冷たい夜
深紅の部屋を出ると、廊下には黒装束の女が一人、待つように立っていた。
見知った顔ではない。だが、纏っている雰囲気はミカゲとどこか似ていた。
髪も瞳も焦げ茶色。長い髪は乱れなく束ねられ、首の後ろで一本に編み込まれている。顔立ちから感情らしいものはほとんど読み取れず、ただ冷たい印象だけが残った。
女はセレナを見ると、軽く会釈した。言葉はない。
それから視線だけをレインへ移す。
「付いてこい」
女はそれだけ言うと、こちらの返事を待たず歩き出した。
歩き方にも隙がなかった。肩の高さはほとんど揺れず、足運びも一定。見た目以上に体幹がしっかりしているのだろう。腰には、短剣が二本備わっている。
レインはその後ろを歩いた。さらに少し離れて、セレナが続く。
しばらくの間、誰も口を開かなかった。目の前を行く黒装束の女も、後ろを歩くセレナも。
彼女たちは仲間ではないのだろうか。それとも、これが黒月という組織の空気感、なのか。
必要以上の会話をせず、命令と報告だけを交わす。そういう決められた行動が徹底されているのかもしれない。どちらにせよ、漂う雰囲気は冷え切っていた。
先ほどまでいた、香水と酒の臭いが充満した部屋とは違う意味で、居心地が悪かった。
やがて、黒玄石の床が途切れた。素足に伝わったのは、硬くて冷たい石ではなく、柔らかな土だった。
外へ出たらしい。道の両側には木々が並んでいた。
葉の隙間から差し込む光は弱く、古城の周囲にあった人の気配も、歩くにつれて薄くなっていく。
レインは目の前を歩く女の背中を見た。周囲に他の人物の気配はない。
——逃げるなら、今しかない。
鉄輪による弱体化はあるものの、目の前の女一人くらいなら相手にできるだろう。
ただ、無傷では済まないだろうが。問題は、その後だった。
ここがどこなのか分からない。山奥なら、魔物の存在も無視できない。武器は、この女を倒した後に短剣を奪えばいい。予測できないのは、セレナの動きくらいだった。
レインは、後ろを歩く彼女をちらりと見た。
顔色が、よくない。さきほどの部屋にいたときからだろうか。血の気が薄く見える。
視線が重なり、セレナは何か言いたげに口を開いた。だが、言葉は出なかった。
その様子を察したのか、先頭を歩いていた女が口を開く。
「変な気は、起こさないことです」
振り向きもしなかった。
レインは少しだけ沈黙し、言った。
「それにしても、ずいぶん歩くんだな」
目の前の女の返事はなかった。どうやら、会話をする気はないらしい。
再び足音だけが続いた。
やがて、木々の間に地下へ続く石の階段が見えてきた。
黒装束の女が、その手前で立ち止まる。今度はセレナへ振り向いた。
「セレナ様。ここまでで、充分です」
「いいえ」
セレナは小さく首を振った。
「そういうわけにも、参りません」
それ以上の言葉はなかった。
だが、黒装束の女が口にしたのは、明らかに気遣いだった。どういうことなのか、レインには分からない。そして、セレナを見た。
彼女は目を伏せ、階段の先を見ていた。顔色は、相変わらず悪い。この場所に、何かあるのだろうか。
——こういう人間らしい反応をされると、こちらとしても襲撃しづらい。
やっぱり、止めておくか。今は。
◇
地下へ続く階段は、思っていたよりも長かった。一段、また一段と、下りるほどに空気が変わっていく。その空気は冷たく、湿っていた。
鼻につくのは黴の臭いだった。
天井近くには、小さな光が一定の間隔で並んでいる。それだけが、細い階段と石壁をぼんやり照らしていた。
しばらくして、独房へ辿り着く。中は、想像していた通りだった。むき出しの石壁と硬く冷たい寝台。それ以外には、何もない。
鉄の扉は厚く、内側には取っ手らしいものすら見当たらなかった。どうやっても、中から開けることはできなさそうだ。
扉の上部だけが格子になっていて、そこから廊下を確認できる。
レインは部屋の中を見た。壁の隅に沿うように、やや太い溝が床に切られている。それは奥へ伸び、角の小さな穴へ続いていた。
「……」
説明されるまでもない。ここに用を足せということだろう。できることなら使いたくないが、そうも言っていられないだろう。
密閉されていないことだけは、せめてもの救いだった。格子の隙間に風の通り道がある。ごく僅かではあるが、空気が動いていた。
