が少しずつ赤くなっていく。
アスターは視線を逸らし、小さな声で呟いた。
「そんなに見つめられると——」
「……ミカゲ達は?」
「え?」
言葉の終わりを待たずに尋ねると、アスターはきょとんと目を瞬かせた。
「規律に厳しそうだから、知られたら怒られるんじゃないか」
「あ、ああ。そっちですか……」
何やら小さく呟いたあと、アスターは咳払いを一つした。
「……大丈夫ですよ。彼女たちはセレナ側ですから、黒月の意思にはもとから背いてはいません」
どういう意味だろうか。
そのまま受け取るなら、セレナは黒 月の意思であり、グレゴル側はそうではないということだろうか。
「まぁ、勝手に動いたことについては、お小言くらいはあるのでしょうけどねっ」
言い方は明るかった。
怒られることまで含めて、いつものことだと言わんばかりの呆れた物言いだった。
アスターは再び階段を上り始めた。レインも、その後へ続く。
地下の湿った空気はまだ肌にまとわりついていたが、上へ進むほど黴の臭いが薄れ、代わりに外から流れ込む乾いた空気が感じられるようになった。
身体は依然として重い。首輪の影響だろう。
一段ごとに脚へ負荷が掛かり、普通なら気にも留めないほどの階段が、今は妙に長く感じられた。
しばらく進んだところで、アスターがふと足を止めた。片手を上げる。
「……人の気配」
声が小さくなった。レインも足を止めた。
静寂があった。階段の先から、僅かな風だけが下りてくる。
確かに、誰かがいた。レインにも、そう感じられた。
だが、しばらく待っていると、その感覚がふっと消えた。
「……気のせいだったみたいです」
アスターが言った。
いや。気のせいではないと思うのだが。
レインにも、はっきりと気配は感じられていた。
とはいえ、今の自分の状態はよくない。
身体の重たさに加え、独房から逃げ出したときの疲労もまだ残っている。
感覚そのものが鈍っていても不思議ではない。アスターがそう言うのなら、自分も勘違いしたのだろうか。
二人は再び階段を上った。やがて最後の一段を踏み越える。
視界に光が広がった。地上の木々が、微かな風に揺れている。
葉の隙間から朝の光がこぼれ、湿った地下に慣れた左目には少し眩しかった。小鳥のさえずりまで聞こえる。
つい先ほどまで黴臭い地下牢に閉じ込められていたとは思えないほど、外の景色は穏やかだった。
二人は古城の方へ歩き始めた、そのとき。
「——あれ。こっちじゃなかったか」
背後から、男の声が響いた。グレゴルのような粘りつく声ではない。
言葉の輪郭がはっきりとした、張りのあるやや低い声だった。
レインとアスターは同時に振り向いた。
長躯の男が立っていた。顔や露出した首筋、腕に至るまで、あちこちに古い傷が刻まれている。そして、一本の黒い槍を、肩に担いでいた。
レインの背筋に冷たいものが走った。少なくとも、常人ではない。
それ以前に、男が声を発するまで、存在に気づけなかった。さきほど感じた気配はおそらく、この男だ。
「何者です……⁉」
アスターが先に声を上げた。杖を両手で構える。
彼女の反応を見る限り、黒月の仲間でもないらしい。
男は面倒くさそうに頭を掻いた。
「ああ? 何者かぁ、だって?」
「……」
男は、そのまま考え込んだ。眉間に皺を寄せ、何やら本当に悩んでいる。
そんなに熟考を要することなのだろうか。レインが訝しんでいると、男は結局答えないまま、ふとこちらへ視線を向けた。
「まーだそんなもん使ってんのか」
男の目が、レインの首元へ向けられている。何かに気づいたらしい。ゆっくりと歩いてくる。
一歩、また一歩。黒い槍は肩に担いだままだが、敵意らしいものは感じない。
だからといって、警戒を解ける相手でもない。レインはどう応じるべきか迷った。
鉄輪で弱体化した今の身体で、この男を相手に何ができるのか。ここまで接近されてしまえば、抵抗する方が危険に思えた。
男の手が、レインの首元へ伸びる。
「なっ、なにを——」
アスターの焦った声。
男は気にする様子もなく、指先を鉄輪に刻まれた紋章へ向けた。
小さく何かを告げる。聞き取れない言葉だった。次の瞬間、首元から小さな音が鳴った。
「……?」
身体が軽くなる。全身を押さえつけていた重りが、突然消え去ったようだった。
レインは思わず首元へ手を伸ばす。何もない。鉄輪は消えていた。
外れて地面へ落ちた音もしなかった。足元を見ても、それらしいものはない。まるで、最初から存在していなかったかのように消え去っている。
レインは腕を軽く動かした。身体が、普段通りについてくる。
「どっ、どうやって……いえっ、どういうことなんですか⁉」
アスターが素っ頓狂な声を上げる。
男は、何でもないことのように肩をすくめた。
「いやいや。これで充分だったろ? 自己紹介としては」
「はぁ?! ただただ意味がわからないんですがっ」
「まあまあ。そう熱くなるなよ、お嬢ちゃん」
男は片手をひらひらと振った。
「第一印象なんて、実際のところ何の役にも立たねえからよ。気にする方が損ってもんだぜ」
ガハハ、と豪快に笑う。
まったく答えになっていない。アスターもそう思ったのだろう。口を半開きにしたまま、男を見ていた。
男は今度はレインへ向き直る。
「よかったな。これでもう自由の身だぜ。あんたは」
ニヤリと笑った。
レインはもう一度首元に触れる。
「……そう、みたいだな」
「いや~。珍しく良いことをした」
男は満足そうに頷いた。
「それにしても黒月は、やることが相変わらず暗いねえ」
レインは、その言葉に少し引っかかった。
まるで、昔から黒月を知っているような言い方だった。そして、黒月の呪具を、容易く消した。何者なのか。疑問は増える一方だった。
アスターはただ唖然としている。
男はそんな彼女を見て、何かを思い出したように声を上げた。
「ああ、そうだ」
アスターへ近づく。
「……?」
次の瞬間。
「えっ?」
アスターの身体が浮いた。男は空いた一瞬で彼女を抱え上げていた。
「ここのことよく分かんねえから、道案内頼むわ」
「えっ? えっ??」
アスターは状況を理解できていないらしく、男の腕の中で何度も瞬きをしている。
レインは、その様子を見た。
……今、彼女を助けるべきなのだろう。本来なら。
だが、この男からアスターに対する敵意は見られない。
たとえ、この男が黒月にとっての異端者だったとしても、今、自分を犠牲にしてまで歯向かう理由はなかった。
それに、アスターは強い。
先ほども魔法を駆使し、生きのいい女二人を一方的に砂へ埋めた。
困難な状況にも、自分から立ち向かえるほど前向きである。
そして、ミカゲやリュカ、セレナという仲間もいる。
——だから、大丈夫だ。……たぶん、だけど。
「ちょっ、どこ触って——じゃなくて、降ろしてってば!」
少し離れたところから、アスターの声が聞こえた。
男はまったく気にした様子もなく、そのまま古城へ続く道を歩いていく。
レインは、その背中を見送った。
「……ほんとに、何者なんだよ」
レインの呟きだけが、朝の風に紛れて消えていった。




