砂埋め
セレナが持ってきた、細くて硬いパンのようなものを齧る。
ガリッ、と乾いた音が鳴った。
「……硬いな」
——一応断っておくが、歯が弱いというわけではない。
人並み程度には状態も良いし、自慢するほどのことではないが、虫歯の一つもできたことがなかった。それでも、これは硬い。
ようやく砕けた欠片が口の中へ入る。さらに噛んでみると、今度は水分をほとんど感じない、ぱさぱさとした食感が舌にまとわりついた。
味も薄い。美味いかと聞かれれば、迷わず首を横に振るだろう。それでも、何もないよりはましだった。
レインは水の入った瓶を傾け、一口含んだ。口の中に残っていた欠片が水を吸い、あっけないほど簡単に崩れていく。
「……ああ、そういうことか」
水でふやかして食べる物らしい。最初からそうしておけばよかった。もう一口齧ろうとしたところで、足元に気配を感じた。
視線を落とすと鼠が一匹、そこにいた。薄暗い独房の中、円らな瞳でこちらを見上げている。
逃げる気配もなく、ただじっと、レインの手にある食べ物を見つめていた。
「……欲しいのか?」
当然、返事はない。人懐っこいのか、それとも、この場所にいる人間から食べ物を貰うことに慣れているだけなのか。
レインは残っている細い塊を折った。生じた小さな欠片を、鼠の少し手前へ落とす。
鼠は待ってましたと言わんばかりに駆け寄り、欠片を口に咥えた。
そのまま寝台の下へ潜り込んだ。暗くて奥までは見えない。どうやら、住処でもあるらしい。
「……同居人だったか」
レインは小さく息を吐いた。
さて。他にやることもない。寝るか。
このさきに何が待っているのかは分からない。だが、起こるかどうかも分からないことを、今から気にしても仕方がない。
それに、眠れる程度には充分疲れていた。幸か不幸か、硬い寝台には慣れている。
レインはセレナが持ってきた毛布を広げた。布地は薄い。
それでも、地下の冷えた空気を直接受け続けるよりは随分ましだった。彼女の優しさに、ただ感謝した。
◇
また、階段を下りる足音が聞こえた。今度は二人分。
石段を叩く足音に混じって、女たちの声が聞こえてくる。遠慮のない話し方だった。近づいてくるまで、その声量を落とす様子もない。
レインは薄く目を開いた。数刻は眠れたと思うが、もう朝なのだろうか。
「ねえ。やっぱり、やめとかない?」
片方は、少し大人しそうな声だった。
「何言ってるの。ここまで来て、何もしないとかあり得ないわよ」
もう片方は、まったく遠慮がない。
その足音は、レインの独房の前で止まった。
嫌な予感がする。レインは音を立てないよう、ゆっくりと身を起こした。
扉の向こうで片方の女が何かを唱えるのが聞こえた。
「——っ⁉︎」
全身が、一気に重くなった。もともと鉄輪の効果で身体は鈍っていた。
それが突然、何倍にも増したように感じる。見えない何かが全身にのしかかっているようだった。体幹だけでは支えきれない。
レインは咄嗟に手をつき、崩れ落ちそうになる上半身を支えた。
これは、かなりまずい。一度完全にひれ伏してしまえば、そこから起き上がれる自信がなかった。
「くっ……」
なんとか寝台から足を下ろす。
だが、首が限界だった。頭そのものが鉛になったように重い。下手をすれば、首の骨が折れるのではないか。
レインは寝台へ腕を乗せ、その上に頭を預けるようにしてうつ伏せになった。呼吸だけは止めず、ただ耐える。
やがて、鉄の扉が開く重い音がした。
一人の女が、何の警戒もない様子で独房へ入ってくる。
「あら。少し効かせすぎたかしら」
どういうつもりなのか。レインが顔を向けると、女はまた何かを小さく囁いた。
声は聞こえたが、言葉までは聞き取れない。何らかの呪文だろうか。
身体に掛かっていた重圧が、少しだけ薄くなった。
肺がようやく広がり、まともに息を吸える。
今の体勢はよくない。レインは寝台に手をつき、重い身体を持ち上げる。足元はまだ覚束ない。それでも、なんとか立ち上がり、女と向かい合った。
「そんなに睨まなくてもいいじゃない」
女は笑った。
「さっきのは、ちょっと加減を間違えただけで、悪気はないのよ」
——言っている言葉の意味が、分からない。
女は武器を身につけていない。殺しに来た、というわけではないのだろうか。
相変わらず服装は派手だった。露出も多く、肌の大部分が見えている。羞恥心というものが、まるでない。
しかも、香水の匂いがひどかった。鼻の奥へまとわりつくような甘い匂い。まだ黴の臭いの方がましだ。