とはいえ終始、黴臭い。壁には薄く苔も生えている。この階層にいるのは、どうやら自分だけらしい。鼠が這う以外の物音は聞こえない。
廊下の隅を鼠が走った。天井には、手の平に収まるほどの蜘蛛が張り付いている。
「……ずいぶん、賑やかな同居人だな」
返事などあるわけもなく、蜘蛛は動かなかった。いつものように、餌を待ち構えているだけなのだろう。
雨が降れば、階段を伝って雨水が流れ込み、空間を濡らす。通気性が悪く、日も届かないため、なかなか乾かない。その結果、黴や苔が生える。そんな場所であった。
鉄の扉が閉じられた。金属同士が噛み合う、重い音だった。そして、二人の足音が遠ざかっていった。
レインは、冷たくて硬い寝台へ腰を下ろした。
結局、さきほどのセレナの反応が何だったのかは分からなかった。彼女は黒月の中でも、それなりの立場にいる人物だと思っていた。
だが、周囲からの扱いはあまり良くはなさそうだった。
そして、頭領のグレゴル。あの男が、この場所の長なのだとすれば。
「……明らかに、あいつこそが問題だろ」
思わず声に出た。
その一方で、先ほど自分を連れてきた黒装束の女。グレゴルや派手目な女たちとは正反対だった。
徹底した雰囲気を持つ彼女が、あの頭領に対して、何を思っているのかは分からない。ただ、反感を抱いている者が、一人もいないとは考えづらい。
どうやらこの組織は、一枚岩ではなさそうだった。
◇
夜になった。日が沈んだのを目で確かめたわけではない。地下の空気が先ほどよりもさらに冷えたことで分かった。
レインは寝台の上で身体を起こした。長時間、同じ姿勢でいると身体が硬くなる。立ち上がり、両腕を上げ、背中を伸ばした。関節が小さく鳴る。
この狭い部屋でできることは、限られていた。寝台に横になるか、僅かな空間に立って身体を伸ばすことしかできない。
自由がないというのは、思っていた以上に苦痛だった。
こんな経験は、初めてだ。そして、死ぬまでもう二度と同じ目に遭いたくはない。自慢にもならないことだった。
遠くから音が聞こえた。誰かが階段を下りてくる。石を打つ靴底の音が聞こえる。踵の高い靴なのだろう、聞き覚えがあった。
やがて、格子の向こうへ人影が現れる。
——セレナだった。片手には籠を持っている。中には、食事らしい細く角張った焼き物。水の入った瓶。そして、毛布が入っていた。
「今、渡しますね」
金属が小さく軋む音と共に、鉄扉の中ほどにある角枠が開いた。セレナが両手で籠を差し入れる。
レインは片手でそれを受け取り、もう片方の手でセレナの手を掴んだ。
「……」
冷え切った地下に長くいた自分よりも、彼女の手の方がまだ冷たかった。
「……離してください」
レインは落ち着いた声で言った。
「一人で来るなんて、……用心が足りてないんじゃないか」
彼女を傷つけるつもりは、毛頭ない。
ただ、ここで引き止めなければ、次にいつ会話ができるか分からない。
首元の鉄輪は、今のところ何も反応していない。セレナが強く拒絶すれば、どうなるかは分からないが、彼女もそれを分かっているはずだ。
人の優しさに付け込む、良くないやり方だった。
セレナは静かに口を開いた。
「おっしゃる通りです」
「……じゃあ、なんで?」
少しだけ、沈黙があった。
「……私自身でも、よくわかりません」
セレナはそう答えた。
どうやら食事も、水も、毛布も。彼女の独断で持ってきたらしい。その行動は、レインには罪滅ぼしのように思えた。
——俺の考えが合っていれば。
この先の処遇くらいは、聞いているはずだ。決める権限までは、無かったとしても。
とりあえず、会話には応じてくれている。レインはセレナの手を離した。冷えた指が、ゆっくりと角枠の向こうへ戻り、小さな扉が閉じた。
そして、レインは尋ねた。
「これから、俺はどうなる?」
「……。 今の時点では、何も決まっていません」
——おそらく、嘘だ。
最初の僅かな沈黙が、それを物語っている。この組織の権力は、あの頭領が握っている。これは確信だった。
少なくとも方針は、もう決まっているはず。早ければ明日、良くないことが自分の身に降りかかる。
彼女の言葉はその場しのぎで、自分を安心させるための精一杯の嘘なのだろう。レインは、それ以上追及しなかった。
「それなら、今日は安心して眠れそうだな」
彼女は僅かに間を置き、「……そうですね」と言った。その声は、少し掠れていた。