こちらから仕掛ける余裕はない。相手がどう動くのかを見て、必要最低限で対処する。今は、それしかできない。
レインは女が立つ向こう側へ目を向けた。鉄扉は、完全には閉じられておらず、少しだけ隙間が空いていた。
「緊張しなくていいのよ」
女が微笑む。
「優しくしてあげるから」
その言葉で、ようやく分かった。この女、そのつもりで来たらしい。
女が両腕を広げる。そのまま、こちらへ歩み寄ってきた。
レインは相手を見た。この女は、一つ見落としている。
確かに、自分の動きはかなり封じられている。だが、変わらないことが一つだけある。
女が手を伸ばした瞬間、レインは前へ重心を預けた。踏み込むというよりも、身体そのものをぶつけるように押し込む。
「——っ!」
女の身体が後ろへ傾いた。そのまま勢いを乗せ、寝台へ押し倒した。
硬い寝台が鈍い音を立てた。背中には、それなりの痛みが走ったはずだ。
「あらやだ、大胆なのね……」
女は歓喜の声を上げた。
「……」
レインは鳥肌が立つのを感じた。
「ちょっと……!」
大人しそうな女の声とともに、鉄扉が、さらに開いた。
——いましかない。
レインは全身へ残っている力を振り絞った。寝台から身体を起こし、独房へ入りかけたもう一人の女と、扉の隙間との間をすり抜ける。
「えっ⁉」
肩が擦れた。それでも、止まらない。
独房を出た。上へ続く階段が見える。レインはそこへ向かって走った。
身体は、全身が鉛の塊になったように重かった。それでも階段へ向かう。
心臓が、激しく脈打っていた。いままで感じたことがないほど強くて、速い。どく、どく、と耳の奥まで響いていた。
呼吸が追いついていない。視界がぐらりと揺れた。
レインは階段へ手をつく。石の冷たさが、遅れて掌に伝わった。視界の端から黒く狭まっていく。——まずい。早く、呼吸を整えなければ。
背後から、足音が聞こえてくる。女たちの声も近づいてきていた。もう追いつかれる。ここまでか。
そう諦めかけた、そのときだった。
少し上から、短い詠唱が聞こえた。今度は、はっきりと言葉を聞き取れた。
「砂よ、奔れ——≪砂砲≫!」
風を裂く音が響いた。大量の砂粒が螺旋を描きながら駆け下りる。
レインの横を抜け、追ってきた女たちの顔面へまともに浴びせかけた。女たちが悲鳴を上げ、両手で顔を覆う。
だが、砂の放射は止まらない。
「≪砂砲≫! ≪砂砲≫! ≪砂砲≫‼」
容赦がない。砂が階段の下へ溜まり始める。女たちの身体が見る間にも埋まっていった。
「ちょっ、待ちなさいよ!」
最終的には、首から上だけを残して、二人とも砂の中に埋まっていた。
ようやく詠唱が止まる。
「ふぅ……」
術者が、一息ついた。
「危ないところでしたね」
レインは階段へ手をついたまま、顔を上げる。そこに立っていたのは——。
「……アスター?」
桜色の髪のハーフエルフの女だった。額には汗が浮かんでいる。それでも表情は清々しく、妙にやりきった顔をしていた。
砂の中から、女の一人が声を張り上げる。
「ちょっと! ふざけんじゃないわよ! あんた、何してるかわかってんの⁉」
アスターは眉を寄せた。
「あなた達の方こそ、何してるか分かってるんですかぁ?」
「はあ⁉ あんたみたいな下級兵の分際で、あたし達に口答えできると思ってるわけ⁉」
アスターは、大きくため息をついた。
「うるさいですねえ。エロババアのくせに」
「なっ——!」
女が反感の言葉を上げようとした。が、アスターの方が早かった。
「≪泥砲≫」
杖の先から、泥が跳ねるように飛んだ。べちゃっ、と嫌な音をたてた。女の顔へまともに掛かる。
泥はそのまま落ちることなく、まるで意思を持っているかのように顔面へ粘り付いた。
「んんっ⁉ んんんんっ!」
レインは、その様子を見て言った。
「……それ、窒息するやつじゃないか?」
「大丈夫です」
アスターは杖を下ろした。
「一応、仲間の認識はあるので、死ぬ前には剥がれ落ちるはずです」
一拍おき、言った。
「たぶん、ですが」
「たぶん、なんだ……?」
レインは砂に埋まった女を見る。泥の向こうから、くぐもった声が響いていた。
アスターは、もう気にしていないらしい。レインへ向き直る。
「さぁ。行きましょうか」
「……ああ」
いつの間にか、心臓の激しい鼓動は落ち着いていた。
身体はまだ重いが、ゆっくりなら階段を上れる。レインは壁に片手をつき、一段ずつ足を上げる。アスターが、その少し先を歩く。
二人はまだ知らなかった。階段を上がった先に、大きくそびえ立つ、一人の影が伸びていることを。




